第七話  心に決めて


 

 朝一番に少女の土下座を見るという奇妙な体験を二度もするのは、果たして貴重なのかそうではないのか。

 ジュンタにとっては、それは色々な意味でためになる光景だった。
 人が見せる誠意ある謝罪の極限の形がそこにはあって、非常にためになる。できれば見たくなかったが。

「……クレオメルン」

「申し訳ありませんでした――ッ!」

 額をこすりつけての悲鳴じみた叫びは、以前謝罪されたときのそれを凌駕していた。
 クレオメルンはガバリと頭をあげ、服をまくり上げて腹を露出させたかと思うと、持っていた槍の尖端を白さが眩しいそこへと向けた。

「こうなれば、せめて命をもってお詫びとするしか我が騎士道を貫ける道はなし! 介錯頼みます!」

「待て待て待て待てぃ! お前はなに朝っぱらから人にトラウマ植え付けようとしてるんだよ!」

 グルグルと混乱した目つきのクレオメルンは、至ってマジだった。
 今の彼女なら本当に腹を切りそうだった。いや、腹を貫きそうだった。

「槍で切腹って、なんて難易度が高い! ええい、とにかく止めろ!」

「後生です! 礼を欠いた騎士に、騎士でいる資格などないのです!」

「そんなの知るか! とにかく槍を離せ!」

 槍を握るクレオメルンから、ジュンタは強引に槍を奪い取る。
 クレオメルンは槍を奪われたことにより心身共に支えをなくしたのか、そのまま力無く両手を地面についた。

 完全に眠気が吹き飛んだジュンタは、槍をクレオメルンの手に届かない場所に突き立てたところでようやく息をつく。

「まぁ、どうしてこんな状況になってるかはわかるが、さすがにやりすぎじゃないのか?」

「そんなことはない――ではなく、ありません。御身は聖殿騎士の主君である使徒が一柱。最大の礼節をとるべき相手であり、そ、それなのに私は、あんなことやこんなことを……!」

 ガクガクと蒼白な顔で肩を震わせるクレオメルン。こういってはなんだが、瞳も一睡もしてないらしく少し潤んでいて、いつもとは違って守って上げたいむしろ虐めたくなるオーラが後光のように出ている。彼女がアホな行動に出た理由はわかっているが、思わず感心してしまうくらいの変化である。

 聖殿騎士である彼女に昨日使徒であることがばれた。で、彼女とは前々からの付き合いだったが、たぶんあまり好かれてはいなかった。好かれてはいなかったので、彼女からの態度もそれ相応のものだった――つまりはそういうことだ。

「使徒様相手に及んだ不敬の数々。もはや私に聖殿騎士たる資格などないのか。ふ、ふふっ、ふふふふふっ」

「どれだけショック受けてるんだ、お前は」

 乾いた笑みを浮かべるクレオメルンは、下手すれば廃人一歩手前である。未だに服が大きくめくれ上がっているし、目元には申し訳なさから涙が浮かび上がっている。使徒だとばれただけで大した変化だ。

 ジュンタは仕方がないなぁ、としゃがみ込んで、うなだれるクレオメルンと視線を合わせた。

「別に俺はお前をどうこうしたいってわけじゃないし、むしろ使徒ってわかったからってそこまで態度変えられるのは困るんだけど。使徒だってことを黙ってて怒られるのならともかく、お前に謝られる理由はどこにもない」

「しかし」

「あくまで俺相手に使徒として接したいっていうなら、しょうがない。それはそれで認めるけど、とりあえず土下座はなしにしてくれ。こんなところ他の誰かに見られたら、一体どんな風に思われるのか――

「うむ。俺の目には若々しい乙女を屈服させたことによりわきあがった歪んだ悦びと葛藤する悩ましげな少年に見えるぞ」

「私の目には腹部を露出させた乙女を籠絡せんと巧みにジャブを放つナンパ師に見えますわ」

「と、そう思われたりしちゃうわけだからマジで勘弁して下さい」

 テントの外に出た瞬間にクレオメルンの土下座と遭遇したのだから、もちろん誰かが近付いてきたりもするわけだ。

 ジュンタはしゃがみこんだまま、クレオメルン越しにじぃっと白い目を向けてくるサネアツとリオンへと待ったの手を向けた。

「いいか。その評価は何も知らない第三者的には仕方がないことだからあえて何も言わないが、事実無根の誤解だからな。それ」

「わかっていますわ。昨日の時点でクレオメルンさんがこうすることは予想済みでしてよ」

 頷くリオンと同意するサネアツ。すごいな。みんなの中の共通認識として、クレオメルンと土下座は等式で結ばれているらしい。いや、自分もそうだが。

「そもそも、ジュンタが全て悪いのではなくて? 他の方々ならともかく、クレオメルンさんにはもっと早く伝えておいても良かったのではありません? 私のときだって、あなたは教えるのが遅かったですし」

「これでも色々と思うところがあったりしたんだけどなぁ……」

 なにせ使徒だって気付いて、まだ一年も経っていない。なのにここまで使徒であることを受け入れられたのは、むしろすごいことだとはいえないだろうか?

「とにかく、そこで硬直しているクレオメルンさんや。お願いですからそろそろ立ってくれるとありがたい。このままだと他の人にも見つかりかねないし。エルジンさんやズィールさんに見つかったらどうなることか」

「そうなったら翌日から蔑みの目で見られるだろうな」

「それだけで済めばいい方だよ」

 ガチで命の危機に発展するので、ジュンタは訴えるようにクレオメルンを見た。
 クレオメルンは逡巡したあとゆっくりと立ち上がると、めくり上がっていた服を戻す。やけに緩慢とした動きで。

「………………猫が、しゃべって、る……は、はは…………」

 色々と限界だったのだろう。そうやけに自虐的に呟きをもらしたかと思うと――パタリと真後ろに向かってクレオメルンは倒れこんだ。

 ああ。そういえばそっちも秘密事項だったよなぁ……ごめんなさい。


 

 

 倒れたクレオメルンをそのままにしておくこともできず、一番近かったので自分のテントへと運び、寝台に彼女を横たわらせたジュンタはそっとテントを出る。テントの外ではリオンとサネアツが待っていた。

「ジュンタ。クレオメルンさんは大丈夫でしたの?」

「どうやら徹夜で謝罪の言葉でも考えてたらしいな。ぐっすりと熟睡してるよ」

 一体どれほど前から土下座体勢だったのかわからないが、抱き上げたクレオメルンの身体はとても冷たくなっていた。非常に恐ろしい。ぐっすりと眠っているテントの前で、一晩中土下座する少女がいたと想像すると。

 いくらクレオメルンといえ、さすがにそこまではしないと思うが。思う……思うよ……思いたいなぁ……。

「まぁ、朝っぱらから見てしまった衝撃的な展開は、クレオメルンが落ち着いてから考えるとして。リオン。お前も一体朝早くから何の用なんだ?」

「それは――

「おいおい、ジュンタよ。俺もいることを忘れていないか?」

 頬を染めて紅い髪を指先で弄るリオンの横で自己主張するサネアツ。

「お前はどうでもいい。お前がここにいることに、俺は疑問も何も感じちゃいないからな」

「それは喜んでいい発言なのか、にゃんにゃんしてやるぜな発言なのか悩みどころだな」

「それでリオン、用件は?」

 深い悩みの中に落ちたサネアツから視線を剥がして、ジュンタはリオンを見た。

「明日は決戦、ですわよね」

「そうだな。俺もお前も、役割は違うけど戦うことには変わりない」

「今日は決戦の前日で、特別な一日、ですわよね」

「お前がそう思うなら、今日は特別なんだろ」

 そそくさとドレスの裾などを気にしているリオンは、本題を避けるように前振りをいれる。なんだと思いつつ、ジュンタは様子見のために付き合った。

「……そう。特別な日。今日だけは私、失敗したくありません。だから……」

 小さく呟いたかと思うと髪を後ろへ流して、むん、と胸を張ってリオンは口を開く。そして堂々と、それこそ戦場で名乗りをあげる騎士の如くはっきりと用件を告げた。

「ジュンタ。今日一日、私に付き合いなさい!」

 それは頼みではなく、すでに命令であった。
 けれどもその命令はリオンにとっての精一杯の懇願であったのだろう。まっすぐ前を見据える苛烈な眼差しに、リオンの真意をジュンタは見る。

 それは『まさか』とか『あり得ない』という言葉で塗りつぶせないほど、凄烈なるリオン・シストラバスの色。

(もしかして、リオンは俺のことを……?)

 そんな考えが脳裏を通り過ぎていくのとは別の部分で、ジュンタの口は動いていた。

「喜んで」

 ただ一言だけ肯定を。リオンの頼みを断る口を、ジュンタは持ち合わせていなかった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 サネアツがわざわざリオンの傍に寄り添っていたのは、来るべき時が来たことを野生の勘――あるいはラブアンドピース的に感じ取ったからだ。

 たとえそこに様々な問題があったとしても、数ヶ月も前から両想いだった二人の仲が進展しないことにやきもきしていた日々に、終止符がいよいよ打たれるかも知れない。
 明日戦渦の炎に包まれる戦場にあっては望むべくもないイベントに、サネアツの小さな胸はわくわくと高鳴っていた。

 脳内激写フィルムのリミッターはすでに解除され、連れ立って歩いていく二人を完全に狙っている。気付かれない距離からの激写はサネアツ一人では難しいが、ここには志と感動を共有する頼もしい戦友がいた。

「索敵、追跡、及び各感知触媒の配置完了しました。これであますところなく、お二人の行動の監視を行うことができます」

「はっはっは。違うな、ユース。俺たちは監視をしているのではない」

 戦友たるクールメイドへ、サネアツはニヒルに笑って振り向いた。

「見守っているのだよ」

 風の魔法によって素敵イベントを余すところなく楽しませてくれるユースは、これは申し訳ないと表情を変え――ほとんど変わっていないが――首を縦に振る。

「そうでしたね。私たちはお二人を見守らせていただいているのでした」

「そうだとも」

「ええ」

 視線はジュンタとリオンから逸らすことなく、二人はうふふ、あははと笑いあった。

 


 

 リオンに今日一日付き合ってくれといわれたジュンタだったが、ここは『封印の地』。出かけるべき場所も、出かけられる場所もない。あてもなく歩き始めて数十分、結局はその辺りを散歩するだけで終わり、気が付けば足はリオンのテントへと向いていた。

「ユース、はいませんのね」

 紅き騎士たちが明日の準備を進める中、テントの中へと入る。

 先にテントへ入ったリオンは、広々とした中に従者の姿を求めるも、振り向けばいつでもどこでもそこにいそうな万能メイドの姿はない。

「きっとリオンの代わりに明日の準備をしてくれてるんだろ。紅茶が飲みたいなら俺が淹れてもいいけど?」

「そう、ですわね」

 ジュンタは考えるリオンから離れ、テーブルの椅子を引いて着席を促す。リオンと接している内に自然とできるようになった行動である。

「ありがとう。では、紅茶もお願いしようかしら。ジュンタがどれくらい腕を上げたか、確かめて差し上げましてよ」

「ユースさんにはまだ敵わないのは承知してる。だけど、俺をいつまでもリオン以下の給仕だと思うなよ? 乙女乙女してるアン店長から学んだ紅茶の神髄、とくと拝見させてやる」

 挑戦的なリオンの流し目に、ジュンタもまた挑戦的な態度で返す。

 ユースによって整理が行き届いたテントの奥の調理台へと移動し、そこで手早くお湯を沸かす。同時並行して紅茶を注ぐ準備をし、今のリオンの気分と状態を考えて、ふさわしかろう紅茶葉をセレクトする。

 興奮気味ならば鎮静作用のあるハーブなどを少数混ぜたり、沈鬱気味なら少しアルコールを混ぜたりもするが、今日のリオンは……。

 お湯の沸騰音を聞きながら、ジュンタはチラリと背後を盗み見た。

 背中を見せているからか、リオンは人前ではあまり見せないような、どこか幼さを感じる表情をしていた。いや、年相応の表情というべきか。まだ十七歳だというのに、どこか大人びた部分――それを上回る子供っぽい部分もあるが――のあるリオンだったが、今は相当リラックスしてくれているようだ。

 待つのが苦ではないように、膝の上に手を乗せて、楽しげにこちらを見ている。わくわくとした姿は、正直いってものすごくかわいい。

「と――危ない危ない」

 ジュンタは沸騰したお湯を慌てて止めつつ、リオンには聞こえない音量で呟きをもらす。

 ついリオンに見とれて、手元がおろそかになってしまった。今日こそはリオンにぎゃふんといわせるような美味しい紅茶を淹れるつもりなのだ。よそ見は禁物である。

「一杯目はストレート。よしっ、勝負」

 渾身の力作はまもなく仕上がった。

 ティーソーサーと温めたカップをお盆に乗せ、振り返る。直前の仕草で出来上がったことに気付いたのか、振り返った先で待っていたリオンは澄まし顔に戻っていた。若干口元が緩んでいるのは、まぁ、見なかったことにしてやろうと思う。

「できましたよ、お嬢様」

「ご苦労様。それではご賞味させていただけますか?」

「もちろん」

 それをリオンが望むなら――ジュンタは努めて挑戦的な口調でリオンの前にカップを置き、空気を含ませるように注ぎ入れる。一切混じりけのない素直な白いカップの中の琥珀色は、一つの宝石の如き輝きを持っていた。

 リオンは無言でカップを手に取るとまず香りを楽しみ、それから口を付けた。

 冷静さを装いつつ内心ドキドキの瞬間を味わっていたジュンタをリオンは見て、

「腕を上げましたわね。美味しくてよ、ジュンタ」

 そんな、反則的な笑顔を振りまいた。

 ……ここにサネアツやユースみたく、鋭い人間がいなくて本当に良かった。何かにのぼせたようなリオンだけで本当に良かった。もしも鋭い人間がいたら、今自分が心に滾らせた感情に気が付いただろうから。この、強い愛情に。

 愛おしい。と、そう思えた。
 愛している。と、そう言いたくなった。

 笑顔のまま二度、三度と紅茶を嚥下する大切な少女を今ここで抱きしめて、その唇に口づけたい衝動はなんと堪えることができた。本当に実行しても、リオンは拒まないだろうという確信はあったが、それは何か違う気がしたから、ジュンタは断りを入れることなくリオンの向かいの席に腰を下ろすと、紅茶を予備のカップに注いで一口で全部飲み込んだ。

 リオンからもったいないと言わんばかりの、それを上回る驚きの視線を寄越されたジュンタは、喉を焼くように通っていく紅茶の熱で自分の中の情動を消す。いや、大切にしまっておく。いつかふさわしい時が来るまで。

「ジュンタ。熱くありませんの?」

「いや、熱い。適温でいれた紅茶が熱くないはずがない」

「ですわよね。ふふっ、おかしなジュンタ」

 普通の街娘のように、けれど街娘ではなきない上品さで笑うリオンに、ジュンタも吹き出したような声音で笑い返す。

 ……確信はある。さすがにジュンタも、リオンの視線に感じ入るところがないわけでもない。

 けれど今はこの何ともくすぐったい、嬉しくて幸せに感じる一時が心地良かった。
 リオンも今はそれを望んでいるような気がしたから、ジュンタは何か前へと進める台詞を口から吐くことなく、代わりにたわいもない談笑を口にする。

「さて、じゃあしばらくのんびりと話でもしてるか。当分のんびりできそうにないしな」

「ええ。そういえば、あなたには色々と聞きたいことがありましてよ」

 今一番ふさわしい触れ合いは、こうして話すことなのだろう。思えば、ゆっくり話したりするのは久しぶりだ。二人だけでとなるとものすごく久しぶりに思える。

 こちらの話に一喜一憂、時折恥ずかしがったり怒ったりするリオンを見つつ、ジュンタもまた一喜一憂して笑った。

 のどかに。ゆったりと。

 焦ることなく、今を楽しんだ。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「明日からの戦いが終わるまでは、お互いに忙しくなりそうだよな」

「戦いを忙しいと片付けるあなたの感性には、呆れるのを通り越して感心すらいたしますわ」

 もしもチャンスがあるのなら、リオンは一気にジュンタとの仲を進展させる気でいた。

 もうかれこれどれだけの時間話しているのか。紅茶のおかわりの数も覚えておらず、昼食代わりのお茶菓子なども、少々食べ過ぎのきらいがあるくらい食べた。戦いの前日はいとも容易く過ぎ去って、テントの外を見れば夕食を作る気配があった。

 空は灰色から変わらないが、これが外だったなら、さぞや綺麗な夕焼けが見られただろう。それはつまり戦いの始まりである夜明けへと近付くということであり、否応なく緊張感が漂い始める。

「ねぇ、ジュンタ」

「なんだ? リオン」

 だから、明日が来る前に、これだけは問うておかなければならない。

 リオンは佇まいを直して、同じく気配から佇まいを正したジュンタに、これだけは訊いておかなければならない質問をぶつけた。

「ジュンタ。あなたは、ヒズミ・アントネッリとスイカ・アントネッリ様をどうするつもりですの?」

 それはまだ、ジュンタから答えを聞いていない質問だった。

『封印の地』に来る前、リオンは警告した。ヒズミたちのことは諦めろ、と。
 それはジュンタの身を心配しての言葉。まだまだジュンタは弱いというのに、加えて無理をすれば戦場では生き残れない。

 あのときの自分を傷つけるほどの焦りは、今の穏やかなジュンタには見られない。けれども、その心の奥にあるスイカたちへの感情は、いささかも衰えてはないかも知れない。

(もしもジュンタがヒズミたちを救うことを第一に動こうというのなら、そのときは……)

 あのときよりも一層の決意を込めて、ジュンタを問い質す。
 答えによっては、今日の穏やかな時間すら意味無いものとなりかねないが、それでもリオンは絶対の答えを欲していた。

――会うよ。スイカたちとは会って、話をする」

 欲した答えは、しかし返ってこない。

「……そう、ですか」

 ジュンタという少年の性格を読み解けば、こうして変わらぬ返答が返ってくるものとは理解していたけれど、実際に聞いて落胆する部分は隠せなかった。その落胆はジュンタに対する落胆ではない。最後の会話が、あの時の再演のような自分からの戒めになってしまうことに対する落胆だった。

 言いたくはない。こんなのどかな時間を過ごしたあとで、ジュンタの心を制する言葉などは。けれど言わなければならない。リオンは、目の前にいる優しい少年を失いたくはなかった。

 リオンはキッと視線を鋭くして口を開き、

「ああ、そうだ。俺は、それでもやるよ。後先なんて考えず、今頭にあるスイカとヒズミを助けたいって思いのままに。俺は、二人の苦しみを取り除いてやりたい」

 まっすぐ突きつけられたジュンタの決意に、言葉を紡ぐことができなかった。

 この眼だ。この言葉だ――と、リオンは貫かれた胸を抑える。

「言わないといけない言葉ある。話さないといけない真実がある。俺にしかできないからじゃない。俺がやりたいから、俺がやるんだ。リオンの気持ちはわかる。俺のためを思って言ってくれているのも」

 いや、違う。自分はジュンタのためにこの質問をぶつけたのではないのだと、リオンは今ようやく気が付いた。

「それでも、俺はやる。何て言われても、俺は二人に会う。だから、これだけしか言えない。俺は絶対に死なないってことだけしか約束してやれない」

 今のジュンタを見て、リオンは狡いと思った。

 彼は無自覚だろうが、好いた男にそんな真剣な眼差しを向けられたら、女としては何も言えなくなってしまうではないか。……そう、思えばずっとそうだった。リオンはジュンタから真摯に、まっすぐ見られて言葉をぶつけられることに弱かった。

 最初の告白のときも、二回目の告白のときも、そう。この視線に、この瞳に、自分は胸を深々と抉られた。たぶん、この瞳でまっすぐ胸を突き刺されたから、リオンはジュンタのことを好きになったのだろう。

「……何も、言えなくなってしまったではありませんのよ」

 全てに気が付いてしまったリオンは、言おうとした言葉を忘れてしまった。ただただ、今はジュンタの全てを信じるしかなかった。いや、彼からの愛の告白が純心で嘘がないとわかったように、信じることができた。

 この人は、たとえ無茶だと思えるようなことをしても、死んだりはしないんだ――そう思ってしまったから負けだった。敗北者は、一言八つ当たりをぶつけることぐらいしかできない。

「……ジュンタは我が儘ですわ」

「悪い。なんか最近は自覚すらある。これじゃあ、お前のこと馬鹿にできないな」

「そんな風に謝られたら、余計何も言えませんわよ。馬鹿」

 リオンは恥じ入るように顔を俯けて、微笑むジュンタから視線を逸らした。

 ……本当に我が儘なのは、ジュンタではなく自分の方だ。

(私はジュンタのために言ったつもりで、本当は自分のためでしたのね。ジュンタは絶対に譲れない気持ちで言ったというのに、私は自分の我が儘で、死んで欲しくないから止めようとした)

 彼の意志よりも自分の願望を優先したということ――それが我が儘に思えて、リオンはぎゅっとドレスの裾を握りしめた。

「……ごめんなさい、ジュンタ。私、あなたの意志を尊重せずに、自分の思い通りに強制しようとしましたわ」

「わかってる。わかってるから。リオン、お前は謝らなくていいんだよ。俺は怒ってなんていないんだから」

「本当に? 私、あなたに対する最大の侮辱を致しましたのよ? あなたは本気で、それこそ命すら賭けて二人を助けると言った。それを、私は自分の我が儘で……」

 瞳があまりの情けなさから潤む。ジュンタの決意をわかってやれない自分など、どうして彼のことを好きだといえるのか。自分は、いつの間にこんなにも弱くなってしまっていたのか。

 ジュンタは全てをわかっているのか。何かを思い出すように、目を瞑った。

「なぁ、リオン。お前、俺が竜滅姫として死ぬのは間違ってるって言ったとき、俺のことをどう思った?」

「え?」

 唐突に尋ねられて、リオンは潤んだ瞳を隠すのも忘れて顔を上げた。

「お前は最初怒ったよな、先祖の役割を馬鹿にされて。けど、覚えてるか? お前は最後、俺の前から去ったとき怒ってなんていなかった。謝って、ありがとうって言ったんだよ」

「それが、一体なんの関係が……?」

「同じじゃないか? 今のこの状況と。立場が逆になっただけでさ」

――あ」

 目を開いたジュンタに言われて、初めてリオンは気が付いた。確かに、今この状況はあの日に酷似している。

 ジュンタがヒズミとスイカを助けるのには、きっと大きな危険が付きまとう。それこそ、もしかしたら死ぬかも知れない。それをジュンタも理解していて、それでもなお行くという。そして自分はそれを否定しようとして、彼の命を優先しようとした。

 それはあの日、命を賭けたリオンにジュンタが死ぬなと止めたのと、よく似ている。

「俺は死ぬ気なんてさらさらないんだから、あのときと一緒っていったらお前に馬鹿にされるかも知れないけど……少なくとも今の俺の気持ちは、あのときのお前と同じだと思う。
 ごめん。それと――ありがとう。我が儘なのはきっとお互い様なんだ。この状況になって、ようやくそれがわかったよ」

 優しい声音。本当に怒ってなくて、感謝しているという気持ちをジュンタは伝えてくれた。

 リオンは照れ隠しもできなかった。今、あの日のジュンタの気持ちを知って、あの日の気持ちを知ってもらって、これまでのように照れ隠しなどできようはずもない。

「……わかりましたわ、ジュンタ。私、今全てを理解しました」

 ジュンタに向かう恋心に気付いてから空回りする日々を思い出す。

 いつだって彼の一挙一動に、自分の一挙一動にやきもきして、小さな不満を抱く毎日。穏やかな気持ちとはかけ離れた不安な日々。そこにさらに戦いと、恋心は翻弄され続けた。
 明日大きな戦いへ赴くとなれば今日必死にもなろう。戦いへ行くということは、明日死ぬかも知れないということだ。今日が終われば、そのままずっと会えない可能性もあるということだから、今日ジュンタを誘ったのだ。

 今日という日はジュンタと一緒にいたいと、そう思ったからこその勇気。それは同時に、ジュンタがいたからこそ手に入れられた勇気だった。

(人の矜持を否定してしまう自分は弱くなったのだと、そう思いましたけど……それは違いますのね)

 きっと、弱くなっていない。自分は、リオン・シストラバスは、ジュンタと出会って強くなったのだ。彼から純粋な気持ちを贈られた度に、手に入れられた強さが確かにあったのだ。

 リオンは自分が強い人間であると、そうずっと前からわかっていた。それは竜滅姫であったから。そう心に決め、そのために在り続ける。一つのもののために全てをかけた自分は、とても強いのだと。

 そして、またこうして強くなった理由にも、今気付いた。

「リオン?」

 名前を呼んだあと黙り込んだリオンの名をジュンタが呼ぶ。
 リオンは慎ましやかな微笑を浮かべたまま、自然とその約束を口にする。


「ジュンタ。明日の戦いが終わったら、あなたに伝えたいことがあります」


 それは告白にも匹敵する、このたった一人の男性へと自分を捧げるという、リオン・シストラバスの女としての聖約も同じだった。

「私の想いを、今ではなく、あなたが自分の意志を貫いたそのときに。もしよろしければ――聞いて、いただけますか?」

 膝の上に手を揃えて、リオンはまっすぐジュンタを見た。
 
 強くなった理由はこの人がいたから。昔、竜滅姫として生きると決めて強くなったように、ジュンタを愛したから強くなれた。

 愛しい人と一緒にいる。愛しい人が自分のことを愛している。だから心は、身体は満たされている。

(決めました。そうすると決めました。迷うことなく、今この人を選ぶと)

 これより前がそうであったように、これより後も、もう他の男性へと心奪われることはない。リオン・シストラバスは、未来永劫この人を愛し抜こう――

 それがリオン・シストラバスの聖約。
 竜滅姫として生きると決めた聖約に続く、二つ目の聖約。

 この人に全てを捧げる。この人だけを愛する。この人の愛を信じる。

 それこそが自分を精一杯、真摯に、誰よりも一人の女として愛してくれたジュンタ・サクラに報いる、唯一にして最高のものと確信できたから。この強さが未来永劫自分にあって欲しいと思ったから。

 愛しています、あなたを――今はまだ心の中に秘めて、リオンはジュンタの答えを待つ。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ジュンタの思考の中から他のことが全て消え、瞳は目の前で慎ましやかに微笑む少女だけを映す。

 燃え上がる真紅の髪。凛と美しい真紅の瞳。
 リオンという少女はジュンタが初めて目にした、美しさと格好良さ、儚さと神々しさを兼ね備えた完璧なる少女であった。

 今でもまだ、初めて出会った瞬間のことは思い出せる。だから、ジュンタにはそうであるという確信があった。

 今、目の前で微笑むリオンは、今まで自分が見てきたどのときよりも美しいのだと。

 否。自分が、ではない。過信でもなく慢心でもなく、今目の前にいるリオン・シストラバスは、彼女が生を受けてからの十七年の中で最も美しかった。

 恋は女を美しくするという。まさに、その見本が目の前にあった。

 恋する乙女の瞳で、リオンという少女らしいまっすぐさで愛しさを伝える姿には、ただ瞠目し、心臓を撃ち抜き、釘付けにされ、

――ああ。俺の方こそ、お前に聞いてもらいたいことがあるんだ」

 答えはこれしかないのだと、ジュンタはリオンへきっぱりと頷いた。

「だから聞いて欲しい。お前の気持ちを聞くそのときに、俺の気持ちも聞いて欲しい。この戦いが終わったあとに、そのときは――

「ええ。私とあなた、二人一緒に。約束ですわ」

 このやりとりそのものが、もはや未来を決定づけていた。この瞬間があったのなら、もう訪れるべき未来は変わることがない。ジュンタは知っていた。リオンという少女とはそういう少女なのだと。

 ……正直にいえば、釣り合わないのではないかと思ってしまう。リオンの気持ちを今はっきりと知って、本当に自分でいいのかと。

 自分は彼女よりも弱くて、彼女よりも格好悪くて、たぶん彼女よりも秀でている部分なんて何もない。未来のビジョンもなくて、夢なんてはっきりいえるものもなくて、周りに振り回されてばかりの自分だ。リオンみたいな完璧超人を前にして、不安に思うなという方が無理な話。

 けれど……リオンの視線が伝えていた。今はまだ言葉にしない気持ちを。

(お前が俺のことをそう思ってくれるなら、この俺を信じてくれるなら――俺は自分を信じられる。この俺でいいんだって、そう思える)

 人に好きになってもらうとはそういうことなのだ。今、サクラ・ジュンタは生まれて初めて、自分という存在を心底から愛し抜けた。自分を認める何か――認めてくれる誰かがそこにいてくれるだけで、こうも人は自分を好きになれるのか。

 リオンが強いはずである。格好良いはずである。心に揺るがぬ自分を抱くということがどんなことであるか理解して――そうか。と、ジュンタは胸を張った。

(今俺はリオンの隣に立っていいって、一緒に歩いていいって、他でもないリオンに認められたんだ。リオンに、あなたは格好良いのだと、そう認められたのか)

 出そうになった涙を堪えて、ジュンタは微笑みを浮かべた。
 精一杯格好をつけて微笑めば、リオンは頬を照れくさそうに染めた。

(俺はリオンが好きだ。誰よりもリオンのことを愛してる。それだけは俺が一番だから)

 もはや満足を覚えることに、言葉すら不必要だった。

 ここに自分がいてリオンがいる。それだけで、もう十分に過ぎた。

 サクラ・ジュンタは、リオン・シストラバスを愛している。世界中の誰よりも。もう決して、未来永劫他の誰かがリオンよりも上に来ることはない。

 だから、居続けたいと、居続けようと思う。

 これから未来永劫。自分が、自分こそが、サクラ・ジュンタこそが――リオン・シストラバスにとっての一番に。

 


 

「寂しくない、といえば嘘になるな」

 テントに背を預けて体操座りしていたユースの隣で、ポツリとサネアツは言った。その声音は、言葉通り酷く寂しげだった。

「寂しくないといえば、嘘になります」

 きっと自分の声も、彼と同じ寂しげなものなのだろう。こればっかりは隠しようがなかった。

 ユースは自分がリオンにとって、最も理解ある存在だと思っていた。接していた時間こそ劣る相手はいるも、片時も離れず従者をしていたのだ。誰よりもリオンのことを理解していると自認していた。

「俺はジュンタの親友だ。ソウルパートナーだ。小さな頃からずっと一緒で、これからもずっと一緒だ。理解者と一番は別かもしれんが……今日この時この瞬間、思い知らされた。今この瞬間、ジュンタにとってのあらゆる一番は、リオン・シストラバスなのだと」

「リオン様にとっての一番も、きっとジュンタ様」

 サネアツも自分と同じ気持ちでいるらしいが、きっと関係ないのだろう。

 そう、これは隣にいる同じ境遇の相手に語りかけているのではなく、ただ独り言を呟いているだけ。

「……男同士の友情よりも、やはり愛する人が一番か」

「主従の絆よりも、やはり愛の絆の方がよろしいようです」

 朝からずっとこの場所でジュンタとリオンの様子を見守っていたが、最後に交わされた聖約は、あまりに神聖すぎて直視できるものではなかった。鼻息の荒かったサネアツですら、あの二人にだけ許された一瞬を前にして目を背けた。

 これが、愛が成就する瞬間。いや、正確にいえば成就が約束された瞬間なのか。

「愛とは、かくも偉大なものだったのだな」

「私の理解を超えていました。正直、愛というものが自分にはないものではないのかと、そう思ってしまいます」

「俺もだよ。自分の中の恋愛感情というものを自覚したことなど一度もなく、いつだって俺にとっての一番はジュンタだったのだが……愛という感情が、今このジュンタに対する友情すら超えるものというのなら、それは俺の認識すら超えている」

 二人揃って、愛というものを恐ろしい怪物か、絶対なる神のように捉えているのが何ともおかしかったが、それが嘘偽りなき本心であった。

「愛とは、なんて難しいのでしょう」

「心とは、なんと摩訶不思議なのか」

 明確なる恋を、恋愛を未だ知らぬ二人は、ようやくここに来て互いに視線を交わし合い、ふっと笑った。

 ユースにとってはリオン。サネアツにとってはジュンタ。大切な人同士の恋愛成就がここに決定された。恋人となるのはもう少しだけ先だろうが、本当にもう少しだけだ。胸には小さな寂しさと、それを上回る大きな喜びがある。

「がんばりましょう、サネアツさん。明日からの戦いを、お互いに」

「ああ。二人が二人揃って最強の死亡フラグを立てたからな。俺たちが精々気を付けてやらねば、愛で狂ったあの二人を恋人同士にさせてやることはできまい」

「本当に、困ったお二人ですね」

「そうとも。だからこそ俺たちは大好きなのだがな」

 二人が明日の戦いへ行く意味が先の聖約にあったのなら、自分たちが戦う理由はここに生まれた。

 愛し合う二人の愛を、誰からも祝福されるものとするために――

 たとえ自分の大好きな人の一番にはなれなくとも、自分は大好きな人の大好きな相手になることはできるのだから。

 愛は難しい。心は摩訶不思議だ。だから、そこにきっと大した差はない。

 好き――その想いのために、人はどこまでもがんばれる。

 そんな風に、人の心はきっとできている。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 進軍ラッパが鳴り響く。

 灰色の大地を揺り動かす白銀の騎士団の行進。
 揺らぐ天馬の旗と共に、聖なる進軍は始まった。

 前線基地を囲む城壁に作られた門より、続々と出て行く聖殿騎士たち。
 一路目指すはベアルの城。その手に槍を持ち、馬に騎乗し、勇猛果敢に正義と教義を示さんと胸を張る。

 彼らの胸を満ちるのは決意であろう。そこに不安が入り込む余地はない。
 
 率いるのは人の救い手であり導き手である使徒が一柱、金糸の使徒。
 
 ジュンタもまた一人の使徒として、留守を任された前線基地の中心部にある作戦方部のテントから、戦いへと赴く戦士たちを見送る。留守を任せられたのだ。門で見送りたい気持ちを堪えて、ジュンタはサネアツと共にじっと見つめる。

 テントを支える高いポストの上。天馬の旗が足下で揺らぐ中、ジュンタは白銀の騎士団の中、揺るぎない紅を見せる一団を、その中央に燦然と輝く真紅を見る。

 振り向くことなく、ただまっすぐに、来るべき未来を見据えて突き進む背中。
 憧れ、手を伸ばして追い求めた背中は、今日も変わらぬ揺るぎなさで遠ざかっていく。

「行ってこい。リオン」

 ジュンタの心に不安はない。

 想いを伝えると、そう約束した。

 その約束は彼女の誓い。たとえドラゴンが相手であろうと、その手に『不死鳥聖典』を担っていようと、あの我が儘なほどに竜滅姫でいたリオン・シストラバスが帰ってこないはずがない。

 信仰に似た信頼をもって、ジュンタは遠くに輝く光を見る。

 それが勝利の光になることを、強く願って。










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