第一話  悲しみの中で


 

 フィン・コール率いる部隊が『封印の地』に足を踏み入れた目的は、一重に『封印の地』の現状を調べることにあった。

 控えた『アーファリムの封印の地』にいる全ての魔獣の駆逐という大きな作戦を前にして、気になる点――聖戦において敵対行動に出る可能性が高い、ベアル教の動向を探る任務だ。

『封印の地』は一度開いてしまえば一週間は開かないので、フィンたちは六日間中で身を潜めることになった。普通の騎士ならば、魔獣しかいない不毛の大地で三日と生きられまいが、隠密行動に特化したフィンの騎士隊はそれを可能とした。

 総勢六名の聖殿騎士たちはゆっくりとながら『封印の地』を探っていく。
 時折魔獣との戦いこそあるものの、恐るべき悪魔――ドラゴンとの戦いは回避できたまま、すでに五日が経過していた。

 しかし、フィンたちの任務が順調かと聞かれたら、否と答える他ないだろう。

 灰色の空と大地が延々と広がる『封印の地』の風景は、変わることがない。
 ベアル教の情報はおろか、何一つ有益な情報は見つからずじまいであった。

 このままでは、偉大なる使徒フェリシィール・ティンクの信頼を裏切ってしまう。騎士であり敬虔なる聖神教の信者であるフィンにとって、それは耐えられない失敗である。

 そんなフィンの思いが通じたのか。最終日の今日、ついにフィンの眼前にそれは現れた。

「『封印の地』に、城……?」

 隊員の中、最も若い騎士ジョッシュが眼前にそびえる巨大な建造物を見上げて、呆然と呟いた。それは他の隊員の総意であったことだろう。

 それは城。打ち捨てられた世界にひっそりとたたずむ、朽ちた城だ。周りの風景と一体化しているかのような寂しげな灰色は、それでも強固な強さを見せつけていた。

「城――間違いないだろう。ここがベアル教『改革派』の本拠地、『ユニオンズ・ベル』だ」

 経験から一番に我を取り戻したフィンに続くように、隊員たちもまた我を取り戻す。

「フィン隊長。中に侵入を試みますか?」

「待て、危険だ。下手に足を踏み込んで全滅してしまったら、ここの位置情報を聖猊下の耳に入れることが叶わなくなる」

 やっと現れた功績にはやる隊員を、冷静な口調でフィンは諫める。
 
『封印の地』は特殊な異相に存在する一つの世界といわれており、この世界と元の世界とでは通信などを繋げることができない。神殿魔法級の魔法を使えばあるいは可能かも知れないが、そこには多くのデメリットが存在する。よって、フィンたちが『封印の地』の中の情報を外へ伝えるには、約束の時間までに来た道を戻り、二つの異相を繋ぐ孔へと戻る必要があった。

「隊長。入りましょう」

 その事情は皆が知るところにある。が、それでもジョッシュは侵入することを進言した。

 フィンは年若いジョッシュをじっと見つめる。若者らしい自信から来る発言ではなく、メリットデメリットの判断から進言していることは、これまでの彼の言動から推測することは容易かった。加えて隊長であるフィンは、ジョッシュが最近結婚したことを知っている。そしてその相手がエルフであることも。

「……いけるのか?」

「少なくとも、口がきける程度には持ちこたえてみせますよ」

 それは自分の力に対する自信か、あるいは愛しい女への信頼か。ジョッシュは明るい笑顔で頷いた。

 死なせたくないと、そう思う。結婚したばかりの若者を死の危険がある場所へなど向かわせたくないと。それでもフィンもジョッシュも使徒に命を捧げた聖殿騎士である。聖猊下のためにも、ここで引くという選択肢はなかった。

「……わかった。これより我が隊はベアル教の本拠地らしき城への侵入を試みる。各員、警戒は怠るな」

 遙かな空――そこから見下ろす猛毒の視線に、気付くことなく。

 


 

 リアーシラミリィのエルフにとって、絆というのは特別な意味がある。

 人と人とが繋がっていることを示す絆は、フローラリアレンスにとっては愛しい人との繋がりであった。この世で最も絆深き人と婚姻を結ぶ。そんな運命のような奇跡を、彼女は数ヶ月前に起こして見せたばかりであった。

 であるなら、これが奇跡の代価なのか。

「ジョッシュ……!」

 使徒フェリシィール・ティンク聖猊下近衛騎士隊に所属する魔法使いであるフローラリアレンスは、今し方執り行った[召喚魔法]の儀を経て目の前に現れた愛しい人を、呆然と見つめることしかできなかった。

「いけません、すぐに治癒の準備を! 治癒魔法を使える者はわたくしと一緒に!」

 儀式を見守っていたフェリシィールが、服の白い裾が床に広がった血で汚れるのに頓着せず、血まみれの騎士に駆け寄って即座に治癒魔法を執り行う。
 
 あらゆる傷を癒すフェリシィールの水の魔法――だが、それにも限界はある。
 すぐに傷口は塞がったが、それでも流れた血は補うことはできず、零れ落ちかけている命を救うことも叶わなかった。

「フェリシィール、聖猊下……」

「今はしゃべってはなりません」

 眼を覚ました騎士ジョッシュは震える妻を見ることなく、フェリシィールの金色の瞳を目に映して、口を開いた。

「それでは……隊長たちの命が、無駄に……報告を……ベアル教の……本拠地は……」

「騎士ジョッシュ。今は――

「聖猊下……お願いします。彼の言葉を、聞いてあげて下さい……」

 震えながらも口からもれた言葉に、フローラリアレンス自身が驚いた。驚いて気が付いた。自分は、ジョッシュに騎士としての本懐を遂げさせてやりたいのだと。

 血を口から吐きながら、それでも必死に口を動かしていたジョッシュが、そこで初めてフローラリアレンスに気付く。それでも彼は愛する人に何も言わない。視線だけで感謝を伝え――それだけでフローラリアレンスも彼の想いを理解した。

「……わかりました。我が騎士よ。報告を」

「はい。『封印の地』に、城が。サウス・ラグナの裏側に……ベアルの、城が。ベアル教はその城に潜み、そしてあの獣を――

 ゴプリとこれまで以上に血を吐いて、それでも騎士に努めを全うしようと、若き騎士はフェリシィールに必死に報告の義務を果たす。


――ベアル教は、ドラゴンを、従えさせています……!」


 音もなく儀式場に驚愕が伝播する。その中にあって、フェリシィールだけが驚きを見せず、誰にとっても憧れの姿のまましっかりと頷いた。

「ご苦労でした、我が誉れの騎士よ。あなた方の働きは、必ずや聖なる戦いの大きな助けとなることでしょう」

「もったいなきお言葉……私も、隊長も、みんな、も、これで報わ、れ…………」

 フェリシィールより賞賛のお言葉を賜ったジョッシュは、そこでようやく聖地と聖神教を守る聖殿騎士ではなく、一人の男としてフローラリアレンスに接することができた。
 
 しかし、もう彼はしゃべれない。何かを伝えたいように口を動かすが、言葉の代わりに血が湧き出るだけ。それでも縁を通じて、フローラリアレンスには全てが通じていたから……

 元より、フローラリアレンス・リアーシラミリィは覚悟をしていた。

 自分が長き時を生きるエルフであり、ジョッシュが人間であることを理解した上で結婚したときから、彼が自分を置いて死んでしまうことは覚悟していた。予定よりもちょっと……いや、随分早い別れにはなったが、それでもフローラリアレンスは彼に告げる最後の言葉を、あの白く眩い婚姻の場で決めていた。

 透明な涙を流しながら、フローラリアレンスは誇らしげな騎士に笑いかける。

 向けられる視線には謝罪と愛が。
 向ける視線には感謝と愛を。

――ジョッシュ。私と出会ってくれて、ありがとう」

 ああ、僕の方こそ――笑顔のまま事切れたジョッシュが、最後にそう言ったような気がした。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 ドラゴンは伝えられているところによれば、本能のみしか持たぬ獣であり、人が操ることは不可能と言われている。

 しかし、聖地が送り込んできた騎士たちを葬り去った堕天使の羽根を持つドラゴンは、紛れもなくベアル教の城『ユニオンズ・ベル』を守るために動いた。それ即ち、彼が理性をもって協力したということになる。

「まさか、ドラゴンが仲間になるなんてね」

 巨大な灰色の城のバルコニーから眼下を見下ろすヒズミは、何度思い返してもドラゴンが自分たちを守った光景が信じられなかった。

 以前、『封印の地』に潜った際に交戦した漆黒のドラゴンが、今は自分たちの仲間に。二重の意味で信じられない。しかし純然たる事実として、城の脇に控えるように丸まり目を閉じるドラゴンは、ヒズミたちベアル教に力を貸すことを約束していた。

「盟主様が驚くのも無理はありませんよぉ。私だって、今だにあのドラゴンが襲いかかってこないか不安なのですからぁ」

「ギルフォーデか」

 バルコニーにやってきた男を一瞥して、ヒズミはその名を苦々しく呼んだ。

 やってきたのは小柄で目が異常に細い男である。名をギルフォーデという彼は、『狂賢者』が戦力として連れてきたベアル教『改革派』のメンバーであった。

 歓迎されていないことを示す鋭い視線には気が付いているはずなのに、構うことなくギルフォーデはヒズミの隣に立つ。薄気味悪い笑みを浮かべて、彼は眠りにつくドラゴンを眺めた。

「何をしに来た? ギルフォーデ」

「いえ、少しばかりお話しを、と思いましてね。そう邪険にしなくてもよろしいでしょぉ? 我々は聖地に喧嘩を売った仲間なのですから」

「仲間、か」

 ヒズミはドラゴンをもう一度見る。そのときにはもう、ドラゴンに対する恐怖心はほとんどなくなっていた。

(ドラゴンも何も関係ない。どちらにしろ本当の仲間は姉さんだけなんだ。むしろ危険度でいえば、こいつの方が)

『裏切り』のギルフォーデ。何年も所属していたギルドを裏切って、破滅させた裏切り者。他者を騙し、裏切ることに愉悦を感じる生粋の狂人。背中を預けるのに、これほどまでに危険な男はいないだろう。ドラゴンとは別の意味で警戒しなければいけない相手だ。

「話ってのは何なんだ? 僕は忙しい。くだらないことなら聞く気はない」

「くだらないことではありませんよぉ。いえね。ディスバリエ様が申されていたのですが、どうやら聖地は早々に我々を殲滅しにかかってくるようですよぉ」

「……何が言いたい?」

「昨日ここに聖殿騎士たちがやって来たでしょう? 門番を務めるドラゴンに燃やされてしまったみたいですけどねぇ。彼ら、間違いなく偵察兵ですよぉ。つまり聖神教の使徒たちは、容赦なく我々を潰しに来るということです」

「そんなことは、最初から分かり切っていたことだ」

『封印の地』の中にある『ユニオンズ・ベル』であるが、ヒズミたちは外の情報をきちんと得ていた。

 聖地ラグナアーツは今、近くに控えた聖戦の話題で持ちきりだ。ラグナアーツに、今まで真実をぼかされて伝えられていた『アーファリムの封印の地』があることがはっきりと宣言され、その中の魔獣を殲滅にかかることが発表されたのだ。

 聖殿騎士団は着々と『封印の地』に潜る準備を整えている。盟約で結ばれしグラスベルト王国、エチルア王国からも援軍が来ることが決定されている。数こそ劣るだろうが、戦力は『封印の地』にいる十万の魔獣とも互角に相手取れよう。

 故に、話題の争点は『封印の地』最強の獣――即ちドラゴンをどうするかという話題に収束していた。

 人では決して勝つことの叶わぬドラゴン。噂ではかの竜滅姫が赴くという話しもあるが、その実使徒の一柱ズィール・シレが竜滅を担っているとヒズミたちは知っていた。

「あいつらは本気で『封印の地』の魔獣を駆逐するつもりさ。あのドラゴンも含めてね」

「ええ、ドラゴンも、我々も、そしてかつての仲間であった使徒スイカ・アントネッリ聖猊下も場合によっては殺すつもりですよぉ」

「…………」

 憎悪を越えた殺意の視線で、ヒズミはにこやかなギルフォーデを睨む。此処にいたって、ヒズミはギルフォーデが何を言いたいかに気が付いた。

「酷いですよねぇ。少し前まで一緒に笑いあっていた仲間を殺そうだなんて。世間ではあなたもまた聖神教側で戦うようなことを仄めかしているらしいですよ。それって十中八九、今回の聖戦で戦死したことにして葬り去るつもりでしょうねぇ」

 先日、巫女であったヒズミは、フェリシィールとズィールを裏切り、ベアル教側にいることを明確にした。これにより両者は完全な敵同士になった。仕方がない。最初からこうなることは覚悟していた。

 ヒズミとて、彼らには世話になった身である。この数年間の情がないとはいわない。けれど、それ以上に姉に対する思いと、故郷への思いが勝っているだけだ。

「あいつらが僕を殺すっていうなら、その前に僕があいつらを殺すだけだ。この答えで満足か?」

「ええ、満足ですよぉ。仰ぐべき盟主様に土壇場で裏切られては困りますからねぇ」

「どの口でそんなこと言うんだ」

 爪が突き刺さるほど強く拳を握りしめて、ヒズミはギルフォーデを侮蔑も露わに睨む。ヒズミが今まで出会った中で、このギルフォーデほど生理的な嫌悪を抱く相手はいなかった。

 仮初めとはいえ仲間でなかったら、今すぐにでも矢をぶちこみたくなる――それ程までにこの男は癇に障る。実際、今話しかけてきたのも、かつての味方と矛を交えるこちらを嗤いに来たに違いない。

「おお、恐い恐い。では私はそろそろお暇させてもらいましょうかねぇ。彼の治療が終わる頃合いですしぃ」

「さっさと行け。僕が我慢できている内になっ!」

 ヒズミの一喝に、ギルフォーデは肩をすくめて去っていく。

 ギルフォーデが見えなくなるまで睨みつけていたヒズミは、息を大きく吐いて、バルコニーの手すりに手を付いた。

「……やっぱり、誰も信じちゃいけない。この世界の誰も信じちゃいけないんだ」

 嘲笑いに来たとはいえ、ギルフォーデの話は本当だろう。

 フェリシィールとズィールはヒズミが裏切ったことは公表せず、あくまでも正義の味方のまま葬り去るつもりだ。もしも自分とあの恐るべき使徒たちが出会ったなら、そこで始まるのは殺し合いだ。

「この前まで好きだった奴でも、容赦しちゃいけないだ。姉さんを守るためには、姉さんと一緒に家に戻るためには」

 容赦してはいけない。殺さないといけない。そう、あの優しい姉がこれ以上傷を負わないでいいように、

「サクラは、僕が、殺す……!」

 自分が、必ず来るだろうサクラ・ジュンタを――殺さなければ。


 

 

『ユニオンズ・ベル』の地下は、研究を好む同士『狂賢者』ディスバリエ・クインシュのために、最先端の設備が整えられた研究所となっていた。

 床に描かれた魔法陣の数々と、壁に並ぶ棚一杯に揃えられた触媒の数々。中には人間の脳や眼球まである。場に満ちる空気は過剰なまでに魔力を孕んでいて、魔力に敏感な魔法使いでは長く居続けると息苦しく感じる場所であった。

 そんな中において、グリアーは込み上げる吐き気と戦いながら、薄い微笑みを見せる水色の髪の女と隣り合って、目の前で行われている実験を見ていた。

 耳には獣のうなり声にもならない、奇声じみた金切り声。
 どうすれば人がこんな声を出せるのかと思うくらい、それは苦痛に溢れた声だった。

「ヤシュー……」

 グリアーは露出の激しい自分の褐色の肌に指が食い込むくらい、強く強く腕を握った。

 今まさに複雑に編み込まれた魔法陣の上で『狂賢者』による実験を受けているのは、長年付き合ってきたグリアーの相棒であった。

 くすんだ金髪と少し濁った青い瞳。鼻筋を横切る傷跡が印象的なエルフの男である。本名はヤーレンマシュー・リアーシラミリィというが、長いという理由だけでヤシューと名乗り、呼ばせている。いつだって自信満々で、争い事やお祭り騒ぎを好んでいた。そんな男である。

 そんな彼が四肢を鎖で拘束された状態で絶え間なく叫び、悶えている姿を、今日見るまでグリアーは想像したこともなかった。

「……ディスバリエ。本当にヤシューの奴は大丈夫なんでしょうね?」

「これで、その質問は何度目でしょうね」

 剣呑な視線を横で実験を観察するディスバリエに向けると、彼女は労をいとうことなく四度目の説明を行った。

「先も申し上げたとおり、これは『儀式紋』本来の用途を用いるための処置。同士ヤシューが、おのが望みである『力』を手に入れるために必要な行程。故に――

「実験の成功を握るのはアンタじゃなくて、ヤシュー。わかってるさ、そんなことは」

 グリアーは視線を前へと戻す。

 魔法陣が招く色とりどりの魔法光を浴び、白目を剥いて絶叫を続けるヤシュー。彼の身体には血管のようにびっしりと輝く線が浮かび上がっている。以前『狂賢者』によって攫われたヤシューが施された、『儀式紋』と呼ばれる処置であった。

「彼の『儀式紋』はあくまでも実験段階のものでしたから、色々と不備が残っているのです。そのままでは、与えるべき力の大きさに耐え切れませんわ」

「それも聞いた」

 噂によれば単独魔法を儀式魔法として行使できるようになったり、ドラゴンの思考を読み解くために人体の魔法的な能力値を底上げする処置と言われていた『儀式紋』だが、その本来の用途は創造主であるディスバリエ曰く違うらしい。

『儀式紋』は『力』を得るための準備。つまりは『力』を入れるための受け皿でしかないのだとか。彼女のいう『力』の正体はわからなかったが、ヤシューの叫びを聞けば、それがどれほどのものかは否応なく理解できる。

(これがヤシューの望みだってことはわかってる。アイツがこんなところで負けるような奴じゃないこともわかってる。けど……)

 グリアーが夢を追うヤシューを見て、辛いと思ってしまうのは、止めてしまいたいと思うのは、きっと彼が苦しんでいるからだけではないのだろう。

 胸の奥で疼くのは一抹の寂しさ。相棒である自分を差し置いて、どんどん先へ向かおうとしている男に対する嫉妬と、このまま置いていかれるのではないかという恐怖。

 それでも、グリアーはヤシューを止められない。

 グリアーは誰よりも自分について把握していた。
 自分がヤシューに追随できないことは。自分が代償ある力を求められないのは。

「……負けるんじゃないよ。相棒」

 ――自分が一番、相棒の夢を叶えてやりたいと思っていることは。

 


 


「さて、どうやら治療は無事済んだようですねぇ」

 ギルフォーデは心地良い同士の苦痛の声を壁越しに耳にしつつ、地下の一角にしつらえた治療室へと訪れていた。

 無数の細かな魔法陣が敷かれた地面の上には、漆黒の甲冑が鎮座している。ギルフォーデは彼に対して数日がかりの治療を施していた。別名を改造ともいう。

「どうですかぁ? 身体のご調子は」

「……素直に驚いた、と言わせてもらおう」

 隙間のない全身甲冑をカタカタと揺らしながら立ち上がり、男はくぐもった声をあげた。さすがに疲労が隠せない声音だったが、スリットの奥に爛々と輝く瞳だけは、本来の気高さを忘れていない。

 彼に施した施術の苦痛と疲労を思えば、驚かざるを得ないのはギルフォーデの方だ。しかしそんなことはおくびにも出さずに、細い目をいっそう細める。

「確かに、驚嘆に値する施術だったと自負していますよぉ。私のみならず、『狂賢者』様や『教授』の理論も使った、まさにこの世の英知の結晶ですからねぇ。ここにある魔法陣の一つをとっても、現在の魔法技術の十数年先を行っているでしょうねぇ」

 明滅する魔法陣の明かりに下から照らされつつ、満足げにギルフォーデは頷いた。

 回復を果たした男は、自らの両腕を確かめるように手のひらを開いたり閉じたりしている。その度に漆黒の手甲が、まるで生きて血液が循環しているかのように蠢いた。

 いや、事実その甲冑が生きているといってもいいだろう。
 すでに人間だった彼と無機物だった『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』との境界線は崩れ去り、一心同体となった。

「よもや、人としての肉体を捨てることになろうとは。『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』と肉体との融合……悲しいものだな。こうなった今全身に漲る力は、全盛期だった頃に匹敵している」

「一度は本格的に死の淵に立ったのですから、それくらいのパワーアップは許されて然るべきではないですかねぇ」

 そこでいったん言葉を句切り、ギルフォーデは人間の身を止めた同士の名を、皮肉げに呼んだ。

「天秤の巫女――コム・オーケンリッター」

 呼ばれた男――コム・オーケンリッターはヘルメットを徐に外した。

 その下にあるのは積年と変わらぬ厳めしい面。しかし首筋には無機質に輝く鋼鉄が埋め込まれ、それは首元を埋める『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』まで伸びている。
 
 使徒ズィールとの戦いで身体の一部を文字通り『喰われた』オーケンリッターは、その部分を補うために身につけていた『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』との融合を余儀なくされた。生体としての機能を『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル 』の魔力に依存させ、何とか共生するに至っている。

 オーケンリッターが失ったのは両腕と右肩から右の肺にかけて。その機能を一部とはいえ無機物に頼っている以上、もはや彼は人間ではない。代わりに能力値も人間である頃を上回っている。こうして向かい合っているギルフォーデは、鬼気とでもいうべきオーケンリッターの眼力に若干心臓が握りしめられる思いだった。

 これだけは完全に無機物となった自身の腕を眺め、その違和感のなさにオーケンリッターは目を細める。

「とはいえ、これで余命幾ばくもない我が身の寿命のどれだけが削られたか。命の代償は命……これだけはしょうがないことか」

「今しばらくの我慢ですよぉ。此度の儀式が完成した暁には、あなたは命の限界から解き放たれるのですから」

「然り。そうであったな。ならば、この残された命はそのために使うとしよう」

 空間を切り裂いて召喚した愛槍を握りしめたオーケンリッターは、思い切り横へ薙ぎ払った。う゛ぉん、という微かな音のあと、凄まじい風圧が放たれる。

「我、聖なる誕生を祝福せり」

「『救世存在仮説』論――我々の手で、証明してあげるとしましょうかねぇ」

 そこにいたのは老いた騎士ではなく、かつて世界最強とまで謳われた『鬼神』その人であった。


 


       ◇◆◇


 

 

 裏切り者コム・オーケンリッターの私物は全て、然るべき調査がなされたあと、炎によって燃やされた。

 ベッドの一つから食器に至るまで全てだ。まるでそこにある汚れを炎によって清めるように。事実、それは正しかった。聖神教の聖地ラグナアーツ。その中央にある聖地の中の聖域たるアーファリム大神殿に、異端に走った男に影響のあったものは残してはおけない。

 アーファリム大神殿は『始祖姫』の名を冠する聖神教の総本山。世界の九割以上を占める信者たちの信仰の縁である。特にアーファリム大神殿の最奥にある『神居』は、指導者である使徒が住まう場所。絶対神聖であらなければならなかった。

 よって、炎が灰となって消えたあと、北神居の一室には何もかもがなくなっていた。

 部屋そのものに根付いた汚れを払うように聖水によってきれいに磨かれた部屋は、壁や床の白さを残すだけ。そこからは、ここの住人だった男がどんな人物だったか、もう読み解くことは出来ない。

 かつては巫女であり、敬虔なる騎士であった男の痕跡は、否定されるように消えた。
 今はもう消すことの叶わない記憶の中にしか、巫女コム・オーケンリッターという男は存在しない。

「…………」

 ……いや、本当にそうだろうか?

 部屋の入り口に佇む翡翠の髪と金色の瞳を持った男――使徒ズィール・シレは、そう思えて仕方なかった。

 誰よりも信じ、誰よりも頼りにした巫女コム・オーケンリッターなど、最初から存在しなかったのではないか。自分の記憶の中にいるコム・オーケンリッターは全て、仮面を被った裏切りの巫女でしかないのではないか。

 オーケンリッターの私物に彼が何を思い、何を考えてベアル教に入ったかは全く記されていなかったため、彼の真意はわからない。そして、オーケンリッターが自ら真実を晒すまで何一つ気付けなかったズィールにも、彼が何のためにベアル教へと入ったのかはわからなかった。

「生まれたときより共にあっていながら、自分は、何もわからない。ああ。貴様の言うとおりだ、オーケンリッター。自分は、自分の巫女であった者が理解できない」

 何もなくなった部屋を見たズィールの胸の内に入り込んでくるのは疑問だった。

 なぜ、オーケンリッターは裏切ったのか?
 なぜ、オーケンリッターは自分を憎むのか?

 一番近くにいながら気付けなかった使徒は、自分が過ごしたオーケンリッターとの時間に問い掛けようとして――止めた。

「どちらにしろ、貴様はもはや巫女ではない。裏切り者以外の何ものでもない。自分の『神の座』へと至る道に、貴様のことを考える時間は僅かも存在しない」

 決別はすでに終わっている。たとえ未だ新たなる巫女が選定されず、彼が生きている可能性が高くとも、もはやコム・オーケンリッターはズィール・シレの敵でしかなかった。

「貴様が乗る天秤に与える分銅は、もはや断罪しかあり得ない。今、貴様との時間を釣り合わせるときだ。コム・オーケンリッター」

 自分の金色の瞳にそっと触れ、何もなくなった部屋に背を向ける。

 沸き立つ疑問に背を向けるように。
 自身の宿命から目を逸らすように。

 何もなくなった部屋。それでも住人であった者の色を残す部屋から、原初へ回帰せんとする神獣は、無言で立ち去った。

 


 

 ヒズミ・アントネッリとコム・オーケンリッターの裏切りは、世間には公表されていない。当然だ。聖神教の指導者である使徒を支える巫女の二人までも異端宗教に手を貸し、しかも片方は悪名高いベアル教の盟主であったのだという真実など伝えられようはずもない。

 事情を知る僅かな人間には箝口令が敷かれ、アーファリム大神殿から消えた二人、そして弟を追うようにいなくなった一柱は来るべき戦いのための準備で忙しくて人前に出られないと嘘の情報を流している。

 そこまでしても人の噂を完全に食い止めるのは無理だろうが、数日前の自分たちがそうであったように、誰が使徒や巫女がベアル教に手を貸すと思うだろう。
 使徒は善の象徴。そう『始祖姫』の時代に決定づけられてから千年。人々の中にある認識は揺るいだりはしない。市政の人々に問題はなかった。

 問題があったとするなら、それは裏切った者に近しかった者たちか。
 クレオメルンが隊長を務める使徒ズィール聖猊下近衛騎士隊においては、その衝撃は酷いものであった。

――コム・オーケンリッターが裏切った件については、今話した通りだ」

 北神居の一階に三十人からなる近衛騎士隊の面子を集めたクレオメルンは、彼らの隊長として、望まれるままに嘘偽りない真実を彼らに語った。

 ずっと前からオーケンリッターが巫女ヒズミと共にベアル教にいたこと。彼らは使徒を根絶やしにせんとズィールとフェリシィールを騙して争わせたこと。戦いを経て、オーケンリッターはズィールが直々に裁きを下したこと。しかし、生きている可能性が高いこと。

「諸君らの心中は、私では察することが叶わないだろう。彼は貴公らにとって、偉大なる隊長であったのだから」

 ショックを隠せない隊員たちを見渡したクレオメルンは、毅然とした態度で口を開き続ける。

 クレオメルン・シレはまだ年若い。『聖君』という身分もあって近衛騎士隊隊長の任についたが、その実力をいえば隊員たちの中でも古参の者には劣る。そしてその古参の者らは、先代の近衛騎士隊隊長コム・オーケンリッターと共に、ズィールを守ってきた盟友であった。

 聖殿騎士として、盟友の裏切りに対し沈黙をもって答える彼ら――その心中にあるのはオーケンリッターへの怒りか、あるいは悲しみか。それとも……。

 それはクレオメルンにはわからない。ただクレオメルンは、現在の近衛騎士隊隊長として、言うべき言葉を発した。

「しかし、その上で私は言おう。我々はズィール聖猊下と共に『封印の地』へと赴く。聖地の騎士の象徴として、偉大なる使徒の盾となる。ズィール聖猊下の剣となり、あらゆる障害を打ち倒す。たとえ――

 そこでいったん言葉を切って、クレオメルンは皆の顔を眺めた。

 全てを理解した彼らは、じっと真剣な瞳で現在の隊長を見つめていた。その力を推し量るように。その器を確かめるように。

 コム・オーケンリッター――数日前までのクレオメルンなら、何の躊躇もなく胸を張って誇れた憧れの人。騎士道の偉大なる先達であり戦の師。

 使徒の近衛騎士隊隊長として、もう讃える言葉を言ってはならない敵となった彼は、それでもなおクレオメルンにとって見本だった。自分が隊長としてなすべき姿は、紛れもなく瞼の裏に焼き付いているから。

「いいや、その道にコム・オーケンリッターが立ち塞がったのなら、我らこそが倒さねばならない。使徒ズィール・シレ聖猊下の近衛騎士隊として。主に忠誠を捧げる騎士として。我らが掲げる聖槍に曇りはないのだから」

 短くなった翡翠の髪を揺らして、高らかにクレオメルンは槍を掲げる。
 
 その切っ先に合わせるように上げられた白銀の槍。翡翠の使徒を守る騎士たちは、迷うことなく騎士としての道を全うせんと前を向いていた。

 偉大なる人がいた。目標とする騎士がいた。

 たとえその騎士が道を誤ったとしても、その姿に抱いた憧れは間違っていなかった。理想の姿は変わることなく胸にある。

 巫女コム・オーケンリッター――たとえそれが偽りの姿だとしても、彼の姿は紛れもなく、聖なる槍の騎士たちの誉れだったのだから。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 フェリシィール・ティンクがその日、おのが巫女ルドールと共に訪れた場所は、主の姿をなくした西神居だった。

 元より、スイカが近衛騎士隊を持っていなかったのもあって人気は少なかったが、今では廃墟のように静かだった。オーケンリッターの私物の破棄を早々に決めたズィールと違ってフェリシィールはすぐに行動に移れなかったため、そこには使徒スイカ・アントネッリとその弟、巫女ヒズミ・アントネッリの生活の影がひっそりと残っていた。

「主よ」

「わかっています、ルドール。この塔をどうするかは、いなくなったスイカさんをどうすべきかはきちんと決めます」

 この西神居の塔にあるものをどうするかは、最年長の使徒であるフェリシィールに一任されていた。ズィールにその暇がない、と言い換えても良いが、どちらにしろスイカやヒズミの私物を片付けるかどうかはフェリシィールの采配次第だった。

 いや、片付けないという選択肢はそもそも用意されていない。
 使徒が住まう神居の塔は四つ。誰も住んでおらず空いている南神居は、その実ある一柱の使徒がいつでも入れるように空けられているため、現状塔に空きはない状態だ。

 ジュンタより知らされた巫女ヒズミの裏切り。彼がベアルの盟主であるという真実。そしてその弟を救うために消えた使徒スイカ。

 誰もが口にはせずとも気付いていた。もう、二人がここへと戻ってくることはないのだと。場合によっては裏切ったヒズミのみならず、その姉をも敵に回すことになる、と。

 だが、まだ希望が完全に費えたわけではない。少なくとも、今の時点でスイカがベアル教についた確証はないのだから。
 
 けれども……最悪の事態を、一番可能性の高い事態を想定すれば、先代の使徒ユリケンシュが没したとき、南神居にあった私物を弔いの火にくべたときのように、この塔にある主従の私物は葬り去らなければならなかった。

「せめて、此度の戦いが終わるまではこうしておきましょう。まだ、スイカさんまで敵となったわけではないのですから」

「主……ええ、わかりました」

 可能性の薄い選択肢を信じながら、問題を先送りにする。意味のないこの心内を読みとってくれた巫女は、何をいうでもなく後ろをついてきてくれた。

「スイカさん……」

 あの日――知らず彼女と決別してしまった日。この聖地を託すために言い含めた言葉が、時を経てフェリシィールの胸に戻ってくる。

「ヒズミさんが聖地を滅ぼすつもりならば、あなたがヒズミさんを守るというのなら、わたくしはあなたと戦わねばなりません。この世界を守るために」

 込み上げる涙を堪え、目の前に姿を現したスイカの私室の扉を開け放つ。

 スイカ・アントネッリが使っていた部屋の床には、一面畳と呼ばれる敷物が並べられていた。部屋に満ちる独特な空気はロスクム大陸特有のものであり、最初は何か落ち着かなかったが、今では逆に落ち着いてしまうようにまでなった。

 畳の上にクッションを置き、その上に直接座るというのもなかなかにおもしろい。
 スイカに招かれ彼女と一緒に笑い合った記憶は、長い時を生きるフェリシィールにとっては、すぐ昨日のことのように思えた。

 しかし、もうこの場所にスイカはいない。もう、二度と彼女が足を踏み入れることも、きっとない。

「フェリシィール聖猊下」

 主無き部屋にいたのは、侍女服を着たまだ年若い女性であった。

 艶やかな灰色混じりの茶髪と、ぱっちりとした明るい紫色の瞳。短めの髪には雅な髪飾りがつけられ、凛と立っている姿は一輪の花のような美しさがあった。

「ヨリ侍従長。ここにいらしたんですね」

「はい」

 名をヨリ・ヨルムという彼女は、若いながらもこの西神居の管理を一手に引き受ける侍従長であった。

 最近になって侍従長に昇格した彼女は、年齢はまだ二十になったころであり、世間一般の考えからみても侍従長にはいささか年齢が足りないように見える。能力が一際高くとも、若ければ経験が足りないためだ。

 しかし、使徒の暮らしを守る神居の侍従長としては、別段彼女のように若い女が選ばれるのは決して珍しいことではない。

 使徒は長い時間を生きるが故に、その一生の内に幾度と無く親しい者の死を経験せねばならない。だが、何も多く見るからといって悲しく思わないはずがない。親しい者が自分をおいて死んでしまう悲しさは、いつまで経っても慣れるものではない。

 そんな辛さをできるだけ味わわせないためか。使徒が幼い内は養育係も兼ねた経験豊かな侍従長がつくことが多いが、ある程度の年齢に達した頃には、まだ年若い侍従長に交代する。それはできる限り長い間、共にいられるようにという小さな配慮であった。

 ヨリ侍従長もまた、幼い頃より神居の侍従長となるため、特別に鍛えられた枢機卿の娘である。 世にいわせるところの大貴族の令嬢に匹敵する身分の高さを持つ彼女こそ、スイカのお世話をするために西神居へ招集された女性だった。

 いついかなるときも敬虔に、完璧なるサポートを行っていたヨリ――そんな彼女が今浮かべている表情は、どこか空虚さが混じった悲しみの表情であった。

「……聖猊下。申し訳ありません。わたくしめは、スイカ聖猊下のために何もして差し上げることが叶いませんでした」

 フェリシィールの姿を見つけるまで、そっとスイカが使っていただろう机を撫でていたヨリは、その表情を隠すように深々と頭を下げた。

「侍従長失格でございます。わたくしは自分がきちんと責務を果たしていると勘違いし、スイカ聖猊下のお気持ちにも、ヒズミ様のお考えも、察して差し上げることが叶いませんでした。何一つとして気付くことなく……そしてこの場所にはもう、誰もいません……」

「ヨリ侍従長……」

「申し訳ございません。申し訳ございません。わたくしは、わたくしは……!」

 自分の無力さに後になって気付く空しさに打ちのめされた若人を、気が付けばフェリシィールは抱きしめていた。優しく、優しく。それは母親が子供を抱くような、そんな温かな思いで満ちた抱擁。

「無力なのはわたくしも同じです。何も気付いてあげられなかったのはわたくしも同じです。あなた一人が自分を責めなくてもいいのですよ」

「ですが、わたくしは一番に近くにいておきながら、何も……」

 涙を流すヨリの言葉は、それ以上声にならなかった。

 生涯初めての挫折に、挽回できない失敗に震え、ただ涙する。
 その姿に、彼女の心に、フェリシィールは自分の心を重ね合わせた。

「好きだったのですね。わたくしも、あなたも、スイカさんとヒズミさんのことが、大好きだったのですね」

 頷く代わりに、ヨリは泣き声を大きくした。

 フェリシィールは抱きしめた彼女の頭を優しく撫でながら、そっと部屋を眺める。

 強く暮らしていた人たちの色を残す部屋。そこにあった営みを思えば、涙が出そうになる。
 けれど、ぐっと抑えた。偉大なる聖地の使徒フェリシィール・ティンクとして、自分を頼る人の前では弱いところは見せられなかった。

 ……しかし、きっと後ろにいる人には何もかもがお見通しだろう。視線を逸らすことなく見ていてくれるルドールの目は、とても優しかった。

 そこで家族も同じ人が見守っていてくれるのならば、きっと心の中では泣いていてもいい。

 フェリシィールは心の中で涙を流し、笑顔を浮かべながらヨリの涙を受け止め続けた。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 響く剣戟は強く、激しく、大きく、何よりも一撃一撃ごとに夥しい魔力を放出していた。

 彼の剣が纏う魔力に、制御を越えた量が注ぎ込まれているのである。それなのにいつもより制御が甘いために魔力が洩れだしているのだ。それでもなお[魔力付加エンチャント]が途切れないのは、さすがは使徒といえる。

 庭園を駆け抜ける速度も、剣速も、全てが加速の力に引っ張られ、彼が本来持ちうる身体能力の限界を超えて繰り出される。双剣使いである彼の剣は、どこか素人臭いのに、達人のように手の延長のような動きをしていた。そんなちぐはぐさは正道の剣技を習った人間には非常に戦いにくい。

「こんな澱んだ太刀筋で――

 しかし異国の容姿をした少年――ジュンタ・サクラと戦う紅髪紅眼の麗しき騎士姫は、剣に費やした時間から来る力で全ての攻撃をいなしていた。

――このわたくしを倒せるはずがないでしょう!」

 ジュンタの高速の突きを軽やかに避けたリオンは横手に移動し、突き出された剣を軽々と自分の剣で絡め取って見せた。ジュンタの右のドラゴンスレイヤーが、リオンのドラゴンスレイヤーによって空高く弾き飛ばされる。

「私は、あなたの苛立ちのはけ口ではなくてよ!」

「っ!」

 離脱して体勢を整えようとしたジュンタに対し、今度はリオンから仕掛ける。

 女性らしさを損なわない美しさを持つリオンであったが、その柔軟な全身を使ったバネと、何千、何万と繰り返された剣の型とが生み出す破壊力はシャレにならない。下手に受けたらその時点で剣を弾き飛ばされよう。

 双剣という防御に適した剣を使うジュンタは何とか攻撃を受け流そうと試みるも、その表情にいつもの冷静さはない。的確に流さねばならなかった力は少し横へと逸れただけであり、リオンの放った突きはジュンタの右腕に浅い傷をつけた。

「……つまらないですわ」

 間合いを取ったジュンタに対し剣を構え直しつつ、リオンは興ざめだと一言吐き捨てた。

「ジュンタ。あなたは言ったはずですわよね? 強くなるために一緒に鍛錬をしよう、と」

「ああ。もうすぐ『封印の地』への侵攻が始まる。それまでに少しでも強――

「では、これ以上この試合を続ける意味はありませんわね」

 強くなりたいという思いを吐露したジュンタに対し、リオンは自分の剣を指輪の形にすることで返答にする。

「おい、まだ戦いは――

「終わってますわ。いいえ、始まってすらいません。こんな戦い、いくらやっても私もあなたも強くなどなれませんわ。ただ疲労だけが溜まっていく……ならやらない方がマシというもの。反論など受け付けませんわよ? 私の言いたいことがこれだけ言っても伝わらないというなら、話は別ですけど」

 そうリオンが真面目な目つきで言い張れば、ジュンタは構えていた左の剣を力無く下ろすことしかできなかった。彼も自覚してはいるのだろう。今の自分の剣は迷いに揺れ、こうして戦っているのは、ただ苛立ちを紛らわせたいだけなのだと。

 クーヴェルシェンやサネアツと共に観覧していたユースでもわかったのだ。実際に戦っていた二人がわからないはずがない。リオンはジュンタに背中を向けて、苛立った足取りで屋敷の中へと入っていってしまう。

 残されたジュンタは剣を握らぬ右の拳を強く握って、ぐっと何かを堪えるように歯を食いしばっていた。

「ご主人様……」

「止めておけ、クーヴェルシェン。今はそっとしておいてやった方がいい」

 エルフの少女が自分の主を心配そうに見つめるが、駆け寄ることをユースの胸の中にいた白い子猫――サネアツが禁じた。ジュンタの幼なじみである彼がいうことには間違いがないと思ったのか、クーヴェルシェンは悲しそうに顔を歪めると、「はい」と小さな声を出して俯いた。

 ……一体、ジュンタに何があったのだろう?

 それはきっとクーヴェルシェンも、サネアツも、リオンも思っていることだ。もちろん、ユースも。

 眼鏡越しに見るジュンタは、傍目から見てもわかってしまうくらい何かに焦っていた。そして今の彼が焦る理由は、恐らく巫女ヒズミらの裏切りに発端するのだろう。使徒スイカと最後に戦ったという彼は、そこで何か焦らねばいけない理由を背負ってしまったのだ。

 だけど彼はそれを話さない。それが何よりも、リオンを苛立たせているに違いない。

「サネアツさん。申し訳ありませんが、私はリオン様の元へ」

「うむ。行ってやるといい」

 ユースは従者としてリオンの後を追おうとする。
 サネアツを抱える手の力を少し緩めると、彼はぴょんとクーヴェルシェンの帽子の上に着地した。

 子猫一体分の重さで、クーヴェルシェンの白い大きな帽子がずれ、ツン、と横に伸びた耳が帽子の下からのぞいた。その耳は心なしか垂れ下がっていた。

(……嫌な空気ですね。ジュンタ様が沈んでいらっしゃるだけで、皆さんの空気まで悪くなっています)

 軽くジュンタたちに会釈してから、ユースはリオンの元へと向かう。

 屋敷に入って、自室に戻っただろう彼女の後を追いかけて――その途中で別の男性に遭遇した。

「ああ、ユース。ちょうど良いところに」

「ゴッゾ様」

 廊下の向こう側からやってきたのは、シストラバス家の当主であるゴッゾ・シストラバスだった。いつもは浮かべている余裕たっぷりな微笑ではなく、凛々しい真剣な顔をした。

「フェリシィール様から通達があった。正式に『アーファリムの封印の地』に進軍する日が決まったんだ」

「それはいつなのですか?」

「今日から五日後――ジュリウスの月・十一日だ」

「やはり、本当にすぐなのですね」

 五日後という早い日取りに、ユースは僅かに眉をひそめた。

 元々『封印の地』に進軍することは決まっていたことだが、予定ではもっと先になるはずだった。準備を万全に整え、聖殿騎士たちの志気を高め、他の国からの援軍が到着してからに。が、ユースたちも知ることになったヒズミたちの裏切りは、そしてベアル教が『封印の地』内に城を築きドラゴンを御しているという情報は、もうのんびりとしていられる猶予がないことを示していた。

 未だ盟約が結ばれたグラスベルト王国、エチルア王国からの援軍は到着していない。恐らく五日後でも無理だろう。しかし、それでも今すぐにでも行かねば、逆に『封印の地』から魔獣たちが進軍して来かねない。そんな危うい状況なのだ。

「わかりました。リオン様には私の方から」

「何やらお怒りの様子だったし、私よりユースからの方がいいだろうね。私はジュンタ君たちに伝えてこよう」

 また竜殺しに特化した技能を持つ騎士団を抱えるため、聖殿騎士団と肩を並べて『封印の地』に潜ることになったシストラバス家の騎士団。予定通りに進まず、敵の毒牙が眼前にある状況に、さすがのゴッゾも僅かばかり焦燥を浮かべていた。

「では、ユース。リオンのことをよろしく頼むよ」

「はい。お任せを」

 去っていくゴッゾの背中が見えなくなるまで深々とお辞儀をして、ユースはリオンの自室を目指した。

「問題が山積みです。上手くいけばいいのですが……」

 そのユースの不安は、大なり小なり、ベアル教に手を貸す面子を知る人間全てが抱いている不安だった。

 聖地ラグナアーツを包み込む戦乱の気配。それはにわかに、皆から余裕を奪い始めていた。









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