第九話  狂信(後編)


 

 和やかな空気を切り裂いて奔る輝き――ジュンタより先に、向けられる殺意の束に気が付いたのはクレオだった。

「危ない!」

 彼女は握っていた白銀の槍を突き出すと、大きく横へと薙ぎ払う。テントを引き裂いて向かってくる槍の切っ先の中から、ジュンタに命中する槍の全てを弾き返し、クレオは引き裂かれたことによって視界に入ってきた襲撃者の姿に目を剥き、その後怒りに顔を歪ませた。

「貴様ら、何のつもりだ!?」

 クレオの怒号によって冷静さを取り戻したジュンタは、彼女に庇われたまま襲撃者を見渡す。

 先程まで談笑していたテントの内部を切り刻んだ槍は、美しい白銀の輝きを放っている。それは聖殿騎士団が正式採用している槍に相違なかった。そして、今まさに敵意と殺意をもってテントを囲んでいる襲撃者は、全て白銀の鎧を纏った騎士たちであった。

「どうして、聖殿騎士が俺を襲うんだ?」

 ジュンタが抱いた疑問はまたクレオも抱いている。いや、同じ聖殿騎士である彼女の方がより困惑し、それ以上の怒りを覚えていた。

「貴様らは使徒ズィール・シレ聖猊下、使徒フェリシィール・ティンク聖猊下両名のお言葉を忘れたか! この方は我らが守護すべきお人。この前線基地の留守を預かっておられるジュンタ・サクラ様であるぞ。この方に槍を向ける、これ即ち使徒様への反逆も同じ。貴様ら、異端に堕ちたというのか?!」

 使徒であることを気にしないで欲しい、できれば内緒にして欲しいという言葉を義理堅く守ってくれたのか。クレオは前線基地に残った騎士たちにも知らされている範疇で、文句を露わにした。その剣幕は、実際に怒号を向けられているわけじゃないジュンタでも背筋を寒くするほどだ。

「そこをどいてください、クレオメルン様」

 しかし、囲む騎士たちに怯んだ様子は一切見られない。自らの行動こそが正義と確信し、揺るがぬ姿勢でクレオに反論する。その光は、狂信者の光をたたえていた。

「そこな男は、あなたが守護すべき貴人ではありません」

「なに? どういうことだ?」

「その男が、我らが聖神教に仇なす敵であるということです」

 確信をもって告げる騎士の一人の言葉に、クレオは疑問を顔に出す。

「何を言う。貴様らも忘れたわけではないだろう。このお方に留守を任すとおっしゃられた方が誰であるかを。使徒様がこのお方を守れと言われたのだ。それは他の誰かが間違いと言ったとしても、決して揺るがぬことだろう。使徒様の命令は絶対だ」

 聖殿騎士にとって使徒の命令は絶対だ。ここを守護するために残った聖殿騎士たちは、ジュンタが使徒であることは知らない。ジュンタのためにその命を賭けているのではない。あくまでもフェリシィールとズィールに命令されたために、ジュンタ・サクラを守るのだ。その命令は、たとえ他の誰が訂正しようと覆せぬものである。

「その通り。使徒様のご命令は絶対である。故に、ジュンタ・サクラは異端として捕らえねばならぬ」

 ならば答えは簡単。彼ら聖殿騎士に、『ジュンタ・サクラ』を捕らえろという新たなる命令を下したのは、

「そう、それが正義。それが忠誠」

「っ!?」

 聖殿騎士たちの囲いの向こうから、ゆっくりと歩み寄ってきた人物を見て、ジュンタは息を飲んだ。

 堂々と、何ら恥じ入るところを持ち合わせていない王者の風格で現れたのは、黒い髪と金色の瞳を持つ神の獣。聖殿騎士の主としての資格を有する、使徒の一柱たる黒曜の使徒。

「スイカ……!」

「ジュンタ・サクラを捕らえよ。我が誇り高き騎士たちよ」

 現れた使徒スイカの命令を受けた聖殿騎士たちの動きに淀みはない。当然だ。彼らはスイカが本当はどんな立場として動いているか知らない。彼女がどんな行動に出たか知らない。故に、今でもまだスイカは絶対の主であるのだ。

 対して、ジュンタは使徒ではあっても隠者。金色の瞳を隠した今、スイカの命令を退けられる権限はない。

「させない!」

 迫り来る聖殿騎士たちの猛攻を、一人クレオが槍を振るって阻む。この場所で唯一自分の正体を知る彼女は、仲間である聖殿騎士を前にしても、決して躊躇することなく全力で槍を振るった。

 たとえ万全でなくとも、『聖君』という立場あったとしても、クレオは若くして使徒の近衛騎士隊の隊長についた騎士。並の騎士の攻勢は退けてみせる。

 これにはジュンタへの攻撃には何ら躊躇は見せなかった騎士たちにも動揺が走る。
 どうして使徒を守るべきクレオメルン・シレが、異端者の守護をしているのだ、と。

「どうやらクレオメルン・シレは異端者に誑かされてしまったらしい。悲しいことだけど、ゆっくりと時間をかけて理解してもらうしかない。今は一緒に捕まえよ」

「卑劣な! 聖猊下。あなたまでもが、異端に堕ちたと申されるか!」

 それでもスイカの命令の優先度は、彼らの中では一番にある。
 憂いを断ち切るスイカの指示を仰いだ騎士たちは、今度は手加減一切なくクレオに襲いかかった。

 そうなれば、さすがのクレオといえど多勢に無勢。ただでさえジュンタを守っての戦いである。すぐに槍をその手から弾き飛ばされ、取り押さえられてしまった。

「くっ、ジュンタ様。あなただけでもお逃げください!」

 地面へと顔を押しつけられたクレオは、それでも忠実に使命を果たそうと逃走を呼びかけてくる。限りなく成功の可能性は低いが、逃げの一手を取れば逃げ切れる可能性もなくはない。

 だけど――ジュンタは動かず、剣を抜くこともしなかった。

「……悪いな、クレオ。ここは大人しくすることを俺は選ぶ」

 ジュンタは降参を示すために両手をあげる。
 即座に聖殿騎士たちが詰め寄ってきて、両手を拘束し、動けないよう掴み上げられた。

 強引に膝を付けられ、頭を垂らすことになったジュンタは、それでも視線は堂々と立つスイカから離さない。

 それはまた逆も同じ。

 どこか怪しく光るものを金色の瞳に秘めて、少女は愛おしそうにジュンタのことを見つめていた。

 


 

 スイカに連れて行かれた先は、大きめのテントの中だった。壊れてしまった作戦本部ほどとはいかないけれど、かなり丈夫で豪奢なしつらえのテントだ。

 ジュンタは別の場所へ連れて行かれたクレオとは分かれ、武器を奪われ両手を縛られた状態でテントの中に放り込まれる。クレオがどうなったかは気になるが、スイカを前にした今では気にしてもいられない。彼女は『聖君』である。今はスイカの命令で囚われていても、酷い目に遭うことはないだろう。

「スイカ。やっぱり来たんだな」

 床に座り込んだまま、ジュンタはゆっくりとウッドチェアに腰掛けたスイカに尋ねる。

 最後に会ったときに見せた弱々しさなどどこへ行ったのか、あくまでも自然体に振る舞うスイカは、広いテントの中だけに届く音量で言った。

「やっぱり、っていうことは、ジュンタ君はわたしがこの前線基地に来ることを予想していたの?」

「予感があった。ここへお前がやってくるんじゃないかっていう予感が」

「そう。抵抗もせずに捕まったのもそれが理由なのかな? もっとも、本当に捕まってるかはわからないけど」

 スイカの視線はジュンタの手を封じる縄へと向けられていた。
 一体誰に教えられたかは定かでないが、スイカは『侵蝕の虹』については存じているらしい。これくらいの縄なら、力づくで破れないことはない。

「捕まってるさ。俺に、今スイカに危害を加える力はない」

 しかし、ジュンタは縄を千切ったりすることなく、あくまで縛られたままスイカを観察する。

 姿を隠す水の奥に本性を押し込めた黒髪の少女の頬は、熱に浮かされたように紅潮し、吐く息は息づかいが聞こえるくらい荒い。腕は自分の腕を強く握っており、何かを必死に堪えているように時折身体をピクピクと震わせていた。

 調子がおかしいとか、そういう様子ではない。興奮している、というのが一番わかりやすいか。

 てっきりジュンタは、次に再会するときは問答無用で叩きに来たり、あるいは拒絶されるものとばかり思っていたので、じっとこちらの行動を待つようなスイカの姿は予想外だった。

「スイカ。お前に訊きたいことと、話したいことがある」

 ジュンタは自分が無害であることをアピールしたまま、単刀直入に斬り込んだ。

 手荒な真似はせず、自分と二人きりになるように運び込ませたのだ。きっと、まだ話し合う余地はあるはず。色々と考えたジュンタはそう思って、スイカの返答を待った。

「ああ。わたしも。ジュンタ君に訊きたいこと、話したいこと、付き合って欲しいことがあるんだ」

「ありがとう」

 微笑みと共にそう告げられ、ジュンタも少しだけ微笑みを見せた。口から出た感謝の気持ちは、色々な思いが混ぜ合わさったものだった。

 それを――

「ちっ」

 ――吐き捨てる苛立った声が否定する。

「いい身分だな、サクラ。自分の状況がわかってないのか?」

「ヒズミ。やっぱりお前もいたのか」

 テントの入り口から入ってきたのは、スイカによく似た顔立ちの少年だった。黒髪黒眼の整った容姿は、最後に見たときよりも少し痩せた印象を受ける。が、その瞳にこもった意志の強さは、変わらず燃えるような激しさを灯していた。

 歩み寄ってきたベアルの盟主ヒズミは、こちらを一瞥すると、スイカの隣で立ち止まる。

「姉さんが行くところに僕はいる。そこがどこだろうとな。姉さんと違って僕は異端認定されてるけど、姉さんの協力があれば、忍び込むくらい容易いことさ」

「わたしとヒズミは姉弟だから。この世でたった二人だけの姉弟。一緒にいる。これまでも、これからも」

「……それが、お前の選んだ答えなのか? スイカ。お前は――

「そう。わたしは選んだ。ベアル教の同士として生きる道を。たとえ何千、何万と殺し尽くしても、ヒズミと一緒にいる道を」

 スイカは厳密にいえば聖地の敵ではなかった。今、このときまでは。

 弟を追って消えた少女が口にした言葉は、彼女がベアル教の人間になったことを示していた。聖殿騎士団の、聖地に生きる人々の、敵となったことを示していた。

 深く手を握り合う姉弟の姿に、ジュンタはショックを隠しきれなかった。予想していなかったといえば嘘になるし、その可能性が高いことも覚悟していた。けれど、スイカとヒズミが一緒にいることで、二人ともが戻ってきてくれるという可能性も夢見ていたのだ。しかし、それは所詮夢でしかなかった。

「だから、ごめんね。ジュンタ君。君が聖神教側についたなら、わたしは君の敵。敵の甘さにはつけ込むものだから」

「そういうことだ、サクラ。それで、忘れたわけじゃないよな? 次に会ったとき、喜んで僕はお前を殺そうって言ったことを」

 ヒズミの手はすでに弓の形を取った『黒弦イヴァーデ』を握っており、彼が望めばすぐにでも炎の魔弾は射られるだろう。スイカの横に立つ彼からは、姉を死守するという強い意志が見られた。たぶん、この状況そのものがもう彼にとっては許せない状況なのだ。

 ジュンタは必中の鏃を鼻先に突きつけられた状態でも、視線をヒズミに向けたまま逸らさなかった。

 ヒズミもまた視線は逸らさない。代わりに『黒弦イヴァーデ』を引っ込めて、一歩後ろに下がった。 

「……姉さん。手短にね」

「わかってる。それじゃあわたしから質問させてもらうよ、ジュンタ君」

 頼もしそうに弟を見ていたスイカの視線が、ジュンタへと戻される。

「質問というより、これは確認といってもいい。ジュンタ君。わたしたちと一緒に来る気はない?」

「これが本当に本当の最後のチャンスだ。僕たちと一緒に来れば、お前も故郷へ戻れる。二度と戻れないと嘆いた場所に、僕らは戻ることができる」

「だが、そこには犠牲がある。とてつもない犠牲が」

 スイカの言葉を引き継いだヒズミがいわなかった犠牲を、ジュンタが言う。
 スイカは顔色をピクリとも変えなかった。ヒズミもまた、変えずに鼻で笑う。

「犠牲なんて関係ない。この世界の人間がどれほど死のうとも、地球という星で生まれた僕らには何の関係もない。この世界に本当なんてない。本当は、僕たちのいるべき現実のみにあるんだ。
 僕らは夢から覚める。夢の中で何人死のうと、どれだけ惨たらしいことが起きようと、所詮は夢。眼を覚ましたら忘れる。関係なんて、ないんだよ」

 ヒズミは表情を変えないように努めているだけで、その拳は僅かに震えていた。彼がこの異世界での人々を、夢と認識しきれていないのは明白だった。それでも覚悟を決めて、握りしめていた。

 ……ならば、スイカのこの落ち着きようはなんだ?

「聖地に生きる人々の命を捧げれば、異世界への門は繋がる。わたしは、できることならヒズミだけじゃなく、君と一緒にそこを潜りたいんだ。ジュンタ君」

 背もたれにゆったりと背を預けたままスイカは笑っていた。人を殺し尽くすことを肯定して笑っていた。そこに誰かを犠牲にすることに苦悩し、嘆いていた弱い少女の姿は見つけられない。

「サクラ。こっちへ来い。僕らのところに。お前が望むなら、僕たちは全力でお前を守って元の世界へ戻してやる。両親にだって、友達にだって会うことができるんだ」

 必死に説得の声を並べ立てるヒズミ。彼の強がりとは裏腹に、彼の表情が、言葉が、この方法しかない現実を呪っていることは簡単に察せられた。

「この世界で知り合った奴らが見捨てられないっていうんなら、きちんとそこも考慮してやる。お前が望む奴らの安全がきちんと確保した上じゃなきゃ、儀式は執り行わない。だから一緒にさ、戻ればいいじゃないか。全然知らない奴のことなんて、放っておけばいい」

 そんなヒズミとの対比が、あまりにもスイカの異常な態度を浮き彫りにさせる。
 どうしてヒズミは気付かないのか。微笑みを絶やさないスイカは、致命的に、どこかおかしい。

サクラ! 僕らと一緒に!」

 最大限の譲歩を口にして、最後にヒズミは目の前まで来て手を差し出した。以前、決別に近い別れを告げられたことを考えれば、それは途方もないヒズミからの譲歩だった。

 見下ろしてくる視線は懇願していた。訴えていた。彼は殺すと言ったが、それでも自分のためじゃなく最愛の姉のために、ヒズミはサクラ・ジュンタが自分たち側に来ることを望んでいた。

「……確かに、俺は関係ない奴らの心配までするほど、優しい奴でも偉い奴じゃない」

「それじゃあ……!」

 安堵混じりの笑顔を浮かべるヒズミから視線を背け、ジュンタは首を横に振った。

「だから、俺は俺に関係している奴のために、ここで首を縦には振れない。ヒズミ。俺は元の世界には戻れない」

「っ!」

 ヒズミが息を飲んで――落胆の一言では表せない表情を浮かべ、差し出した手を引っ込めた。

「そうかよ。……お前に期待した僕が馬鹿だった」

 自嘲を浮かべてスイカの傍まで下がったヒズミに、ジュンタは謝ることをしなかった。自分の言葉が正しいと思うなら、ここは謝るべきタイミングではない。

「ジュンタ君はやっぱり、わたしたちと一緒には来てくれないんだ。残念」

 口を噤んだヒズミの代わりに、スイカが口を開いた。その台詞とは裏腹に、スイカの表情に残念という感情が読みとれる部分はない。前もって肯定をもらえなかったことを確信していたのか、最初からまるで変わらない声音と表情だ。

「でも、わたしは思う。やっぱりジュンタ君は必要不可欠なんだ」

「姉さん。もうこいつに何を言っても無駄だ。こいつは本当に故郷を追い求めてはいないんだ。僕らとは違う。僕らを止めようとする側にいる。どれだけ望んでも、こいつはもう応えてくれない」

 憐憫を孕んだ声音で、ヒズミは姉の顔は見ずに言った。
 まさしく、ヒズミの言葉は正しかった。その正当性は疑うまでもないのに、

「そうかな? わたしはそうは思わない」

 スイカはそう言って、パチリ、と指を鳴らした。

 ジュンタとヒズミが訝しげな表情を浮かべる中、スイカが行った合図により、テントの中へと聖殿騎士が二人入ってきた。

「クレオ?」

 彼らは、両手両足のみならず太股と腰の部分も縛られ身動き一つ取ることが叶わず、猿轡を噛ませているためにしゃべることもできないクレオを連れてきていた。
 クレオは鎧をはぎ取られており、下のインナーだけの姿。二の腕は剥き出しとなっており、短めのスパッツは柔らかそうな太股の半分近くを露出させていた。

「ふ〜ん、クレオってジュンタ君は呼ぶんだ。ああ、わたしの前に連れてきてくれ」

 騎士たちはどこか戸惑った表情を浮かべながらも、指示には従順に、ジュンタの無事な姿を見て安堵の表情を浮かべたクレオをスイカの前へと連れて行った。拘束されている状態のため、クレオは床に倒れ込む形となったが、騎士たちは彼女が傷つかないよう優しく倒す。

「ご苦労。これより先はわたしに全て任せて欲しい。このテントも守らなくていいから、君たちは混乱しているだろうみんなに説明して回ってくれ」

『了解しました!』

 スイカに労られた騎士たちは、感激の面持ちで礼を取った後、言われた通りにテントの外へと出て行く。そのままテントから離れていく音も聞こえた。テントの周りは静かなもので、遠くの方から僅かに声が届くだけ。

「さて――

 一体クレオを連れてきてどうするのかと思っていたジュンタの前で、今日初めてスイカの表情が変わった。

 設置されていたテーブルの上に乗っていた、特殊な力を有する杖『深淵水源リン=カイエ』を手に取ると、

「なっ!?」

「姉さん!?」

 その固く丸い先を、徐にうつぶせで倒れ込んだクレオの太股目がけて、躊躇なく突き落とした。

 突然の激痛に、クレオが猿轡の隙間から声になっていない悲鳴をもらす。
 ジュンタも、そしてヒズミも、突然のスイカの凶行には目を剥いて驚きの声をあげた。

「スイカ。お前、何を……?」

「何をって、見てわからない?」

 スイカは照れくさそうな表情をしていた。まるで、慣れないことをする自分に恥じらっているかのような、そんな表情を。

「わたしはクレオを虐めてるんだ」

「っ!」

深淵水源リン=カイエ』を持ち上げたかと思ったら再び、今度は逆の太股目がけて突き落とすスイカ。かなり力がこめられており、再びクレオは激痛に身をよじらす。先に突かれた逆の太股には惨たらしい青あざができており、こめた力の深さを物語っていた。

「う〜ん、やっぱり上手くいかない。慣れないことをすると失敗してしまう。もうちょっと上手くやりたいのに」

「ね、姉さん、なんで、そんなこと……」

 一体何が成功で何が失敗なのか。突き刺した柄の先をグリグリとさらに太股へと押しつけるスイカに愕然とするジュンタより先に、青ざめた顔のヒズミが震える声を向けた。

「そういえば、ヒズミにも説明してなかったな。悪かった」

 スイカはあくまでも照れたように、

「あまり見ていたくないなら外に出ているといい。大丈夫。わたしは、大丈夫だから」

「ね、姉さん……!」

 再び持ち上げた『深淵水源リン=カイエ』を、今度は思い切り横殴りにしてクレオの頬を強打する。スイカの言葉は、自分の行為を止めるつもりがないことを端的に示していた。ヒズミは信じられないという顔をして、呆然と後ずさりした。

 頬を殴られたクレオは、しかし今度は悲鳴を押し殺していた。
 彼女の頬からは一筋血が流れ出て、スイカは喜々としてそのひとしずくを『深淵水源リン=カイエ』ですくった。

 柄の先に付着した血液は、瞬く間に凝固する。『深淵水源リン=カイエ』は液体をその刀身と変える魔法武装。クレオの頬から流れ出た血は水滴ほどしかなく、生まれた血の刃は、ほんの小さな棘のようなものでしかない。

 だが、あくまでも殺傷という点を気にしなければ、それは十分な凶器だった。

「っあ!」

 さしものクレオも、お腹めがけて棘つきの柄をねじ込まれたら、悲鳴を噛み殺すことはできなかった。

 小さな棘はクレオの身につけた白いインナーを突き破って、その下の肌を浅く貫いたよう。それを証明するように、スイカが引き上げた『深淵水源リン=カイエ』の先についた棘は先程より膨らんでおり、じわりとインナーに血のしみができあげる。

 それはもう疑う余地もなく、拷問であった。

 血を刃とする『深淵水源リン=カイエ』を、何度も突き立てられる恐怖。回数を重ねるごとに刀身は肥大化し、与える痛みも、傷も深くなる。やがては内臓器官にまで刃は及び、死に至る。それが、スイカが今しようとしている行為。

「あはっ」

 童女みたいに笑って、再びスイカは『深淵水源リン=カイエ』を振り下ろす。

 クレオは恐怖に負けぬようにきっとスイカを睨んで、ヒズミは制止を呼びかけようと口を開く。

――止めろよ、スイカ」

 それより先にスイカが振り下ろした『深淵水源リン=カイエ』の先を手のひらで掴んでいたのは、縄を振りほどいて接近したジュンタだった。

「お前っ!」

 捕まっていた相手の拘束が解けたことに、ヒズミが慌てて弓を構える。
 振り絞られた弦と弓の間に燃えさかる矢は創造され、狙いををジュンタの額へと向ける。

「ヒズミ。止めるんだ」

 姉を守ろうとする弟の行為を非難するように制止させたのは、他でもないスイカだった。

 スイカは『深淵水源リン=カイエ』をゆっくりと持ち上げると、浅くジュンタの手を切り裂いたため、さらに肥大化した血の刃を嫣然と確認する。

 その隙に、クレオを庇うようにジュンタはスイカの前に立ち塞がった。

「姉さん、そいつから離れて! やっぱりこいつのところになんて来るんじゃなかったんだ!」

「大丈夫だ、ヒズミ。ジュンタ君がわたしを傷つけることなんてありえないんだから。うん、そうだな。やっぱりヒズミ、お前はちょっとここを離れててくれ」

「ちょっ、何馬鹿なこと言ってるのさ! そんなこと――

「ヒズミ」

 一言、スイカは弟の名前を呼ぶ。眉をハの字にしてさも困り果てたように。

――わたしは離れてろ、って言ったんだ」

 声音はどこまでも優しいのに、スイカの言葉には逆らいがたい何かがあった。

 まるで本能に直接呼びかけるような、底知れない威圧感。人が理解できないものを直感的に恐れるように、ヒズミは実の姉を前にして悲鳴を噛み殺していた。

「ヒズミ。心配してくれるのは嬉しいけど、わたしなら大丈夫だから。ジュンタ君に付き合ってもらいたいことがあるだけなんだ。だから、すまないがちょっと席を外してくれないか?」

「で、でも、目を離したらサクラが姉さんに何をするか……」

「なら、クレオを一緒に連れて行けばいい。そうすれば、ジュンタ君は何もできない」

 本当に目の前の少女はスイカなのかと疑ってしまうくらいに、以前のスイカなら決していわない提案を、いい考えだと満足げに目の前の少女は言う。クレオを人質にしろだなんて、前のスイカなら絶対に言わなかった。それをいえば、あんないたぶるように他者を傷つけることも、スイカはしなかった。

 何かがおかしい。それはもはや確信の域を超えて絶対であった。ヒズミも此処にいたって姉のおかしさに確信が持てたのか、躊躇うようにしばらく『黒弦イヴァーデ』を構え続けていた。

「……わかった」

 だが、姉を疑うことはできなかったらしい。
黒弦イヴァーデ』を下ろすと、代わりに身動きが叶わないクレオを抱き上げた。

「サクラ。言っておくけど、姉さんに何かしたら絶対に許さないからな」

 最後にそう言い残すと、クレオを抱きかかえたヒズミは、ふらふらとした足取りでテントの外へと去っていく。その足取りは、後ろ髪引かれるようにゆっくりだった。

「さて、やっと二人きりになれたね。ジュンタ君」

 ヒズミを見送ったスイカが、先程までのことはなかったかのように振る舞う。『深淵水源リン=カイエ』をテーブルの上に投げ捨てると、ついと近寄ってきた。相も変わらず彼女からは蜜柑のいい匂いがして、ジュンタの鼻孔をくすぐった。

「嬉しいな。また、君とこうして二人っきりになりたいって思ってたんだ。大切にしてくれるのは嬉しいけど、ヒズミはいつだって少しやりすぎな感があるから」

「それは、お前を大切に思ってるからだろ? お前が大切に思ってるように、ヒズミもスイカが大切なんだよ」

「二人っきりの姉弟だからね。当然だ。わたしはヒズミが大好きだし、ヒズミもきっとわたしのことを大好きだと思ってくれている。いい姉弟の関係だと、自分でいうのもなんだけどそう思う」

 甘えるようにすり寄ってくるスイカに、ジュンタは強ばった顔を向ける。

「……あいつはお前のことを怖がってたぞ? どうして、あんな真似をしたんだ?」

「あんな真似? ああ、クレオメルンを少し虐めたことか」

 スイカはきょとんとした顔のあと、テーブルに放られた自分の得物が、刀身だった部分を血のしみに戻っているのを一瞥すると、それっきり何の興味もなくなったかのようにさらに身体をすり寄せてきた。

「そんなことどうでもいいじゃないか。確かに、ちょっとクレオメルンには嫉妬したし、ヒズミはわたしのそんな小さな嫉妬に気付いてくれなかったけど、それはただそれだけのこと。取り立てて気にすることじゃない」

「気にすることじゃない? あんなことをしておいてか?」

「それより、ジュンタ君にお願いがあるんだ。少し付き合って欲しい。もちろん付き合ってくれるよね?」

 些末ごとだと話を早々に切り上げて、スイカはついに腕へと自分の腕を絡ませてきた。見上げてくる金色の瞳は濁った情愛で澱んでいた。前とは違うスキンシップをしてくる理由がわからなくて、ジュンタは微かな違和感に背筋を凍らせた。

 わからないはずがない。こんな過度なスキンシップを行ってくる意味なんて、一つしかないじゃないか。

 豹変したようなスイカの態度。たった一つのことしか見えていない子供のような言動。その全てが意味していることが……

(わからない。スイカが隠したいと思っていることが、俺には読みとれない……!)

 サネアツが立てた仮説が、ここに来て真実味を帯びてくる。

 アサギリ・スイカは自分が隠したいと思っていることを隠すことができる。つまり、彼女が内緒にする限り、決して秘密がばれることはない。
 今、微笑みを絶やさないスイカの本心は、彼女自身隠したいと心底から思っているものなのか。違和感は覚えるのに、わかると思えるのに、今のジュンタに答えを導き出すことは叶わなかった。

 わかる部分は、あくまでも彼女自身がさらけ出しても良いと思う部分でしかない。ジュンタはスイカのお願いに、頷くことしかできなかった。

「わかった。付き合う。何に付き合えばいいんだ?」

 スイカのことを救いたい。そのために、今できることはそれと信じた。

 スイカはジュンタの答えを聞いて微笑みを浮かべた。
 それは今日見たどの笑顔とも違う、以前彼女が浮かべていた柔らかな笑顔――

「それじゃあ付き合って。わたしと、二人っきりでデートをしよう」

 彼女がいつの間にか手に持っていたのは、白さの眩しい一冊の本。

 その本が虹色の光を放ったとき――ジュンタの姿は『封印の地』から消えていた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 一体どうして姉があんな凶行に及んだのか、甚だヒズミは理解できなかった。

(どうしてだよ、姉さん。たとえ敵になったからって、あんないたぶるような真似、姉さんはするような人間じゃないのに)

 空いていたテントのベッドにクレオメルンを下ろし、腹部を露出させ、救急セットでスイカにつけられた傷を手当しつつ、その小さくとも痛々しい傷に顔を顰める。

「……あれが、スイカ・アントネッリと呼ばれた使徒の、本当のお姿なのか?」

 警戒した顔のまま、しばらく黙々と手当てをするヒズミを見ていたクレオメルンが、唐突にそう訊いてきた。

 猿轡は罪悪感もあって外されており、彼女が口を開いたことには驚きはない。しかし、酷く悲しそうにクレオメルンが口にした話の内容には、ヒズミは黙ったままではいられなかった。

「違う。姉さんはあんなことはしない。きっと、何かそうしなければいけない理由があったんだ」

「そうか。……確かに、神居でお目にかかったときと、何か様子がおかしいように感じられた」

「ああ。だから、僕は謝らないからな」

 傷口に最後にガーゼを張り付けて、ヒズミは両手足が縛られたままのクレオメルンの代わりに、インナーの裾を直してやった。

「お前はサクラに対する人質だ。この、聖殿騎士を僕らが顎で使える状況を打破する方法は二つ。一つはフェリシィール・ティンクたちが戻ってくるか、あるいはサクラの奴が使徒であることを晒すことだ。前者はともかく後者をさせないためにも、お前にはしばらく大人しくしていてもらう」

 救急セットの蓋を閉じ、先程外してやった猿轡を手に取り、クレオメルンの口へと再び取り付ける。ヒズミは巫女として生きた時間の中、聖殿騎士の狂信ぶりはよく分かっていた。このまま口を開ける状態で人質を放置していたなら、目を離した隙に舌でも噛んで死ぬことだろう。

「しばらくここにいろ。安心するといいさ。騎士たちはお前を決して助けないだろうけど、それでも大事に守ってくれるだろうからさ」

 視線だけで反攻の意志を伝えるクレオメルンをその場に残して、ヒズミはテントの外へと出る。

 スイカたちのいるテントへと戻ろうかと最初思ったが、姉があそこまで二人っきりにして欲しいというのなら、そこには重大な理由があるのだろう。それが何かは考えに及びつかなかったが、きっとそうだ。

 悔しくは思うも、ジュンタはスイカを傷つけたりはしない。ある意味では途方もない傷をつける可能性はあるが、それでも少しの間なら大丈夫のはず。それが確信できたから、ヒズミはその辺りにあったテントへと足を踏み入れた。スイカとは違って、下手に聖殿騎士に見つかるわけにもいかない。

「……せめて、こっちを裏切り者みたいに見てくれれば、こっちだって……」

 それは変わることなく接しようとしてきた嫌な奴に対する悪態。ヒズミは誰もいないテントへと疲れた様子で踏みいって、

「どうやらお疲れのようだな、アサギリ・ヒズミ」

「誰だ!?」

 ジュンタとスイカ以外に知らないはずの本当の名前で呼ばれ、武器を取り出しつつ声がした方を睨みつけた。

 誰もいないと思って入ったテントには、間違いなく人間の姿はなかった。睨みつけた先にも誰もおらず……いや、いた。それは人ではなかったが、人語を介する存在はいた。

「こうして名乗りをあげるのは初めてだな。こちらでも、向こうでも」

「お前は……」

 ヒズミは報告を聞いて知っていた。テントの支柱の影から目の前に飛び降りた、小さな白い猫のことを。魔法を扱い、強力な情報網を有する、人語を介する化け猫。使徒サクラ・ジュンタの使い魔のような存在。

「この自己紹介をするのも久しぶりだが、名乗るとしよう。
 俺はミヤタ・サネアツ。お前と同じ場所を故郷とする、小さな異邦者だよ」


 

 

 ヒズミが武器をおさめてサネアツが持ちかけた相談を聞く気になったのは、彼が口にした『アサギリのご老体には色々とお世話になった』という言葉を聞いたからだった。

「ミヤタとか言ったな、お前。お前は僕の祖父を知ってるのか?」

 アサギリのご老体という言葉が指し示す人物は、ヒズミの知っている限り一人しかいない。ヒズミの祖父にあたる人だ。まさにご老体と称するのが正しいような人物であり、裏の社会では相当恐れられた、その筋では有名な人だったらしい。

 あまり確信をもっていえないのは、深くその辺りの知識を知る前にこの世界に呼び出されたからであり、だからこそサネアツの話に興味を持ったともいえた。

「風来翁とは子供時代からの付き合いでな。とある事件の折に知り合ってから、色々とためになる話を聞かせてもらった。あのご老体は深い話をたくさん知っておられる方だ」

 テントの中、決して友好を深めるほど近くない位置取りで向かい合いながら、二人は互いを探り合うような問答を繰り返していた。

「いや、本当にいいご老体だったよ。不良共を更生させてやりたいと持ちかければ、喜々として軍資金を戴けたし、文化祭などへの協力も楽しんでやってくれた」

 サネアツの語る祖父の姿は、幼き日に見たヒズミの中の祖父像と合致した。周りから慕われた彼は、その強面とは裏腹に、お祭り好きのとても気持ちの良い人だったと覚えている。

 けれど、ヒズミはそれよりも、サネアツの語る話が過去形であることの方が気になった。

「……お前がこの世界にやってきたのは、僕らよりも後なんだよな?」

「ああ。まだ一年も経っておらんよ。あまりにも密度が濃いため、なんとも驚きだがな」

「それで、それまではもちろん、サクラと同じ、僕と姉さんの故郷でも観鞘市にいた。そうなんだよな?」

「観鞘市でミヤタ・サネアツの名を知らない人間の方が珍しかっただろうさ」

 サネアツの返答にヒズミは押し黙る。

 自分たちがこの世界にやってくるよりも、ずっと後にこの世界にやってきたサネアツ。彼が語る過去形の祖父の話。それが意味していることは……聞きたくはない。だが、それでもスイカのためにも、今自分が知っておくべきことでもあった。

「なぁ、ミヤタ。お前が僕のお爺さんのことを過去形で話してたけど、それってつまりお爺さんが死んだ、ってことでいいのか?」

「いいや、ご老体は元気溌剌だった。あの様子では、現在進行形で現役に違いあるまい」

 意を決した質問は、あっけらかんとした否定によって返された。

「しかし、なるほど。そういう風に捉えてしまったのなら悪かった。俺としてはただもう会うことが叶わないと思ったから、少し過去形で話してしまっただけなのだがな」

「それは……そうか。お前もサクラと同じで、元の世界に戻るつもりがないんだな」

「俺はジュンタがこの世界にいる限り、元の世界を目指すことなどせんよ」

 尻尾をゆらゆら揺らす白猫は、そんな風に軽々しく頷いてみせる。そこに、諦めたのではない。もう故郷にいる人には会えないことを許容した、納得の意志があった。

「それは、その姿が原因か? そんな猫の姿になったから、戻ろうとしないのか?」

 ヒズミはそれが理解できない。なぜ、ジュンタも目の前の猫も、帰郷を渇望しないのか。
 
 特に、このサネアツの方が理解できない。ジュンタはまだここに残ろうとする理由がわかる。好きな人がここでできたから残ろうとしているのだろう。しかしサネアツは微妙に違う。そんな気がした。だって、サネアツは使徒という存在に強引にされてしまった姉よりも、もしかしたら酷い。人の形を失って猫にされてしまったのだから。

「人に戻る方法をこちらの世界で探すまでは戻らないって、そういうことなのか?」

「いいや。確かに、猫から人の姿に戻る方法は現在進行中で研究中だが、それは帰還のためではない。人として楽しみたいところもあるからだ。俺はあくまでもこの世界で生きていく意志を固めている。だから故郷には帰ることはない。たとえ、行くことはあろうとも」

 帰る、のではなく、行く。そこには無限ともいえる隔たりがある。
 ヒズミは否応なく思い知らされた。この猫は本当に、故郷に戻る気はないのだと。

「……なんでっ、だよ。お前もサクラも、どうしてそんなにも故郷を蔑ろにするんだ? 故郷って、家族って、大事なものじゃないのかよ? どうして取り戻したいものじゃないのかよ!?」

「大事だからこそ、今俺たちはここにいる。大事なものが多すぎたがために、俺は、ジュンタとここにいる。結論を簡潔にいってしまえば、同じ異邦者ではるが、俺たちとお前たちは根本的に違うものを見ているのだよ」

 普通、いきなりこの世界へとやってきてしまったら、死にものぐるいで自分がいた場所へと戻ろうとするだろう。しないのは、故郷を心の底から嫌っていた者だけだ。

 しかし、ジュンタとサネアツの二人はそうではない。まったく未練がないわけでもないのだろう。けれど――戻らない。そう、きっと二人は、自分たちとはこの世界にいる理由が根本的に違うのだ。

「同じじゃない、ってわけか。道理で、同じだと思って誘っても断られるわけだ。最初から、僕たちはまったく違っていたわけか」

「それには異を唱えようか。俺たちは一緒だよ。見ているものが違うだけで、知っていることが違うだけで、俺たちは間違いなく同じだろうよ」

「止めろよ、ミヤタ。お前の話に、きっと意味なんてないんだから」

 意味深なことを、意味不明なことを述べるサネアツに、ヒズミは聞きたくないと制止を投げかける。この本心をぶつけることができない子猫は、色々な意味でやりづらい相手だった。きっと、このまま話していても、ただ言いようのない不安を募らせるだけだろう。

「了解した。それでは、本題に入らせてもらおうか」

 しばし迷ったあと、サネアツは話題を変えた。

「アサギリ・ヒズミ。故郷を目指す異邦者よ。お前は何をしても、故郷を目指すのか?」

「僕は目指す。何をしてでも、あの世界に辿り着く」

「それは何のために?」

「僕のために。姉さんのために」

「それがどんなに苦しくともか?」

「それがどんなに苦しくても、だ」

 サネアツの真剣な問い掛けに、はっきりと返せることにヒズミは満足感を覚えた。

 ジュンタと出会って揺らいだように思えた気持ちだったが、こうしてはっきりと断言できることに安心する。自分は大丈夫だと、そうわかった。たとえ聖地を滅ぼしたとしても、どれだけの苦しみを背負おうとも、自分は姉のためにがんばれるのだと。

「ならば――

 だからこそ、サネアツの次の言葉は、ヒズミにとっての毒だった。

――それがどれだけアサギリ・スイカを苦しませようとも、か?」

 アサギリ・ヒズミは、その質問に対する答えを、用意していなかった。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 戦場で指揮を執るフェリシィールの許に、前線基地にて起きた騒動の情報が入ってきたのは、ちょうど魔獣の殲滅が一段落したときのことだった。

 ベアルの城を目指す道程で出会った膨大な魔獣たちとの戦いは順調そのもの。
 灰色の大地を埋め尽くした肉の塊は退けられ、騎士たちの勇壮なる行進には、いささかの衰えは見られない。多くの同胞の命を失ってなお、その高潔なる信仰心は輝いていた。

――スイカさんの命令で、ジュンタさんを捕らえた、ですって?」

 けれども前線基地の様子は、いささか以上に芳しくない様子だった。

 前線基地から早馬を走らせてきた騎士の話では、スイカが前線基地に現れ、留守を任せていたジュンタ・サクラを捕らえたということだった。スイカ曰く、ジュンタ・サクラは裏切り者である、と。なるほど。今目の前で一切の嘘偽りなく報告した騎士のように、聖殿騎士がスイカの言葉を疑うことはなかったろう。

(皆さんを動揺させないようにとの配慮が、このような事態を引き起こしてしまうなんて……)

 スイカの言葉を撤回させるには、少なくとも同等説得力を有する使徒の言葉が必要になる。それも伝達という形ではなく直接だ。それは中央から戦場全域を支配するフェリシィールか、後方の最大の切り札たるズィールの戦線離脱を意味する。

(これはベアル教の作戦? スイカさんはベアル教の仲間になってしまったと考えるしか……それとも、ジュンタさんに何かしらの要求があってのこと?)

 前者ならばジュンタの命が危険であり、尚更自分やズィールは戦場を離れられない。後者ならば、少なくともジュンタは無事だと思われるが……

(わたくしもズィールさんも、決してここを動けない。かといって、他の誰もスイカさんを否定できない)

 狂信――それこそが聖殿騎士の強さであり、また弱さ。

 フェリシィールは舞い込んだ問題に鋭い目つきで考え込んで、

――ジュンタに、全て任せてくださいませ」

 全ての不安を振り払う紅い輝きに、眉間の皺を消した。

「リオンさん。どうしてここに?」

「前線基地からの重要事項とのことで、フェリシィール聖猊下と同じくズィール聖猊下にも情報がもたらされました。私はズィール聖猊下よりお言葉を預かり、また頼み申すために参りました」

 フェリシィールの元へと馬を走らせてきたかと思うと、真紅の髪を揺らして目の前で降り立ち、立て膝をついたリオンははっきりとした声でズィールの意志を、自らの考えを述べた。

「ジュンタに全てを任せてあげてください。彼は留守を守ると言いました。スイカ様を助けると言いました。だから、どうか彼に全てを任せてくださいませ」

「リオンさん……」

 見つめる真紅の瞳には、ジュンタに対する絶対の信頼が見て取れた。それこそ聖殿騎士の狂信に匹敵する信頼。愛情と聖約に支えられた眼差しは、この程度でジュンタがどうにかなるとは思っていない、揺らぎない光をたたえている。

 ズィールもまた、ジュンタに全て任せるつもりなのか。
 ならば、フェリシィールは総司令として、またジュンタを信じよう。

「わかりました。前線基地のこと、スイカさんのこと、全てジュンタさんに任せます。わたくしたちは彼のためにも、今ここで自分たちの役目を全力で全うしましょう」

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げるリオンを見て、強く頷いたあと、フェリシィールは軍が進む前を見る。

 もう随分と近付いたベアルの城。その城を守護するために再び集まった、魔獣の残存兵力。ここで、再び決戦が行われる。

 今度こそ、敵は最大の切り札を切ってこよう。

 ディスバリエ、ドラゴン、スイカ、オーケンリッター――あらゆる不安要素を抱えながら、それでもフェリシィールの金色の瞳に迷いはない。

 狂信――それは狂おしいほどに信じるということ。

「全軍、前へ!!」

 フェリシィール・ティンクは、ただ勝つことを狂信している。


 






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