第十八話  リオン・シストラバス


 

 リオン・シストラバスの人生はあの日、母の背中を見たときに決まった。

 幼い頃、リオンは自分の家系が担う責務を知らなかった。
 自分が与えられた人よりも贅沢な暮らしの代価を知ろうともしなかった。

 何かを強制されたこともないリオンは、周囲の影響を自ら選んで受ける子供だった。

 周りに格好いい騎士がいたから剣を学び初め、優しい両親がいたから世界を好きになって、街並が綺麗だったから民を守らなければと思った。そこには一切のズレも歪みもない。リオンは、生まれながらにして宝石のように磨かれた高貴なる者だった。

 そのまま育てば、リオンは自他共に尊敬しうる貴族となったことだろう。国を想い、民を慈しむ貴族に。

 だから、歪んだといえば歪んでしまったといえるのかも知れない。

 オルゾンノットの魔竜事変の折、竜滅に赴く母の背を見送ったことで手に入れた、幸せになるためには竜滅姫にならなくてはという思いのままに、騎士として生きることを決めたのだから。

 貴族であり騎士である。それこそが竜滅姫。

 弱者のためにあり、強者のためにあり、従える者であり従う者。
 貴族が貴さに誇りを抱くのと同時に、リオンは騎士として尊さに敬意を払うようになった。

 自らの死を認め、他者の生を願う。それが歪みといわずなんと言おう。

 その美しいともいえる自己犠牲を幸福な結末と思ってしまった日、リオン・シストラバスの人生は、致命的なまでに普通の幸福から歪んでしまったのだ。

 ならば――ジュンタとの出会いもまた歪みなのだろうか?

 竜滅姫として生き、竜滅姫として死ぬ。
 その一つを胸に抱いて強く輝いていたリオンが出会い、巻き込まれ、惹かれ、結ばれた人。

 新たに手に入れた強さであり、幸福になるための聖約。

 ジュンタと出会わなければ、リオンは何の疑問が差し込む余地もなく竜滅姫として死ねただろう。けれどジュンタと出会ってしまい、選択を彼と共有することになった。

 歪んだものが再び歪んだのだとしたら……果たして、正しくなったのだろうか?

 違う。と、リオンは思う。

 歪んだものがまた歪んでも、やっぱり歪んだままだ。ただ、ジュンタが歪んだものさえ受け入れてくれた。それだけの話なのだろう。

 リオンはかつて人としての当たり前の幸福を捨てた。
 ジュンタはかつて捨ててしまったものを何喰わぬ顔で拾って与えてくれた。

 歪んだまま歪まなかった頃の幸せも手に入れた。だからジュンタとの出会いで手に入れたものも、また『幸福』だったのだ。

 幸せだった。とても楽しかった。

 自分の人生を振り返れば、そこには数多の笑顔があったけれど、やっぱり一番輝いていたときはジュンタと出会ってからの日々。一年にも満たないけれど、それでもこれまでとこれからの人生全てを詰め込んだような日々がそこにはあった。

 リオン・シストラバスの人生は、幸福を追い求め、幸福に出会う人生でした。

 今、リオンは自分と出会ってくれた人全てに感謝を捧げ、愛した人と手を取り合って翼となる。

 さぁ、謳おう。自らの人生に悔いはないと笑えるのならば。
 さぁ、誇ろう。愛した人と共にいられる、この幸福の結末を。
 


 


旅の終わりは、まだ見つからない


 

 


 ソレはその力を選んだ。
 
 理由は特にない。ただ、一番近くにあった力を自らのものにした結果だ。力の意味を理解できるほどに判断能力は備わっていなかった。

 ソレはその肉を選んだ。
 
 理由は特にない。捕食したものが偶然、あるいは必然的にそれだったからというだけ。ソレ自身に選択肢はなく、黒い光を伸ばして、朽ちかけたその光を肉と変えた。

 けれど、ソレはその獣だけは自分で選んだ。

 自らの内で死んだものの中で、それが最も狂おしいほどの切望を抱いていたから。ソレは他者の願いを叶えるものだったから、最も自分にふさわしいのは彼であると、そう思って選び抜いた。

 偶然か。あるいは必然か。そうして三つの材料は揃った。

 それら三つの因子を絡ませ、新たに世界に誕生させることができるのは、原初のドラゴンが生み出したシステムに介入できるものだけ。世界を変質させうるほどの歪みの力を持つ存在だけ。

 彼女はその資格を持っていた。

 かつて達成した九つの試練の果てに、彼女は世界にも干渉する力を手に入れたのだ。仮初めの身体を脱ぎ捨て、本来の身体に戻ったとき、かの者は十全の力をもって、かつての肉体を生け贄としてソレを産み落とす。

「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」

 涼やかな声が紡がれる。透明な賛美歌が歌われる。

 全ての材料が全てこの地に集まり、儀式場の中で破壊された。形を失ったそれぞれは消滅までの刹那の間に回収され、混ざり合い、新たな形をもって産み落とされる。

「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」

 かつて地獄の世を生み出した魔王たるソレ。
 絶望と破壊を振りまいた破壊の君たるソレ。

 満月の光によって、ただの肉塊に戻った水色の賢者が蒸発する。崩れた血肉の傍で、祈りを捧げる巫女は聖誕を祈る。

 ベアル教の悲願にして、彼女の千年を費やした探求の果て……。

 救世主が存在しなければならないこの壊れかけた世界を完膚無きまでに破壊し、そして、やがて救世主を本当の高みへと導く存在。

「魂にはドラゴンを。
 肉体には神獣を。
 精神には血の英雄を」

『創造』――あるいは『蘇生』。

「聖誕よ、あれ」

 神の御業を再現した女の声を聞き、ソレは産声をあげた。


「オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!」


 そのとき、封じられた大地の天蓋が砕け散り、『封印の地』の空と現実の空とが繋がった。

 闇が炸裂するように辺り一帯に飛び散り、『ユニオンズ・ヘル』が今度こそ完膚無きまでに破壊される。

 世界が狂った音を聞きながら、生誕した新たなる使徒は濁った金色の瞳をぎらつかせた。

「おはようございます。あなたの誕生を祝福しますわ、破壊の君」

 たなびく金色の髪。全身を埋め尽くす漆黒の紋様。
 違和感を撒き散らしながら、異物は歯をむき出しにして笑い、徐に長い爪を振り上げた。

 凶器にもなりうる爪が振りかぶられても、ソレを生み出した少女は身動き一つしない。

 知っている。少女はソレが求めるものを知っていた。だから、自分みたいなその手で何もなせない存在を手にかける理由がソレにはないことを理解していたし、そもそもの話、獣の目に自分の姿が映っているかも疑わしかった。

 血が飛び散る。

 獣は傷一つない美麗な自分の顔へと爪を突き立てたかと思うと、鼻筋を横に通る深い傷を刻みつけた。

 まるでこれが現実であることを確かめるように。
 自分が自分であることを、血の臭いを嗅ぐことで証明するように。

「……わりぃな、グリアー。どうやら、やっぱまだテメェのところへは行けねェみたいだぜ」

「問いましょう。あなたの名は?」
 
 少女は問うた。名は何か、と。ソレは多くの名を持っていたから。

 在り方の名は破壊の君。法則を破壊するもの。
 肉体の名はエリツァラテスラ。忘れ去られた古の使徒。
 魂に食い込んだ名はウェイトン・アリゲイ。神に至った異端導師。
 
 そして、選ばれたその精神なまえ――


「ヤーレンマシュー・リアーシラミリィ! 面倒だからよォ、ヤシューって呼んでくれや!!」


 


 

生まれながらにして、決定された者



 


 神聖大陸エンシェルトの北部。

 深い谷間と昼なお暗い森の先に、絶え間なく雪が吹雪く都がある。
 溶けることのない氷に包まれた都、ジハール。軍事大国ジェンルド帝国の帝都ジハールだ。

 近年の急速な領地の拡大と軍備の拡張によって、民の暮らしぶりは酷いの一言。そんな民を見下す高台には貴族たちの邸宅が立ち並ぶ。
 貧民。平民。貴族。そして王族と、それぞれの身分を区別する城壁が囲む差別と権力の都には、善性を腐らせるような陰鬱な空気が流れていた。

「観測。観測じゃ! 呵々、あやつめ。やりおったわい!」

 そんな空気を跳ね飛ばすような歓喜の笑い声を上げながら、枯れ枝のような老人が羅針盤の形をした魔道具によって観測された情報を見る。

 紫色のローブに長い白髪。頂点部分だけがはげ上がった齢七十を超えた老人がいるのは、帝都ジハールの頂きにそびえ立つ城――ル・バテン城。奥まった玉座の間で顎が外れかかるほど笑い転げる様は異様に過ぎたが、いつものことなので驚く人はいない。

「ラグナアーツより観測されたこの魔力パターン。すんばらしい。すんばらしいぞ! まさに我が英知が導き出した結果と寸分の狂いもない。呵々。あの小憎たらしい小僧とはいえ、この世紀の大天才の助力があれば、これくらいのことはやってのけるか!」

「愉しそうだな、『教授』」

 謁見者も明かりもない玉座の間には、『教授』と呼ばれた老人以外にも一人いた。

 部屋の中央で得体の知れない魔法陣や道具やらを散乱させた、子供みたいな老人を見下ろす場所――否、国全てを見下す玉座に座った美男子だ。

 年齢は四十に達した頃だろうか。引き締まった身体と鋭い氷のような眼差しが力強さを与えている。整えられた髭はその男の顔にいっそうの迫力を、宝石のような瞳には見るものをひれ伏させる眼力があった。  

 しかし一番に目を惹くのはその紺碧のマントだろう。縫われた紋章は彼が王族であることを示しており、さらに王の紋をつけた紺碧のマントをつけることが許されているのはジェンルド帝国においてはただ一人だけである。

「愉快じゃ。とても愉快じゃよ、皇帝陛下。これでようやっと、次の段階へと進むことができるのじゃからの。我が娘たちを遊ばせてやることができる。これが愉快でなくてなんだというのか」

 第六代ジェンルド帝国皇帝――グランヌス・トリスタン・イコルス・エル・ジェンルド。

 退屈そうに玉座でふんぞりかえっていた彼こそは、覇王とも虐殺王とも呼ばれた皇帝である。

 冷たい氷のような彼の笑顔を見たものは、配下肉親敵問わず誰もいないという。かくいう気安く振る舞えるほど付き合いの長い『教授』も、彼が笑ったところなど見たことがない。

 だが――クククッ、とくぐもった笑い声は玉座より響いた。

「そうか……そうか。ついに成ったか、十年以上を費やした計画の第一歩が!」

 凶相。数十年動かされなかった顔面の筋肉を不気味に引きつらせて笑うジェンルド六世の笑みは、端麗な顔に似合わぬ怪物のような凶相だった。

「わかる。余にはわかるぞ! 神は余にこの玉座を退けとおっしゃられた。そして新たなる皇帝を玉座につけ、彼のものが振りまく破壊を支援しろとおっしゃられた! 罪深い。ああ、神とは人を本当に愛しているのだな!」

 皇帝の証である紺碧のマントを脱ぎ捨てて、グランヌスは空の玉座の前に膝をつき、頭を垂れる。

 そして、あまりにも多くのものを侮蔑する誓約を口にした。

――この肉この血この魂の一欠片まで、全てを主に捧げん。
 破壊の道を辿り、神託を賜る我こそ、唯一使徒の従者を許される者なり。
 破滅こそ我が名誉。我が名誉は永劫にあなたの傍に。
 破壊の君が巫女――グランヌス・トリスタン・イコルス・エル・ジェンルド」
 
 だがしかし、誓約はなった。

 ここに人知れず一組の主従の契約は結ばれた。

 


 


炎の加護を持ちて、最強を誇り

 



 

 平面のドラゴンは一路南を目指して駆けていた。
 
 稲妻によって受けた損傷。肉体の大部分を失ったドラゴンは回復のために、千年もの間自らの住処だった地を目指す。影に潜り込んでいる以上誰かと遭遇することもなく、目的地に到着した。

 平面のドラゴンはじっくりと傷を癒し、機会を待つことにした。

 不死の怪物でありながら、そのドラゴンは一人の人間に恐怖を抱いてしまった。自らをも凌駕した一人の騎士……今まで圧倒的強者であったドラゴンは、それが弱者の恐怖であるとは知らない。 
 傷を癒すというのは建前で、もう一度あの戦士と相まみえることを恐れているのだと。二次元に存在する以上、傷を負うことがないドラゴンの特異性から鑑みれば、避難先を選ぶことに意味はないのだから。

 肉体の損傷はもう完全に近い形で再生していた。
 問題なく影のドラゴンを出すこともできるし、戦力も万全。

 平面に潜むドラゴンは、それでも待ちの姿勢を取る。

 今のままではダメだ。もっと強い力を得なければ、再び戦ったところで結果は変わらない。

 戦場で起きた天蓋の崩落が、そのときドラゴンがいる場所まで及んだ。

 音もなく崩れていく天蓋の向こうに現実の空が現れる。満月があまりにも眩しいからだろう。星々が恥じ入るように輝くだけの、静寂の夜が。

 肉食の欲求が、あの夜空の下に無数の肉が蠢いているのを察した。ドラゴンに食欲も空腹もないが、それでもたらふく肉を食らえば自らの力を高めることができるのだと、単純な思考からそう結論を出した。

 本体を平面に潜めたまま、ドラゴンは空へと影をのばす。自らの手足も同然の影によって人間を食らいつくす。そうして再びドラゴンは覇者としての矜持を取り戻す戦いに赴くのだ。

 例外的なあの騎士以外の人間など所詮有象無象。ドラゴンの力を前にして逃げまどうのみ。

 平面の中で低いうなり声をあげながら、ドラゴンは影が天蓋を越えるのを見届けた。

 再びドラゴンが予想だにしない事態に恐れおののくは、紅蓮が天蓋を焼き尽くしたとき。月よりも激しく輝く炎が、一瞬で影のドラゴンを舐め尽くし、輪郭も残さず燃やし尽くしたそのとき――

 なんだ? 疑問を思う前にドラゴンは恐怖に打ち震えた。

 恐怖という感情を思い出したドラゴンは、確かに影を燃やした炎から感じ取ったのだ。先の騎士が見せた以上の力を。


――なるほど。本体はこの世在らざる平面に潜んでいたか」


 決して大きくも小さくもない音量ながら、それは魂を震わせる声だった。

 空より灼熱の吐息が吐き出され、ドラゴンを囲むように辺り一面が炎の壁に包まれる。熱は二次元にまで及ばないが、視界を埋め尽くす炎の紅さにドラゴンは呆然と立ち尽くす。

「さすがにアレが最強の魔獣ではないか。それではあまりにも呆気なさ過ぎる。我が王道の障害なのだから、せめてある程度の強さは誇ってもらわねば時間の浪費ということ」

 炎の向こうより声の主が現れる。

「許す。面を上げよ。ドラゴンを名乗るのならば、卿は我が至高を拝謁するに値する」

 それは炎よりなお燃ゆる男だった。

 触れたもの全てを燃やし尽くすような真紅の髪。瞳もまた真紅。右眼の下に刻まれた花びらのようにも傷のようにも見えるタトゥーが、男の王者のような貫禄に華を添えていた。

 しなやかな裸体を包み込むものは一枚の下穿きと肩に羽織った上着のみ。胸板と腹筋を惜しげもなく晒し、周りの熱など温いといわんばかりに振る舞う様は、まさに王者。あらゆる万象触れることあたわず。炎が人の形を取ったかのような、その存在。

 またその手に握られた剣も、森羅万象を焼き尽くす業火の剣だった。
 あらゆる『現象』を灼き断つ剣。それに斬れぬものなど存在しないし、それに燃やせぬものなど存在しない。

「なんだ、この期の及んで覚悟が決まらぬというのか? それでもかつては魔王と呼ばれた器か。『封印の地』共々三つに分けられたときに、その矜持までもを失ったか?」

 真紅の男はこちらが現れるのを待っているのようだったが、ドラゴンにわざわざ危険な実体化をしてやる理由も余裕もない。怯えるように平面に引っ込んだまま、ドラゴンは牽制の影を実体化させた。

「またそれか。二番煎じはつまらぬぞ。……まあ、よい。こちらとしてもあまり時間をかけるのは趣味ではない。我にはやらねばならぬことが多くあるのでな。虹の翼への祝砲の意味もある、至高の一振りをもって終焉としよう」

 男は高々と持っていた剣を掲げた。魔力の波動は――想定を大きく超えている。
 
 剣は周りにあった炎を吸い込んでいく。否、それはあらゆるエネルギーを吸い込み、自らの力に変換していく。炎はかの剣の暴食に相まみえ、その存在ごと食い尽くされたに過ぎない。

 それはドラゴンの影も同じだった。膨大な光量に影が消え去ったかのように、男がかかげた剣に吸い込まれて消える。
 
「我が王道を示せ、紅き翼よ」

 規格外の力を見せた男は、王者の貫禄をもったまま、あらゆる全てにその名を告げる

 それは名を持たない男にとっての一つの名乗り。自らを『至高存在』と示す、世界への名乗り。

 平面のドラゴンは、神の威を具現させる剣の銘を聞くことができなかった。発現の予兆を見た段階で、平面から出て空へと逃げ出していた。

 関係ない。あの炎には平面であろうとなんだろうと関係ない。あれに断てぬものはない。あれに焼けぬものはない。つまり――あれが勝てぬものなど存在しえないのだから。

 ドラゴンは逃げた。全速力で空へと逃げた。天蓋をぶち破ってその向こうへ。

「我が王道の礎となるがいい!」

 けれども炎は空を閉ざし、天を焼き落とす。
 
 まさに業火。ドラゴンはその存在ごと焼却され、敗北を一方的に叩き付けられた。

 


 

定められた路に沿って、独り竜を滅し世を救う

 


 

――マスター。予想通り、マスターの王道の七つ目までの制覇が確認されました」

 炎が舞い散る中、美しい満月を見つめる男の傍に、いつの間にか一人の少女が立っていた。

 薄紅色の髪をツインテールに結んだ、魔性めいた美貌の少女。
 彼女は主と呼んだ男の斜め後ろに控えると、艶やかな声で今し方の戦いの結果起きたことを報告する。

 男はしばし余韻に浸るように少女の言葉を口の中で転がして、「そうか」と静かな声で答えた。

「七つ、か。八つ目が難しいというのは伊達ではないようだ。とはいえ、我が王道の十の試練全てが制覇されなくて良かったというべきか」

 男は喉の奥で微かに笑うと、

「それでは興醒めというものだからな。一つ目が最も難しいと踏んだわけだが、どうやらそう簡単でもないらしい」

「いくらマスターが強くとも、倒さなければならないものが目の前にいなければどうしようもありませんから。しかし、ただ一振りで不死の敵を滅すとは、さすがはマスター」

「なに、大したことではない。あれはただの終わりの魔獣、ただの不死の怪物だ。我が真に認めうる終わりの神獣ではない。ならば、この結末は必然といえよう」

 人の身では本来起こりえない『竜殺し』を成し遂げた男は、視線を遠くへ向ける。

 彼方まで広がる見果てぬ荒野。
 遙か天蓋の向こうに灼熱の息吹が舞い上がるのを見て、男は愛おしげに眼を細めた。

「見よ。美しい夕陽ではないか。この地に封じられていた神話の遺物が解放され、ここに世界は黄昏を迎える」

「イエス・マイマスター。そしてマスターが来る常夜を灼き晴らし、新たなる夜明けの月となられるのです」

「そう、我こそが――新世界の始典バイブルに至るのだ」

 威風堂々とこの世の黄昏を、全ての始まりを今、至高存在が見届ける。


 

 

その栄華は約束され、栄光はその手から零れない




 

 聖地ラグナアーツでは、人々が空を祈るような気持ちで仰いでいた。

 夜空の向こう側に、鏡映しで映り込む灰色の大地。
 延々と続くその地の邪悪が、今砕けた天蓋を隔ててこちらの世界へ現れようとしている。

 そこまでは分からなくても、人々は空に映り込んでいるものが聖猊下たちの向かった『封印の地』と気付いたのだろう。戦いへ赴いた戦士たちの無事を願って一心に祈りを捧げる。

 男が。女が。子供が。老人が。父が、母が、姉弟が、友が、恋人が、祈る。

 また、全てを知り尽くした美貌の老人も、空を見て祈りを捧げていた。

「やはりそこへと至る、か」

 手を組み、神居の塔の天辺で跪く様は神に告解する罪人のよう。事実、ルドールが祈りを捧げた相手は己が使徒フェリシィール・ティンクであり、従者の不遇を許して欲しいという内容であった。

 予定ではもう少し時を隔てようと思っていたが、事態がここまで進んだとなればもう待ってはいられない。天蓋が崩れ去ったことでもうすぐ『封印の地』は消え去る。仮初めの大地は虚空へ消え、赴いた人々はこの聖なる大地を踏むだろう。

 ルドールがラグナアーツで待機しなければいけなかった最大の理由――フェリシィールを召喚するという役割は、もう必要ない。ここにいなければならない理由はなくなった。

「御身のこれからの道に、どうか神ではなく、人々の祝福がありますように」

 祈りを捧げ終えたルドールは立ち上がり、隠されていた右目にかかった前髪を徐にかき上げた。

 ルドールの左目は湖水のような美しい蒼。であるなら、のぞいた右目も同様であるはずだった。

 しかし現れたルドールの右目は――金色。

 高貴とされる色であり、神に祝福された色。
 ただし、金色の双眸が神に産み落とされた証ならば、金色の単眼は神と契約した者の証。罪人として縛られた烙印の痕だ。

 あえてその烙印を確認することで、ルドールは自らがかつて選んだことを自分自身に刻み込む。

「さらば。我が主よ」

 僅かな荷物を、息子が残した負の遺産を手に、森の賢者は神居の塔を後にする。
 もう見守る必要はなく、天蓋に紅の羽根が舞った時点で、聖戦の結末は決まったも同じ。

 悲しいかな。そう――全ては神のシナリオ通りに。

 可能性を高める代わりに、タイムリミットが制定された。

 もう時間はない。早く、奇跡を招かねば。


 


されど栄華も栄光も、ただ空しく響くものなり




 

「選ぶのか、ジュンタ。また、それを」

 空へと飛翔せんと紅蓮に燃えさかる真紅を見て取って、サネアツは嘆くように呟いた。

 紅が世界を包み込んだときに、サネアツは幼なじみとその恋人が何をしようとしているか理解した。これと同じ光景をサネアツは半年前にも見ている。

 幼なじみが自ら選んだ道のため、サネアツは駆け回った。
 終わったあと、幼なじみが思うとおりにやり遂げたという達成感と共に、それ以上に何もできなかった自分に苦々しい想いを抱いた。

 そして今また同じ光景を見るにあたって、サネアツは同じ想いを抱く。

「俺は、また何もできない。邪魔してやることもできない。ジュンタ……お前がリオン・シストラバスを選んだとき、これがお前にとって最も幸せな結末になったのか?」

 そうでなければ許しはしない。そうでなければ、あまりにも悔しいではないか。

 独り、サネアツは遅い夕暮れに照らされて、ぽつんと立ち尽くす。

 これから来るだろう退屈な日々を思えば、すぐにでもジュンタの許へ行き、その手から『不死鳥聖典』を叩き落としてやりたい。二人の愛の証をくわえて、あの夕陽に向かって走っていきたい。

 だけど……できない。

 ジュンタを大切に思うのなら、これが彼にとって最も幸せな終わりだというのなら、サネアツは立ち尽くすしか……。

「ふっ、馬鹿な。立ち尽くしてなどいられるものか!」

 サネアツは駆け出した。夕陽に向かって走り始めた。

 知るか。ジュンタの気持ちなど知るか。これが最高の終わりなど、そんなものは気のせいだ気のせい。バッドエンドに酔いしれる不幸な主人公ではあるまいし、こんな一緒に死んでハッピーエンドなんて認めない。

 否定してやる邪魔してやる。どれだけ非難されても知ったことか知るものか。

 これがハッピーエンドなんて――そんなわけがないッ!!

「そうだ。これが、ハッピーエンドなわけが……」

 走りながら、サネアツははたと気が付いた。これが本当の意味でハッピーエンドにはあり得ざることに。

 ジュンタは世界を救うために、リオンと共に人柱になることを選んだ。大勢を救って愛しい女と共に死ぬ……ある意味ではこの上ないハッピーエンドだが、ジュンタは救世主だ。そうと願われ、そうなるように仕組まれた存在だ。

 サネアツは、ジュンタがマザーのシナリオをその持ち前の破天荒さから破り捨てているものだとばかり思っていたが、もしかしたら違うのかも知れない。

 だって、ジュンタはこれがハッピーエンドだと思い、サネアツはこれがハッピーエンドではないと思った。

 いつだって同じベクトルで足並みを揃えていたソウルパートナーだというのに、今、決定的に違う方向を向いている。

 どちらが違った方向へと行ってしまったのか、それは考えるまでもない。なぜならば友情の絆を超える力は、古来より愛の力だと決まっているから。サネアツは何も変わっていない。だから変わったのはジュンタの方だ。

 リオン・シストラバスと出会ったことによってジュンタは変わった。昔ならば決して認めなかっただろう、自らの死という結末を享受していることからそれが伺える。

「これがマザーのシナリオ? この流れがマザーにとっての予定調和だとでも? ……馬鹿な。今ジュンタは死のうとしている。それがマザーの願う流れだなんてあり得ない」

 けれど……これがもしもマザーの描いたシナリオだというのなら、一体ジュンタはどこで囚われてしまったのか?

 サネアツは考えた。雷光よりも早い速度で。脳裏に刻まれたあらゆる萌えデータを打ち消して、空いたスペースまで使って考えた。

 リトルマザーからの説明。マザーの存在意義。異世界の現状。ジュンタの力。自らの役割。異世界で出会った人々。仕組まれたオラクル。願われた救世主。愛は、友情をも凌駕する……。

「っ!?」

 まさか。とか、もしや。とか、そういうのを超えた領域でサネアツは気が付いた。マザーのシナリオの核心に。

 そう、マザーはジュンタの意志を自らの手で歪めることはできない。できることは彼の周りに環境を整えて誘導してやることだけ。だから、ジュンタの巫女にはクーヴェルシェンが選ばれた。ジュンタが自己を使徒と認めるための存在として。だからスイカをこの世界に呼んだ。ジュンタがオラクルをクリアするために必要な敵として。

 二人はジュンタに必要だったからこそ存在した。会うべくしてジュンタはクーヴェルシェンと出会い、スイカと出会った。ジュンタが異世界において出会う人々は、きっと何かしら意味を持っているのだ。

 ならば。ならば…………ジュンタが最初に出会った彼女は?

 この異世界に来て一番初めに出会った、最も彼が意識するだろう異世界の象徴には、一体どのような意味があったのか?

「最初、からだ。マザーのシナリオに最初から囚われていた! 
 マザーが最も有力な手駒として、ジュンタの意志を救世主に近づけるための存在として選んだのは、他でもない――――リオン・シストラバス!!」

 どうして今の今まで気付けなかったのか。悔やまれる。悔やまれる。悔やまれる!

 リオンと出会った理由が一番目のオラクルの保険? そんなわけがないだろう。異世界で最初に、しかも直接意識し合うような状況で出会わせた相手だ。そんな相手がたった最初のオラクル程度で終わるような相手であるはずがない。

 思えば、全てのオラクルにリオンが関わっているのではないか?

 一つ目のオラクルのとき、ジュンタはリオンを命がけで助けた。
 二つ目のオラクルはリオンへ近付く道標をもたらし、三つ目のオラクルの過程において、ジュンタはリオンと心からぶつかり合った。

 四つ目のオラクル。ジュンタが神獣となりドラゴンとして咆哮することが達成の条件と読んだが、あるいはあれは、リオン・シストラバスに使徒だとばらすことがその達成条件だったのではないか?

 そして五つ目。ジュンタは果たしたのち、リオンと恋人になった。

 オラクルは歪みを促進させる。一つ達成することにジュンタは強くなっていった。だが、それより強く、強固になったのは、リオンに対する恋心ではなかったか?

 リオンが竜滅姫なのもそうだ。儚く美しいほどに、散る定めを背負ったお姫様。男が惹かれ、守って上げたくなるのは当然だ。

 竜滅姫――そのシステムそのものがマザーの作りだした救世主のための指針。恐らく、今頃ジュンタは六つ目のオラクルを果たしてしまっている。自分の未来を――リオンと共に生きる未来を心から選んで。

「くそっ! 早まるなジュンタ、お前は幸せな終わりなど迎えられない! リオンは、リオン・シストラバスは……!!」


――はい。そこまで」


 サネアツは弾丸もかくやというスピードで走り抜けていた。その小さな背中にストンとナイフを突き立てる神業を、一体どう褒め称えればいいのか。
 
「がっ!」

 サネアツは滑るように地面を転がり、その後、一歩も前へと進むことなくうつぶせに倒れ込む。
 背中を刺されたはずなのに痛みも血もなく、ただ何かが致命的に貫かれた不快感に心臓が破裂しそうになる。

「一体、なに、が……?」

 不規則になる呼吸に苦しみながら、サネアツは後ろを振り返った。

 背中にはナイフが刺さっている。そのナイフの刀身が血ではない紅に染まっているのを見て、サネアツは珍しく本気で驚いた。

「真紅のナイフだと?! 馬鹿な。なぜならばこれは……!」


「【死神ドラゴンスレイヤー


 サネアツの言葉を引き継いだ誰かが絶対死を謳い、影を落とす。

 子猫の小さな身体を包み込むようにも、拘束するようにも覆い尽くした影はヒトガタ。柔らかく膨らむスカート。肩ほどまでの髪。頭の上にはフリルのような影がある。

 なぜ?

 影を見て、サネアツは振り向く前からこの相手が誰であるか気付いていた。猫になって、人よりも低い視線で世界を捉えるようになったサネアツはこの影の形をよく知っていた。

 だから、なぜ。なぜ、自分を襲う? 
 そう疑問を持ち、考えてもわからないから、力無く地面に倒れ込みながら前を見た。

「あ〜あ、やっちゃったね。それ最大の死亡フラグ。神のシナリオを看破して舞台に殴り込みをかけようとするのは、サポーターじゃなくてイレギュラーだから。君には悪いけど、ここで消えてもらうようにだって」

 真紅の太陽を背負ってそこに立つ女は、無感動な瞳でサネアツを見下ろしていた。

 目に映るのは翻る緋色のスカートと眩しい白いエプロンドレス。光の影響か、薄茶色の髪は紅に染まって見える。銀縁眼鏡の奥の瞳だけが、サネアツの知る彼女とは違っていた。

「お前は……誰だ?」

 目の前の女は、自分の知っている少女ではない。

 確信をもってサネアツはそう言えたから、初見の彼女の名を問うた。

「わたし? ……難しい質問だね。わたしにはたくさん名前があるし。『異邦者』『神衣』『処刑人』『主の魂』……でも、君が一番気にしている疑問について最もわかりやすい言い方をすれば、わたしは――

 女は名乗る。緑色に濁った金色の双眸を持つ女は。





――萌えエロメイドのカトレーユちゃんです。お帰りなさいませ、ご主人様」





「…………」

「無反応とか、エセメイド殺しにも程がある。つまんないね」

 ふざけているのか本気なのかわからない顔で、お辞儀しながら名乗ったあと、彼女は手のひらを浅くサネアツの背中に刺さったナイフに押しつけた。ふざけた立ち振る舞いの割に、その動きはあまりに洗練されていた。

「…………ああ、なるほどな。たしかにこれは死亡フラグだったようだ」

 納得する傍ら、身体ではない、もっと別の何かに死神のナイフが食い込む。

「これまで彼を支えてくれてありがとう。感謝してる、って酷い神様が言ってた。というわけで、まだわたしにはこのあと大仕事が残ってるし、ここら辺でさようなら。バイバイ」

 女の言葉に呼応するように、竜滅のナイフが激しく光を放つ。
 それはサネアツがサネアツである根元的な何かを掻き消していく。まるでデータがウイルスによって破壊されていくように、たった一つの因子によってサネアツの世界が消されていく。

「……すまん、ジュンタ。俺は、ここで、立ち止まる、よう、だ……だから…………」

 抗いようのない息吹に晒されながら、サネアツはニヒルに笑った。

 神のシナリオを描く一人を――己の敵を目に焼き付けながら、全てに気付きつつもここで立ち止まるサネアツは、まだ立ち止まらない戦友に後を託す。


「だから、ジュンタのことをよろしく頼むぞ。ユース・アニエース……!」


「っ! サネア――

 それが救世主のサポーターとして選ばれた、小さな子猫の残した最後の言葉だった。






英雄たるその人生は、そのまま終わりへと至り



 

 

 人生の最後には走馬燈を見るというが、ジュンタは走馬燈を見なかった。

 代わりに、両手を絡めて見つめ合う少女のことを思う。

 長い真紅の髪はとてもいい匂いがする。

 まるで炎のようなのに、清らかで触れれば溶けてしまいそうだ。彼女はこの髪が自慢で、何かと隠したりするのが気にくわなかったようだ。彼女はいつも自分に自信満々だったから、見せびらかしたかったのかも知れない。

 柔らかな肌は白い。

 そういえば、最初出会ったときはその肌に触れてしまったのだと思い出す。あそこまではっきりと触れたことは人生初めてで、そりゃもう激怒させてしまったりした。結局あのときのことは許してくれたのだろうか? たぶん、許してくれてない。

 瞳はちょっとつり目がち。

 彼女はいつも怒っていたように思える。怒らせるようなことをしたりからかったりした自分も悪いのだが、しょうがない。怒っているときの彼女はとても生き生きしていて綺麗なのだ。もちろん、怒ってなくてもかわいいのは変わらないけど、ジュンタは彼女の怒った顔も大好きだった。

 鎧を纏った身体。

 すらりと引き締まった彼女には鎧だけじゃなくドレスもよく似合う。生まれながらにしてお姫様な彼女は、どんな宝石でも綺麗な洋服でも似合うのだ。ただ、どんな服でも宝石でも彼女には及ばなかった。

 いつも剣を握っている手。

 紅茶のカップしか持ったことがない貴族に比べれば、若干皮膚は硬いだろう。けどプニプニしていてこれはこれで気持ちいい。きちんと隅々まで手入れされた手にはしみ一つなく、まるでピアニストのようだ。吸い付くように指を絡められると、温かくて離したくなくなってしまう。いや、もう離さない。

 小さくほころぶ紅色の唇。

 尖ったり引きつったりもするけれど、彼女が口にする言葉一つ一つが宝物だった。いつでも自分に正直で、嘘なんてつけないしついたら自爆してしまう彼女の言葉は、ずっと胸にしまっておく価値がある。

 ……ああ。ダメだ。
 
 紅の瞳。純粋で、汚れを知らない、世界をまっすぐに見つめるこの真紅の瞳。

 この瞳を見ていると、次から次へと彼女のことを考えてしまって止まらない。彼女のいいところなら万を超えて語ることができるから、今日はこの辺にしておこう。
 
 ずっと一緒にいる。
 これからずっと一緒にいる。

 だから、今日はこの辺で。


 

 

 その果てに、己は幸福ではないと気付いたが故に






 紡がれた八つ目までの聖句。本としての形を失い、渦巻くようにジュンタとリオンの二人を外界から隔絶した『不死鳥聖典』は、あらゆる万象を燃やす炎を揺らめかせ、飛翔のときを今か今かと待っていた。

 世界が全て真紅に染まっている。けれど、ジュンタの瞳はそのずっと前から真紅の色を見つめていた。リオン・シストラバスという色を。

「ねえ、ジュンタ。心残りはなくて?」

 最後の一つを紡げば全てが終わる。だからリオンは聖句以外のことを口にした。

 吐息が触れるほど近づいた顔は、幸せそうに微笑んでいた。これから死ぬというのに大した表情だが、たぶん、今自分の顔を見たら同じような表情をしていることだろう。

「心残り、か。そうだな。たぶん、ない。あったかも知れないけど、今は思い出せないから、それはこの幸せに比べれば心残りってほど心残りじゃないんだと思う。リオン、お前は?」

「私も。私も、ありません。あなたがここにいて、私の誇りが輝いていて……描いた夢が両方とも叶っているこの瞬間に、他に何を望むと言いまして? 幸せ過ぎて怖いくらいですわ」

「そっか。あ、でも、一つだけ心残りあるんじゃないのか?」

「え?」

 疑問に首を傾げるかわいらしい人が、従者と何か話していたのをジュンタは実は聞いていた。

「内容までは知らないけど、ユースさんとそんなこと話してたじゃないか。何か心残りがあるんだろ? 些細なことでもいい。今叶えられないことかも知れないけど、あるなら言って欲しい。俺は、お前に満足してもらいたいから」

「言ったでしょう? 私は今、怖いくらい幸せだって。……でも、もしも叶えてくれるのなら、私は恐怖で死んでしまってもいい。今まで私にたくさんの幸せをくれたジュンタに、最後にもう一つだけ、一生に一度のお願いがあります」

 リオンは握った右手を、その薬指に収まった指輪を見せて、少し照れくさそうに頬を染めた。

「乙女の憧れ、ですわ。ジュンタと念願叶って結ばれたのですから、その先もできたらしておきたかった……うぅっ……もう、これも全てお父様が先走って色々と知識を吹き込むからですわ!」

 照れくささが限界を突破したのか、沸騰したような真っ赤な顔で、リオンは敬愛する父に文句をもらす。

 ジュンタは苦笑して、リオンがはっきりとは言わなかった願いを理解した。良かったと心の底から思う。それなら今の自分でも叶えてあげることができるから。

「俺はこの世界だとどういう風にやるのか知らないんだ。リオン、丁寧に教えてくれないか?」

「……ジュンタの意地悪。それを言ってしまえば、私たちはそもそも結婚できる歳ではありませんわ」

「それは大丈夫。俺の世界じゃ女の子は十六歳で結婚できるし、男はこっちの世界と変わらないけど、何だかんだで一年くらいはあっちとこっちの合計で過ごしてるからな、今日がこの世界の俺の誕生日ってことで。ハッピーバースデイ、俺。だから何の問題もありません。やったな」

「なんですのよ? それ。すごい勝手ですわね」

「花嫁に合わせてみたんだよ」

「では、私も花婿に合わせるとしますわ」

 リオンはくすぐったそうに口を尖らせながら、自分の右手薬指から黄金の指輪を抜き取った。

「指輪の交換を、誓いと共に」

 すっとリオンはジュンタの左手を取ると、その薬指に自分がはめていた指輪を差し込んだ。

「私、リオン・シストラバスは生涯、この意地悪で、無礼で、だけどとても優しくて温かい人を愛することを誓います」

 たぶん、それは定められた本来の誓いの言葉じゃないのだろう。けれど、何となく自分たちらしいと、ジュンタははめられた指輪を見て、自分の右手薬指から指輪を抜き取る。

 リオンの手を取ると、彼女が顔を強ばらせるくらい緊張しているのがわかった。『不死鳥聖典』を行使するときはまったく緊張してなかったのに、こんなときばかり緊張してしまうとは。不器用というか、かわいいというか、とにかく、リオンらしい。

「俺、サクラ・ジュンタは生涯、この意地っ張りで、素直じゃない、だけどとても格好良くて愛らしい人を愛することを誓います」

 心の底からそう誓って、聖約と共にリオンの左手薬指に指輪を通す。

 そうしてお互いの左手を絡ませて、隣り合って輝く正真正銘のエンゲージリングを見る。

 じわりとリオンの瞳に涙が浮かぶ。嬉しくて、嬉しくて、たまらなくなって流れた涙だ。
 本来なら多くの人に祝福され、盛大な結婚式が開かれただろうお姫様は、誰も見ていない、誰も覚えておいてくれない、慎ましやかな指輪交換だけで感極まって泣いていた。

 泣いて――かつてないほど幸せそうな顔で、微笑んだ。

 右手も絡ませる。
 言葉はもう必要なかった。

 愛を誓い、誓いを指輪として交わし合い、此処に祝福をもって二人を夫婦とする。

 誰も知らなくても、見ていなくても、二人がそう思っていたなら関係ない。神が認めなくても二人が認める。だから――二人は番だ。

 比翼の鳥は二人で羽ばたき、その唇を深く重ね合わせた。

 柔らかくて、熱くて、幸せで、ほんわかで、甘い。
 今自分は全身全霊で愛しい人のことを感じているのだと知って、






許された続きへ、彼女は旅立つ






 だから、最後の聖句を共有するように心の中で口にした。

 口にすることに戸惑いはなかった。
 二人の初めての共同作業。これ以上の幸せはないと確信したから、後悔はなかった。

 サクラ・ジュンタはかつて当たり前のものが当たり前に存在することを当たり前と認識し、それが失うなんて考えたこともなかった。

 けれど、それが手のひらから零れ落ちてしまったとき、この世に変わらないものはないと理解した。理解して、それでもあると信じたかった。

 そんな見果てぬものを、旅の中で見つけた。

 永劫は――ここにある。

 たとえ変わらないものはなくても、終わらないものはここにある。
 消えかけたならまた灯り、また新たに始まるものがここにはある。

 リオン・シストラバス。

 不滅の光。永遠の貴さ。
 それがサクラ・ジュンタが見つけた、愛する永劫。

 ジュンタの背中より虹色の翼が、リオンの背中より真紅の翼が大きく広がる。

 それは燃えさかる不死鳥を世界に降誕させ、無限に世界を飛べる両翼を与えた。

 


 

 戦っていた人が、祈っていた人が、空を見つめて涙を零す。

 不滅を謳う不死鳥が無数の魔獣へと襲いかかった。

 不死の怪異はその炎に抱かれて瞬く間に消え去っていく。戦っていた人たちには傷一つ火傷一つつけることなく、不死鳥は猛るように、世界を燃やしながら飛び回る。

 千年の昔『始祖姫』たちが作りだした灰色に停滞した世界が、鮮やかな紅色によって消えていく。

 自分の足が見知った聖なる都についていると知り、騎士たちは聖戦がここに終わりを告げたことを理解する。そして舞い散る不死鳥の羽根が意味することを知る者たちは、この結末を贈ってくれた人の喪失に涙を零し、感謝の形とした。

 たとえ世界が地獄に絶望しても、人間が絶望しない証がそこにはあった。

 遙かな紅。世界を塗り替える光。
 あの光を覚えている限り、たとえこの先何があろうと人々は抗い続けるだろう。幸せな思い出を託し続けるだろう。

 たとえ世界が滅ぶとしても、神に見放されたとしても、諦めない。

 希望の不滅を不死鳥が謳う。
 空からは、光の欠片が舞い落ちる。


 

 

 ――――炎の中で、虹の残滓が溶けていく。

 手に触れた温度も、唇に感じる熱もやがて去っていく。

 だけど、胸の鼓動は熱く滾って。

 幸せは終わりを知らず、感じた温もりを忘れることはない。

 誓った先にあって、憧れた場所にあったもの。

 幸せそうに炎の向こうへ消えた人の笑顔を抱きしめて。

 リオン・シストラバスは、世界全てに幸福なのだと微笑んだ。

 

 

―――― ありがとう、ジュンタ。私にとっての永劫はあなたへの愛ですから ――――

 








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