第十四話  理想と現実

 

   
 神獣対魔獣の激突。翡翠の大蛇と呪いのドラゴンの戦い。いや、それはもう戦いというほどのものでもなかった。大地と空を巻き取る大蛇のあまりにも一方的な力は、弱い者虐めという言葉すら浮かぶ。

 あまりにも巨大であり長い身体を、尋常ではない俊敏性で動かして、ズィールはドラゴンへと襲いかかる。傍目から見ていたリオンからは、それがドラゴンへ仕掛けたものだとわかったが、別の角度、別の場所からは、ズィールがそこにある空間全てを圧殺しようとしているように見えたかも知れない。

 ドラゴンを中心として、身体を幾重にも渦を巻くようにくねらせるズィールの姿は、まるで神の威光を示す翡翠色の柱が生まれたかのような有様。

 恐らく中でドラゴンは空へと逃げようとしたのだろうが、もはや空という概念すらズィールの前ではないに等しい。空をも等しく圧殺する肉の壁は『侵蝕』の守りも、固い鱗も、黒い呪いすら辺りの空間ごと押しつぶした。

 地面を揺り動かして、身体を解いたズィール。

 舞い上がる砂埃は大気圏を超えると思うほど。果たして、ドラゴンはどうなったのか。計り知れない威力ではあったが、ずっと戦いを見守っていたリオンには容易く想像がついた。

「まだ、再生を致しますか」

 土煙の中、漆黒の闇が脈動する。

 肉片へと千切られ、心臓も頭も関係なく磨り潰されたドラゴンは、しかし死んではいなかった。――否、確かにドラゴンは死んだのだろう。ただし、消えてはいなかった。

 そこにドラゴンがいた――ただ、その事実があるだけで、ドラゴンは再び再生を果たす。

 雨のように飛び散った小さな肉片の一つが、ふいにまるで心臓になったように夥しい魔力を放出して鼓動を始める。一つの鼓動は大気を軋ませ、二つの鼓動は空間を汚し、千の鼓動は終わりの魔獣を産み落とす。

 ――オォオオオオオオオォオオオオオオオッ!!

 再び堕天使の羽根をばらまいて、この世に生誕するドラゴン。その姿にはいささかの変化もない。これであのドラゴンがズィールの抹殺を受けるのは三度目。毒々しい怪物としての姿は、未だ健在だった。

 呪いの触手を伸ばし、口から輝かない炎をドラゴンは吐き出す。
 俊敏ながら、その巨体故に避けることが叶わないズィールへとドラゴンの攻撃は次々に命中し、花火のように表面で炸裂した。

 人間なら十度肉体的・精神的に殺しても余りあるだろう一撃だが、ズィールの巨体を前にあっては小指の先を抉られた程度。それでも痛みにズィールはのたうち地響きを起こすが、すぐに反撃に出る姿に影響は見られない。

 ただ、それは見かけだけの話。実際のところは果たしてどうなのか。

 ズィールとドラゴンの戦いは規格外に過ぎて、どちらが真に優勢なのかということすらリオンにはわからない。

――リオンさん。ここにいましたか」

「フェリシィール聖猊下!」

 空を飛び回って必死にズィールの攻撃を避けるドラゴンを目で追いかけていたリオンは、近付いてきた相手がフェリシィールであったことに驚きの声をあげる。

「フェリシィール聖猊下。お身体の方は大丈夫なのですか?」

「ええ、助けてくださったことには深く感謝させていただきます。ですがお礼はまた今度にさせてください。今はやらなければならないことがありますから」

 射抜かれた腹部に痛々しい包帯を巻きながらも、誰かに支えられることなく立っていたフェリシィール。彼女の後ろには屈強なる騎士たちの姿があった。

「使徒ズィールががんばってくれているのです。わたくしはわたくしのやるべきことを行わないといけません。ルドールと約束した『召喚』の時間まで、もう時間があまりありません。ドラゴンの消滅を待つ前に、『ユニオンズ・ベル』を落とします」

 フェリシィールの語るルドールとの約束というのは、前もって金糸の使徒と巫女とが交わしていた、変更のきかない約束のことだった。

 この『封印の地』と聖地のアーファリム大神殿の繋げる門を開くことができるのは、神殿の契約している使徒のみである。よって、全ての使徒が『封印の地』にいる現状、再び聖地との道を開いて聖殿騎士団を帰還させるには、例外的にここから脱出が可能なフェリシィールがアーファリム大神殿に戻るしかないのである。

 それはルドールの[召喚魔法]によってなされるのだが、基本的に『封印の地』と外では連絡が取れない。よって[召喚魔法]を使い脱出するには、前もって約束の時間を決めておく必要があるのである。

 その時刻は無論のこと、連絡が取れないのだから変更することができない。こちらの状況が良くても悪くても、フェリシィールは約束の時間が来れば帰還せねばならないのだった。

「色々と計画に変更は出ていますが、幸いにも本隊は指揮系統が乱れてはいますが壊滅しているわけではありません。すでに新たな指揮系統の下、隊列を整えつつあります。城の前の魔獣も突破しており、あとは本隊を率いてベアル教の首脳部と交戦するまでです」

「では、聖猊下が直々に現場で指揮を取ると?」

「ええ。約束の時間までは。そこでリオンさん、あなたに一つお願いがあるのです」

 丁寧に現状を説明したあと、フェリシィールは本題に入った。

「報告にあるだけでも、指揮する立場にある師団長格の内半分近くが戦死や昏睡状態、行方不明という状況に陥っています。現場に出られる人間の数で言えばさらに少ない。わたくしが何とか使徒の権限で采配を取っていますが、わたくしは時間制限のある身」

 真剣に耳を傾けるリオンは、そこでフェリシィールのいわんとしていることが何かわかった。
 握ったままだった剣を指輪に戻し、フェリシィールの率いる軍に合流したシストラバスの騎士たちが連れてきた、愛馬シュラケファリの勇ましい蹄の音を聞く。

「竜滅姫リオン・シストラバス。あなたにはわたくしがいなくなったあと、指揮が執れる人間の中で最高位にあるものとして、臨時に全ての采配を預けます。預かってはもらえませんか?」

「ご期待には全力で。若輩の身ながら、必ずやご期待に応えてみせましょう」

 立て膝をつくことを、リオンは同意の返答と変える。
 
 時間稼ぎという役割はすでに終わっている。細々とした援護はシストラバスの騎士たちが引き受けてくれるはず。この戦場の状態と自らに負った名を思えば、返す答えは決まり切っていた。

「ありがとうございます。それでは行きましょう。今こそベアル教を終わらせるときです」

「はい、聖猊下」

 フェリシィールは頷いて、彼方を見る。
 ズィールとドラゴンが戦うその向こう。灰色の城は、不気味な沈黙を保っている。

 


 

       ◇◆◇


 

 


「一緒に行こう、スイカ。もう、泣かないで済むように」

 差し出した手と共に、告げた一言。
 それが今のアサギリ・スイカの全てを知った上での、ジュンタの第一声だった。

 スイカはジュンタの視線から逃げるように、自分の身体を隠す

 血で濡れた服。血で汚れた口元。血で汚れた手。

 それがなんだ。ジュンタはスイカに近づいていく。
 だが、ジュンタは拒絶をしなくとも、スイカの方は別だった。

「わたし、は」
 
深淵水源リン=カイエ』を杖に立ち上がったスイカは、途切れ途切れに言葉を発す。荒い息切れは激しい運動のようの後にも、ご馳走を前にした狂犬のようにも見えた。

「わたしは、たくさん、人を殺した。いっぱい、いっぱい、罪もない人たちを」

「俺に目の前で泣いている大切な女の子より、名前も顔も知らない誰かのために泣けっていうのか?」

「……わたしは、ドラゴンにリオンを殺すように命じた。ジュンタ君が好きな女の子のことを殺せ、と」

「それほどに意味のないことはないな。たとえスイカが命令したとしても、リオンは死なないんだから関係ない」

「…………ジュンタ君なんて、大、嫌い」

「だけど言ったろ? 俺はお前が好きだって」

 構えられた『深淵水源リン=カイエ』。ジュンタも黙って双剣を構えた。
 
 何もせずに手を握ってくれるなんて考えてない。戦うことでしか今は気持ちをぶつけられないってこともわかっている。

「手加減はしないぞ、スイカ」

「殺してみせる、君を」

 拳大だった『深淵水源リン=カイエ』の先についた水が、スイカがジュンタをほの暗い目で見た瞬間、爆発するように膨張する。質量にして数十倍。高い天井を貫くほどに長く、巨大な刃。青い水と、緑の血と、赤い血で編まれたスイカの牙。

 光が届かぬダンスホール。僅かに血で濡れた広々とした暗闇に、一対の虹の光が点る。ゆらりと蛍火のように残滓がのびるジュンタの双剣が発する光だ。

 楽団の調べはなく、喝采の声もないけれど、ここはダンスホール。

「ジュンタ君、お願い――

 ならば踊ろう、飽きるまで。
 君と手を繋いで踊りたいんだ。


――死んでください」


 降り注ぐ水の弾丸は雨粒のダンスを演じる。無数の弾丸は床にぶち当たって炸裂し、破砕音を奏でて前奏と変わる。その調べに耳を傾け、ジュンタはリズムを取るような足取りでスイカめがけて走り出した。

 稲妻の如くジグザグに、カーブの度に床が陥没する。
 身体のすぐ横を水の弾丸が降り注ぐ中、ジュンタは笑みさえ浮かべていた。

 雨が上がったあとにかかる虹。雨粒に濡れることなく駆け抜け、虹の刃が未だ床に立てられた『深淵水源リン=カイエ』に激突する。

 左右同時の攻撃。並の剣では両側から同時にかけられた負荷に砕け折れていただろうが、『深淵水源リン=カイエ』は罅一つなく初撃を受け止める。スイカは意識を半ば手放したような瞳で、しかし手元だけはどこまでも冷静に動いていた。

 床から石突きが離れた直後、スイカの身体と共に『深淵水源リン=カイエ』が九十度回転する。
 柄の下部を握ったスイカは回転の勢いを利用して、そのまま横殴りに薙ぎ払いを払った。上から下への薙ぎ払い。張り付いている以上、この攻撃は避けきれない。

 それをジュンタは剣で上手く自分から弾かれに行くことによって凌いだ。足下を狙ってきた攻撃を左の刃で防ぎ、衝撃の反動を利用して跳躍。跳び膝蹴りをスイカの肩めがけて放った。

 スイカはカウンターを冷静に見切ると、身体をよじりながら強く石突きで床を叩いた。それを合図とするように、床に散らばっていた『深淵水源リン=カイエ』の刃が巻き戻るように刀身と変わる。

 完全に最初の状態に刀身が戻るまでにかかった時間、僅か三秒。液体の限界を遙かにこえた収束と再生。

 来る。

 ジュンタはスイカの動作に殺意が乗せられたことに気付き、もう一歩彼女に近づいた。

 薙刀状。帯状。液体状と、あらゆる形に変形できる『深淵水源リン=カイエ』との戦いで最も安全な場所は、持ち主の近くだと前回の戦いから学んでいる。だが、それはあくまでも持ち主に近ければ、自分に当てないためにも広範囲に広がる攻撃を撃てないだろうという前提からなる話。
 接近し、近くからスイカの双眸を見たジュンタは、そこにある感情を見て今はこの戦術が通用しないことを悟った。

「死ね」

 理性をなくした獣の瞳。呪いの言霊を孕む死の宣告。
 自分もろとも水の刃の濁流を降らせたスイカに、ジュンタは遮二無二彼女へと飛びつくようにしてダイビングした。

 直後、一点に集中して落下した濁流が床に深い穴を掘る。避けなければ全身の骨を砕かれていた。自分だけじゃなく、スイカまでも。

「触らないで」

「ぐっ」

 自分を抱き留めたまま床に滑り落ちたジュンタの首を、スイカは拒絶と共に右手で押さえつけた。床との間で圧迫され、呼吸をしても酸素が肺まで届かない。さらに肺を思い切り肘で抉られ、肺の中にあった空気が全て外へと逃げる。

 決して近接戦に優れているとはいえないスイカだったが、その独特な戦い方は上手い。リオンのようなパワーとスピードで戦うのとは違い、彼女は技術と技巧で戦う。

 力も強くないのに、押さえつけられた状態から抜け出せない。このまま呼吸をせき止め、窒息させるつもりなのか。見下ろすスイカの目には相変わらず感情というものがなく、濁った殺意に凍えていた。

 スイカはジュンタを殺せないと言っていた。恐らく、理性を封じ、激情に身を任せないと殺せないとわかったのだろう。今のスイカに人間味というものは存在しない。

(ここで俺が殺されれば、お前はそれで満足なのか? スイカ。それで、そのあと元気で笑って生きていけるのか?)

 さらに力をこめて押し込んでくる腕に首の筋肉だけで抗い、ジュンタは歯を食いしばる。

(俺にはそうは見えない。自分を殺したまま誰かを殺せば、結局自分も殺してしまう。それが自分でもわかっている癖に……)

 元々、戦う前からジュンタの身体は大きなダメージを受けていた。
 強敵ヒズミとの激闘で使った『居合い・偽』と[稲妻の切っ先サンダーボルト]。どちらも疲労とダメージを重く身体に残している。

 一度足を止めればそのまま寝入ってしまいそうなほどの疲労を抱えたままの連戦。ヒズミと比べても遜色ないスイカとの戦いなどできるはずなかった。

 だけど……負けられないし、やるしかない。

 最初からダメージを負ってるなら、多少無理してでも問題ない。

「死んで。殺し……殺し、殺さないと」

「ぎ、ぐっ」

 自分に言い聞かせるようなスイカの独り言に、酸素不足から霞む視界が弾けるようにクリアになる。ジュンタは相手の害意をはねのける力をイメージして強く睨みつける。

 イメージ。摩擦と湾曲。全身に纏う侵蝕の虹を背中に集め、自分の目にしか見えないソレを擦り合わせるようにして研ぎ澄ましていく。摩擦で起きたエネルギーは湾曲し、肥大化し、一方方向にダムが決壊するように流れ出た。

 バチリッ!

 ジュンタと床の間で激しいスパークが起きる。蜘蛛の巣状に炸裂した虹色の放電は『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』で被っていない部分を焼くが、感電はしない。雷の魔法属性を操り、纏うジュンタは雷撃に対する抵抗力が高い。

 だが、水の魔法属性を操り、纏うスイカは……

「きゃっ!」

 雷の帯がスイカに触れた途端、彼女は口から悲鳴をあげ背中を反らせた。

 拘束は弛み、ジュンタは一気に抜け出る傍ら、痺れたスイカを肩で押し、今度は自分がマウントポジションを取る。戦いの意志云々を抜かせば、ジュンタの魔法属性と魔力性質はスイカに対して有効だった。

 しかしジュンタはスイカとは違い、彼女を拘束しておく特殊な技術を知らない。さらにスイカの『深淵水源リン=カイエ』が落とし穴から這いずり出てくるように刀身に戻っている。手首の動きも必要とせず矢のように飛びかかってくる水に、ジュンタはマウントポジションを維持することができず飛び退いだ。

 ゆっくりと身体を起こしたスイカは、手首を軽く動かし、刀身を巨大な薙刀の形に戻す。

 そこからは前回の戦いとよく似た攻防だった。

 距離を取って着地してしまったため、スイカの繰り出す多種多様な変化と攻撃にジュンタは翻弄され、なかなか近づくことができない。双剣を防御に回して凌ぐが、前回よりも増した単純な物量差に接近のタイミングを外される。

 雨あられと降り注ぐ上からの攻撃。足首を切り裂こうとする鎌の一振り。真正面から貫こうとするランスの投擲。

 一人の人間と戦っているというより、砦に籠城する敵と戦っているよう。やはり、スイカを攻略するには接近して強引にでもダンスを演じてもらうか、あるいは決定力のある一撃必殺に頼る他ない。
 
 かといって[稲妻の切っ先サンダーボルト]は威力がありすぎる。『居合い・偽』は旅人の剣を少なくとも数十メートルは離しておかないといけない上、鞘として使った方の手を犠牲にする。再び左手を鞘に使ったら、当分動かなくなるのは間違いない。

 ここで新技を思いつくのはさすがに厳しい。『深淵水源リン=カイエ』の変幻自在なる技の冴えを前にしては、隙を狙うことすら難しかった。

 網のように天井に広げられた刀身が、格子の形を維持したまま振り落ちてくる。以前ワイバーンに対してスイカが使った変化だ。これでは素早く動くことで攻撃を避けていても意味がない。

 ジュンタは思いきり魔を払うドラゴンスレイヤーを直上に向かって投擲。切り裂かれた格子部分が塞がる前にそこの部分を通り抜けて上に抜け出る。そして予想通り、地面一杯に広がった水の刀身が棘をはやすのを見て、足場にするために旅人の刃を真下に向かって突き立てた。

 まるで曲芸だ。

 ズルズルとスライムのように『深淵水源リン=カイエ』の刀身が回収されていくのを見ながら、ジュンタは自分の戦い方をそう評じる。相変わらず優雅さとは無縁の泥まみれの動き。回転しながら落ちてきたドラゴンスレイヤーを軽く掴み取りながら、ジュンタは自嘲する。

「だけど、これではっきりした」

 多種多様な動きで迫るスイカに、多種多様な回避で相対したジュンタは理解していた。五分程度の僅かな時間だが、明らかに前回戦ったスイカよりも、

「弱い。スイカ。前に戦ったお前の方が遙かに強かった」

 ぴくりと、無言で戦い続けていたスイカの肩が揺れた。

「全部を押し隠して、我慢して、それで戦う? 強いわけないよな。ヒズミのために必死に痛みを噛み殺しながらも戦ってたスイカに比べて、今のスイカが強いわけない。そんな攻撃が、俺を倒せるわけがない」

 床に下りて、踵で蹴り上げた旅人の刃を左手でキャッチする。

「だからもう諦めろ。今俺がお前を爆発させてやる」

 闇夜を切り裂く虹の閃光。
 スイカが行動を移す前に、ジュンタは彼女の懐の中へと肉薄した。

「反応が鈍い。行動が遅い。変化が乏しい。今のままじゃ何もなせない」

「勝手なこと、言わないで!」

「そうだ。諦めたくないならもっと吼えろよ!」

「目上、視線で!」

 スイカの何の感情もなかった瞳に強い光が映る。
 怒り、憎しみ、そういった負の感情。だが、絶望に耐えて色をなくした瞳より何倍もいい。

 放った突きは、強い感情を乗せられ、爆発する前衛的なアートのように変化した『深淵水源リン=カイエ』に止められる。突き出した水の棘に逆に腕を抉られたが、ジュンタは止まらない。

「目上視線にもなるだろ。殺してくれてもいいって、そんなこという奴が目の前にいるんだから!」

 思い切りドラゴンスレイヤーを振り下ろす。
 切り裂く直前、スイカの身体が横へと流れ、衝撃にジュンタの身体は殴り飛ばされた。

「うるさい! わたしとヒズミを苦しめた元凶が、勝手なこといわないで!」

「勝手なのは……どっちなんだよ……」

 壁に思い切り激突した衝撃と、水のハンマーで殴り飛ばされた衝撃。両方のダメージに右目を赤いカーテンが覆う。痛みがヒズミとの戦いのダメージも思い出させるが、大丈夫。立ち上がれないことはない。

 そうだ。いい加減、ジュンタはうんざりしているのだ。スイカの見せる瞳に。

「誰が好きでお前を傷つけたよ。誰がやりたくてお前と戦ってるんだよ。救ってやりたいと思って助けに来たのに、なんでスイカに剣を向けないといけないんだよ」

 右目を拭う。血が目に入ったが痛くはない。じくじくと痛むこの心臓に比べれば、こんなの痛い内に入らない。

「傷つけたくない。戦いたくない。だけど、そうしないといけないから戦ってる。これが一番にわかりあえう方法だと思ったから戦ってるんだ。なのに、お前は心を閉ざして……救ってやりたいって思ってる奴がここにいるんだ。少しくらい、救われてやる気持ちで戦いやがれ!」

傲慢な叫びで痛みをかき消して、呆然と目を見開くスイカへとジュンタは走り寄る。

 今度こそ、その無防備な懐へと入り込んだジュンタは、旅人の剣を投げ捨て拳を握りしめる。

「それが、救って欲しいって顔してる奴の礼儀ってもんだろうが!」

「あ……」

 防御しようとしたスイカの動きが止まる。
 ジュンタはそれを見ても止めることなく、握った拳を振り抜いた。
 
 黒こげの左ストレートを思い切り頬に。殴られた奴より殴った奴の方が痛いっていう、何とも意味不明な渾身の一撃を。

「いい加減に認めたか、スイカ。俺はお前が弱い奴だってことを知っている。ただの女の子だってことを知っている。救われたいって、そう思ってるって確信を持ってる。それでもまだ我慢して、自分を裏切ってまで獣になりたいっていうなら、いいさ、何度でも殴り飛ばして調教してやる」

 勢いよく殴り飛ばされたスイカは、倒れたまま立ち上がろうとしない。

 ジュンタはそんなスイカを見て、再び強く拳を握った。
 気に入らない。ばらまかれたネガティブが気に入らない。スイカの顔が気に入らない。我慢したまま暴走しているその姿勢が気に入らない。

 泥だらけで大いに結構。気に入らないから殴るのだ。

「安心しろよ、俺も痛いが我慢してやる。我慢比べが好きなんだろう?」

 伸縮する槍のような一撃が、ジュンタのボディを打ち据えた。
 倒れたまま『深淵水源リン=カイエ』に命じて攻撃したスイカは、よろめきながら立ち上がる。

 同時に、殴り飛ばされたジュンタもまた、立ち上がった。

「我慢比べに勝ったら褒美をやるよ。結局、お前は我慢を終わらせるタイミングを知らないからそうなったんだ。目の前に基準がいたら、我慢のしがいもあるだろう?」

「わたしが勝っても、わたしが負けても、結局そこで我慢は終わり。それはもうゲームでもない。君のただの我が儘だ!」

「我が儘で何が悪い」

「それは理想だ!」

「理想で何が悪い!」

 俯くスイカをジュンタは胸を張って見下ろした。

「現実を見据えて動くのは性に合わない。その場その場で動いてるのが俺らしいが……どうせやるなら理想を追い求めている方がいい。理想を捨てて現実を見るのはまだ早いよ」

 空間を切り裂いて旅人の刃が左手に帰還する。握りしめた手の中に、握りしめられたままの刃が宿る。

「俺は理想を語ってやる。理想だけを語ってやる。今回はそうするって決めたんだ。現実が知りたいなら、あとでいくらでも教えてもらえるさ。だから今は理想を教えてやる」

 現実を語り、現実で支え、現実で笑わせようとしている奴を知っているから、そいつの出番を奪っちゃダメだろう。

 ジュンタはそう思うから、自分ができるアプローチで行くと決めたのだ。結局、自分に嘘をついてまで、我慢してまで吐いた言葉より、こっちの方が真に迫るに決まっている。

「俺も助かって。スイカも助かって。ヒズミだって幸せ全員幸せそういう未来。理想だろ? 現実問題無理っぽいとか、そういう言葉を吐く前に思っただろ? これが――理想だって。
 現実なんだと口にしたところで、結局はそういうことだろ? アサギリ・スイカは理想を捨てられない。現実だけじゃ生きられないから、我慢してるんだ」

 果たして、スイカは何を我慢しているのだろう?

 痛み。憎しみ。辛さ。悲しみ。それとも殺意か。
 なんだって関係ない。結局我慢するってことは、我慢しないで出したい何かがあるってことなのだから。それを臆せず言えることが理想といわずに何という。

 現実的にはアウトだろう。社交術。空気読めない。理想だけじゃ色々言われる。叩かれる。

 だけど、誰にもぶちまけられないなら、結局たまるに決まってる。スイカをここまで追い詰めたもの。色々とあるが、たぶん一言といえば一言なんだろう。

「ストレスだ。今自分を傷つけてるものが何だか知らないなら、俺が教えてやるよ。スイカ。お前が我慢してるそれはな、ストレスっていうんだよ」

「スト、レス……?」

 スイカが乾いた声で笑った。

「そんな一言で終わらせようっていうの? 故郷を奪われて、弟も幸せにできなくて、人を殺して、人を殺さないといけなくて、人を殺したくなるこれを、ただのストレスで片付けるの?」

「ストレスなめるな、日本人。怠惰が天使を殺すなら、ストレスは人を殺すんだ。もう一度いうぞ、スイカ。お前――

 さぁ、もう少しだ。と、ジュンタはこの上なく小馬鹿にするようにせせら笑った。


――我慢比べが好きなだけなんだろう?」


――――偽装する

 今日最大の反応は、世界を軋ませる音で帰ってきた。

 高く掲げた『深淵水源リン=カイエ』の切っ先に、渦巻くように水が集まっていく。元からあった分だけじゃない。部屋の中、部屋の外からもあらゆる液体をかき集めていく。ジュンタの流した血もまた、容赦なく剥がれ落ちて形作られる球体の一部となる。

 その下で、スイカは怒りに爛々と瞳を輝かせながら、偽装の唄を口にした。

もやがのぼる海原へ。霊を乗せた船は旅立つ

 ジュンタは突如全身に水流がからみつくような錯覚に襲われた。いや、これは錯覚ではない。腕は鈍り、足は取られそうになり、息を吸うことすらできなくなる。

我が心は岸辺を離れども。船には乗れずに水面を漂う

 ここは水の中。遙かな海の底。なぜならば、視界の先には視界一面に広がる水の姿がある。

 故に、ここは水の底。

水よ。水よ。水よ。なぜわたしを離さない?」

 スイカの怒りが波を作る。
 スイカの怒りが海を作る。

水よ。水よ。水よ。なぜわたしを運ばない?」

 垣根なしの生の衝動。何よりも望んだ、偽りなしのスイカの感情。
 生々しいそれは、あるいは醜いともいえるかも知れない。だけど、ジュンタはそれが嬉しくてたまらなかった。

ただ沈む。下へ。下へ。暗き闇の水底へ

 怒らせば、きっとスイカは我慢することを止めてくれると思った。結局、歓喜よりも、怒りの感情の方が誘導しやすく、激しく噴火しやすいのは真理だった。人間っていうのはつまりそういうもので、たぶん、女っていうのはそういう生き物だ。

船を見送り、わたしは沈む。底へ。底へ。底へ

 ジュンタはスイカの逆鱗に触れた。それが彼女の真実をさらけ出す。あの一言で怒ったというのなら、スイカが我慢したくないと思っているのはもう疑いようがない。馬鹿め。もう何をいっても誤魔化せない。

水に抱かれた我が人生、抱擁はいつも水の中

 ああ、だけど――正直、これは予想外に過ぎる。

「『理想の英雄ミスティルテイン』……大樹の実り。完成した『英雄種ヤドリギ』の、担い手だけが使える最終奥義……」

 どうやらちょっとやりすぎたらしい。
 スイカの怒りはもはや彼女の悩みも何もかもを吹っ飛ばして、容赦ない『必殺』を放とうとしている。

故に我が愛しき人よ。水底で会おう

 唱えられた詠唱にして聖句に、『深淵水源リン=カイエ』に秘められた本当の名が明らかになる。 

 海の底に響き渡る、収穫の唄。


――水底の愛しき貴方ディーブコーラル







       ◇◆◇






 力の差は歴然だというのに、こうもしぶとく再生されては戦いが終わらないではないか。

 ズィールは神獣と化した自分の力を、誰よりも心得、故に畏怖していた。

 ドラゴンをまるで赤子の手を捻るようにできる、この力。
 千年という月日がこんなにも圧倒的だとは、想像だにしていなかった。

 当初の想像では、ドラゴンとも互角に渡れるほどであると考えていたのだが、実際はこちらが有利。知覚する魔力があまりにも前とは違うため、魔法が使えないのが唯一の欠点だが、巨大な身体はそれを補ってあまりある。

(だが、油断はなし)

 ズィールは金色の魔眼で、高速で飛び交うドラゴンをにらみ据える。

(三度も殺されておきながら、それでもこの場から逃亡せぬというのなら、それは何かしらの奥の手がある可能性も考え得る。ドラゴンと呼ばれる存在を、なめてはならない)

 圧倒的な存在になったことによる自信はあっても、慢心はなかった。
 敵は終わりの魔獣である。『始祖姫』すら封印することを選んだ、ドラゴンの中でも強力なドラゴンだ。三度殺してなお消滅しない敵を前にして、手を抜くことは許されない。

(三度殺しても死なぬというのなら、四度殺すまで。それでも死なぬというのなら、五度殺す。殺せないというなら、殺さぬまま殺すのみ)

 ドラゴンが死に至るまで殺し尽くす――それがズィールにできること。

 無論、負荷が大きいこの神獣化は長くは持つまい。今でこそアーファリム大神殿の魔力により今の身体を維持しているが、下手に全ての魔力を自分が食らいつくすわけにはいかない。かの神殿の本来の用途は、『封印の地』の封印にあるのだから。

 つまりは時間制限のある強さであるのだが、それでもズィールには勝算があった。

 地上では本隊を率いた金糸の使徒がベアルの城を目指している。自分が行かなくとも、彼女ならば城を落として見せよう。

「では行くぞ。ドラゴン。ここからは本気で貴様を――

 大口を開けて、ズィールは天高く身を伸ばす。

――殺し尽くす」

 そして再び圧殺の怒濤をドラゴンに向けた。

 空から落ちていくのは、地面すら断ち割る破壊の断頭台。宝石のような鱗は固く、ぐしゃりと頭突きをもらったドラゴンは頭蓋を砕かれ、きりもみしながら地面に落ちた。

 さすがはドラゴン。地面に墜落する前に体勢を立て直し、口から返礼の炎を撃ち出した。

 怨念じみた魔力を纏う炎は、さすがのズィールといえども当たれば痛い。肉体だけではなく精神にまで届く破壊の痛みを、ぐっと耐える。

 お返しだといわんばかりに身体をくねらせ、ズィールは地面を這ってその尾でドラゴンの身体を弾き飛ばした。度重なる衝撃でドラゴンの身体の骨は砕け散り、まるで身体を包む泥と一体化したように、軟体動物の如き有様で地面に落ちた。

 それでも、ドラゴンは再生する。まるで泥から泥人形が作られるように、翼を持つ獣の姿は形作られる。

 返礼の炎は途切れることなく、こめられた怨念も底を知らずにズィールを襲う。

 避けることは叶わない。最善は喰らいつつも怯まずにドラゴンを倒すこと。ズィールは猛然とドラゴンへと突っ込んだ。

 再生の途中だったドラゴンは、ズィールの突進を受け、思い切り弾き飛ばされる。地面を転がる姿は泥団子のようであった。そんなドラゴンを、反対側から伸ばしていた尾の先でもって空中へと弾き上げた。

 まるでお手玉でもするようにドラゴンを扱ったズィールは、短時間で何度もドラゴンを殺し尽くすために、その口を大きく開けて落下するドラゴンに迫った。
 地上から迫る攻撃こそドラゴンには避けられてしまったが、灰色の天蓋の直前でUターンして戻り、空から襲いかかった攻撃をドラゴンは避けられなかった。

 巨大な口が、そのときドラゴンがいる全ての空間を覆い隠す。
 空から強襲してきた敵の一撃にドラゴンが気付いたときには、全てが遅い。

 時をも喰らう蟒蛇の口は、時間も理も意味をなさない、一度飲み込まれたが最後出ることの叶わない不帰の坩堝。恐らく、生まれて初めてドラゴンは感じたのだろう。喰われる恐怖、というのを。今まで喰らう側であった魔獣は、怯えたように身体を静止させた。

 ゴクン。と、ドラゴンの身体はズィールの口の中へと消える。

 ズィールの口。そこにあるのは飲み込んだものを絶対に殺す場所。二度と回帰が叶わないのなら、それは死すら凌ぐ死であろう。万物を飲み干し、理すら消化する不帰の秘術。それがズィール・シレの不死殺しの切り札。

(未だかつて無いほどに――

 ドラゴンを呑み込んだズィールは、ゆっくりと大地へと身体を横たわらせつつ、呟いた。

「まずい」


 

 

 それは不思議な感覚だった。

 彼は自分がどうなったのか、よく覚えていない。
 記憶はあやふやで、けれどいつものようにそのことに対して無自覚ではない。そのいつも、もよくわからないのだが。

 とにかく、彼には今いる場所が異界であるのだということがわかっていた。

 異界とはつまり、自分が認識する世界とはずれた場所のことを指す。彼の立つ異界は、彼の知っている世界とは違って『時間』というものがぐちゃぐちゃだった。

 だからか――忘れていたはずの過去が、まるでこれから辿り着く未来のように感じた。忘れていたものが、次々と思い出されていく。

「そう、だったな。我は、そうであったな」

 気が付けば、彼は在りし日の自分を取り戻していた。

 忘れて久しい過去の姿。まだ自分が何ものの理想にも犯されていない、原初の自分。本当の自分。

 小さな身体。小さな手。そして期待に胸焦がす、小さな心臓。
 それが幼き日の全てであった。だがその鼓動はやがて、黒い黒い力に犯されていく。

 酷い時代であったのだ。彼が生きていた時代は。

 進化の果てに人が迎えた最終戦争。機械と人が殺し合う、そんな地獄の時代。人とは少し違う、科学でも解明できない力を持って生まれた彼は迫害の対象だった。みんなを守るために使った敵をも遠ざける力は――だが、彼を異物に変えてしまった。

 いや、変えたのは彼ではなく周りの人々だった。彼らは自分たちが生き残るために、力を持っていた彼を生け贄に捧げたのだ。

 漆黒の鼓動が動くたびに、彼の周りからは人がいなくなった。
 彼の姿は人々の理想を経るたびに、人から遠ざかっていった。

 そのなれの果てが、今のこの姿。地獄の君臨者。

――ドラゴン、か」

 そう、それが自分のなれの果て。
『破壊の君』、『終焉へと導く獣』と呼ばれた、地獄の象徴にすらなってしまった存在。神の眷属たちの怨敵にして、あらゆる人の欲望を叶えるもの。

『悪魔』ドッペルゲンガー。

【もう一人の自分】という力をもって生まれてしまった彼は、やがては誰かに望まれるままに敵となって、最後はやはり誰かに望まれるままに救世主となった相手らによって殺され、追放された。

 灰色の『封印の地』へと。

『そう、つまりあなたは、世界の外に身を置いてしまったということ』

 自分しかいなかった真っ暗なそこに、ふいに光が溢れた。水色の、冷たくも神々しい光が。

 呑み込んだ全てを狂わす膨大な魔力の海。自我を保っていた堕天使の翼を持つドラゴンの前に現れたのは水色の髪の女。彼も知っている、とある女。

「あなたの存在は歴史から抹殺された。あなたは存在そのものが忘れ去られた存在。誰も、もうあなたのことは知らない」

「で、あろう。我もまた、自分のことは忘れていたのだから」

 目の前の女が誰であるのか、それはわかっていたが、あえて追求の必要はなかった。
 この場所が自分を喰らった神獣の腹――彼が持つ世界の中だということは思い出したが、足掻くことすら必要ない。

「このままでは、あなたは本当に死にましょう」

「異物たる自分は、また異物である神の獣によってのみ消されうる。世界を超えた自分は、また世界によって殺されるのだな」

 どこまであの翡翠の使徒が考えていたかは知らないが、今はもう堕天使のドラゴンは不死性を誇ってはいなかった。彼を不死の怪物たらしめる要素は、もう剥奪されてしまった。精神なき魂と肉体が同義である存在のままだったなら、法則が絶対であるように、異界法則たるその身は死ななかっただろう。けれど、彼は自らの精神を呼び起こしてしまった。

 それは禁忌である。自らを認識するということは、つまりは自らの死をも認めてしまうということ。逃れられぬ『死』は、ここに存在した。

「だが、それでいい。我は長く生き過ぎた。このような身に成り果ててなお生きるつもりはない」

 あるいは、そうやって自らの死を認めてしまったことが、一番不死性を剥奪した理由だったのかも知れない。

「元より、我は生まれる場所を間違えた。生きる意味を間違えた。他者の理想を叶え、その通りの自分に変えていく我が、やがては世界の敵になることは明白だったというのに」

「人は望むもの。世界の救いを望むもの。そういう意味では、あなたも間違いなく救世主だったというのに……人は無意識の内に諦めてしまう。それがあなたを破壊の権化へと変えてしまった」

「我は死ぬべきだった。正しく消えるべきだった。我が身が消えたその瞬間に、このような異物に堕ちずに、そのまま」

 どこか寂しげな色を纏う、瞳を閉じた女。その手には虹色の本。たとえ不帰の異界でもあっても辿り着くことができる唯一の力。






 思い出せたことで一番嬉しかったこと。それは、あの日の約束を思い出せたこと。

『約束――寂しくなんてないわ。だって他の誰も来れなくても、わたしだけは遊びに来れるんだから。そのときまで眠って、わたしが来たら歓迎しなさい!』

 ……いつか、そうやって約束してくれた少女がいた。結局彼女は来てくれなかった。いや、たぶん来ることができなくなってしまったのだろうが、彼女と同じ匂いを持つ人が来てくれた。

 たぶん、自分が目を覚ましたのはそれが理由だったのだろう。あの日の約束を、彼女ではなく彼女に近しい彼が果たしてくれた。遊びに興じて戦って、色々あったが悪くない。彼女は自分を死なせたくなかったようだが、そもそも最初から死んでいるし、そろそろ消えてもいい頃合いだ。

 千年待った甲斐があった。……ああ、なんて嬉しいのだろう。






「我は行く。この心は死を選ぼう。全てを思い出した今、我はそれこそが望みである」

 彼は特別だった。例外的な終わりの魔獣であった。
 生きていたときからすでに終わりの魔獣であった彼は、死したとき失う心というものを、異物と化したそのときまで残してしまったのだ。

 漆黒の翼が先から消えていく。ドラゴンは黒い光となって、自ら消滅の道を辿る。

「我はそう、理想を叶えるもの。最後の最後に叶えるは、この自分の望みである。これだけは、ああ、譲れないというものだ」

 他者の理想を叶え、他者の理想となり続けてきた彼は、死したあとも誰かの奴隷。だがこの時この瞬間、初めて彼は理想の自分を見つけられた。自分自身の、理想の自分に。

「ではな、我が仇敵よ。心を失った我が力をどうするつもりかは知らぬが、精々よく考えてやってくれ。我が魂は理想を叶えるもの。我が肉体は理想を形作るもの。ドッペルゲンガーの身体には理想を抱く者を与えよ。さすれば全ての理想は、現実とならん」

「ええ。あたくしはそうして『聖母』となる。理想を現実へと産み落とす存在に」

 消えていく光は、虹の本と水色の女の腹へと消えていく。
 新たなる命の基盤として、新たなる聖母のはらわたへと。

 やがて、全ての魂が聖母の子となるために消える。

 そうして後に残ったのは、彼が最後に望んだ理想の自分――最初の、自分。

「……ああ。人の理想など、所詮、こんなものだよ…………」

 金色の瞳を持つ穏やかな少年。彼は微笑んで、そしてこの世界から消える。

 全てを見届けた女は、小さく手向けとして、もう誰にも呼ばれることのない彼の名を口にした。

「さようなら――――エリツァラテスラ」

 


 


 そびえ立つ翡翠の巨体が人の姿になったのを見て、戦場に立つ聖殿騎士たちは、ドラゴンの消失を知ったことだろう。

 にわかに活気づく灰色の地。翡翠の使徒を讃える声。

「ハ、ハハハハハハハハハハッ!!」

 それを耳に――コム・オーケンリッターは狂ったように笑う。

 人魔獣問わず散らばる屍を踏みしめて、オーケンリッターは笑い転げる。これほどまでにおもしろおかしく笑えたことは、人生の中で初めてだった。

「倒したか。ドラゴンを。我が主であった人よ。倒したと、今そう誇っているのか? ズィール・シレよ!」

 ドラゴンが負けたという、ベアル教側としては甚だ危険な事態だというのに、それでもオーケンリッターは笑わずにはいられなかった。今頃ズィールが誰かに讃えられているのだと思うと、自らを誇っているのだと思うと、その道化ぶりには笑わずにはいられない。

「ああ、確かに貴様がいなければドラゴンは死ななかっただろうよ。誇れよ。貴様は地獄の君臨者を滅したのだ。『始祖姫』さえ封印を余儀なくされた存在を滅する要因を生み出したのだ。だがな――

 噛み殺すような笑みを歯の端からもらしつつ、狂笑のトーンを一段階あげる。

「そうでなければならぬ! 誇れよ。誇りたまえよ。ズィール・シレ! 貴様は『狂賢者』ディスバリエ・クインシュと共に、力を合わせてドラゴンを滅し、我々に使徒をもたらしてくれたのだから!」

 かつての主を思って、最も愛しく憎き神の獣を思って、裏切りの巫女は嗤う。

「これで奇跡を叶える生け贄は捧げられた。さぁ、始めよう。『聖誕』の儀を!」

 自分たちの悲願の成就を確信して。






       ◇◆◇






英雄種ヤドリギ』という担い手の属性・性質を読み取って進化する武具には、様々な能力が存在する。

 魔法を使う際に持ち主の制御を手助けする『魔法使いの杖』としての効力。どれだけ離れていようとも、持ち主が望めば空間を切り裂いて駆けつける『帯刀』の力。
 だが、結局それは全ての『英雄種ヤドリギ』に共通する能力に過ぎない。個々ごとに特殊な能力を発現する進化の武具の真髄としては大した力ではないのだ。

英雄種ヤドリギ』は持ち主によって聖剣にも魔剣にも、名剣にも駄剣にもなる代物。完成こそがかの武装の真髄であり、特別な能力はそのとき芽生える。

 種は担い手と出会うことで芽吹き、担い手の成長と共に茎を伸ばし、葉をつけ花を咲かせる。そして大いなる大樹となりて実りをつける。

 とはいえ、ただでさえ数の少ない『英雄種ヤドリギ』の本当の完成系は、なお数が少ない。

 未だ『英雄種ヤドリギ』の謎は解明されておらず、何をどうすれば完成に至るかはわからない。ただ、これまで完成に至らせた者たちはこう語る。

 ――英雄種ヤドリギ』こそが、自分の理想の英雄の姿であると。

 担い手と同調する武器は、得てしてその精神性までも同期する。同じ志を抱き、同じ夢を見、そして、同じ理想を追う。
 未だ見果てぬ理想の姿を、道しるべとして、あるいは忘れないために『英雄種ヤドリギ』はその身に確固たる姿として刻むのかも知れない。

 故に聖剣、魔剣レベルで完成した『英雄種ヤドリギ』は全て、担い手が志し、夢見、追い求める理想の姿と力を体現する。

 その担い手のみが手にすることが許される、『英雄種ヤドリギ』の真実の銘にして、理想の具現。

理想の英雄ミスティルテイン――それこそが『英雄種ヤドリギ』が最強の武具とされる由来にして、必殺の名である。







水底の愛しき貴方ディーブコーラル――それこそが『深淵水源リン=カイエ』の真実の銘にして、担い手たる使徒リンが込めた理想の姿。

 唱えられた収穫の唄により、ついにその『理想の英雄ミスティルテイン』としての能力を発揮する『深淵水源リン=カイエ』。かき集められた水は天井一杯に広がって水面となり、その下にあるものを常識を無視して水底にしてしまう。

 水の中に突如としてたたき込まれたジュンタは、微かに吸うことしか許されない空気を口から吐き出してしまうほど驚いていた。

(あり得ない。スイカが『深淵水源リン=カイエ』の『理想の英雄ミスティルテイン』を使うことができるはずがない)

深淵水源リン=カイエ』というその名が示すとおり、かの武器はかつての使徒リンが本来の担い手である。彼女の性質を吸収し、彼女が夢見た理想の姿を具現し完成した、彼女のみの理想の英雄であるはずだ。

 水を刀身として変幻自在に扱うといった能力は本来の力の残滓。リンの武器という意味である『深淵水源リン=カイエ』とは鞘の名だ。鞘を持ち運び、これの能力を使うことは波長さえあえば可能だが、鞘から剣を抜くことは本来の担い手以外には不可能のはずなのだ。

 故に、スイカに『深淵水源リン=カイエ』の『理想の英雄ミスティルテイン』を使えるはずがない。

――偽装する

 ジュンタの驚愕をも押しとどめる、付け加えられた抜刀の言の葉。

 見れば、スイカの握る白い柄が激しく揺れていた。まるで命令を拒絶するように。

 考えてみれば、唄が歌われたというのに、今だに何も起きていないのはおかしな話だ。空間を切り離し、水の底へと変える……これだけでも大したものだが、使徒の『理想の英雄ミスティルテイン』がこの程度のはずがない。少なくとも、鞘の状態で振るわれた力以上でなければ話が合わない。

「スイカは、別に『深淵水源リン=カイエ』の『理想の英雄ミスティルテイン』を使えるわけじゃないのか……」

 そうとわかった途端、身体にかかる負荷が和らいだ気がした。空気を吸うことができ、言葉も普通に発することができる。

 そうこうジュンタがしている間にも、スイカの顔は激痛に歪んでいた。無理矢理なオーダーに担い手に忠義する杖が激しい抵抗を起こしている。『深淵水源リン=カイエ』を握るスイカの手が力の波動によって裂け、血しぶきが舞う。

 水面となった大量の水は揺らぎ、まるで大時化の波のようだ。

 激昂がスイカに無謀な策を取らせたのかも知れない。ジュンタは自分の言葉がまた追い込んだのかと止めるために動き、

――偽装する

 繰り返される言の葉に再び足を水流に絡め取られた。

 魂が込められたスイカの叫びに『深淵水源リン=カイエ』の震えが止まった。水面は穏やかに凪ぎ、再び眼下が水底へと変貌する。

 馬鹿な。と再びスイカを見たジュンタは、そこで彼女がいかなる特異能力を持つ使徒であったかを思い出した。

【ガラスの靴】――肉体を、精神を、そして魂までも偽装する力。

(まさか。そんなことが可能なのか!?)

 スイカは偽装したのだ。『深淵水源リン=カイエ』の担い手であるリンであると自らを偽装した。激しい抵抗をもはね除け、古の武具さえだます嘘をついたのだ。

 だから発動することができた。本来の担い手には及ばずとも、それでも間違いなくスイカは偽装の末に発動してみせたのだ。

 ――水底の愛しき貴方ディーブコーラル』を!

 知識として知り、想像だけでジュンタが畏れを抱いた『理想の英雄ミスティルテイン』という奇跡がここに偽装具現される。

 迸る力の波動に、ジュンタはあらゆる意志と覚悟を奪われ、水流に囚われるまま立ちつくした。

 まるで迫る太陽でも目の当たりにしているかのような、絶対的な絶望感。
 スイカを中心に水底に生まれる珊瑚礁があまりにも美しすぎた。あまりにも恐ろしすぎた。この世に存在しない珊瑚の井戸から、ボコリと、あり得ざる水が沸き立つ。

 それは魔法ではない。いうなれば使徒の特異能力に近い。聖骸聖典の発動に近い。

 人が夢見た奇跡の具現……人とはこんなものさえ望みうるのかという理想の具象化。

 深海の水底は世界の深淵。そこから沸き立つ水は、たった一滴。
 しかしそれはあらゆる万物を液体と変え、操る、神のしずく。ジュンタは触れることもなく見ただけで自らの死を悟った。

「わたしを怒らせて……醜い本心を引き出して……わかった。それじゃあ、受け止めて見せて。ジュンタ君。わたしの醜い望みを。わたしは信じている。ジュンタ君を殺したいって願いが、わたしの本当の気持ちだって……」

 立ちつくしたジュンタを前にして、スイカが刀身なき柄を構えた。いや、刀身はここにある。視界に映る全てが今や刀身。空気も、大気も、見えない空気中の魔力さえもが水底に存在する水なれば――


――偽装する。『理想の英雄ミスティルテイン――――水底の愛しき貴方ディーブコーラル』ッ!!」


水底の愛しき貴方ディーブコーラル』に操れぬものはこの世界に存在しない!

 振り下ろされる一撃に、ジュンタの世界が嵐の海の上に浮かぶ小舟のように揺れ動く。

 肌が触れていたもの全てが水と化してジュンタを圧殺しよう流れる。
 渦巻き、坂巻き、濁流となり、波打ち、波紋となりながら、抱擁のように逃れるべくもない優しさで包み込んでくる。

 死を与える水の抱擁。珊瑚礁の水底よりわき出た水の奇跡。

 痛みさえ知覚できないダメージを受けて、ジュンタの意識は辿り着く岸なき波にさらわれた。









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