第二話 揃い立つ二人の 彼女の夢は誰もが笑っていられる優しい世界だった。 朝起きて、美味しいご飯を食べて、家族と笑い合って、友達と遊んで、そして眠る。 彼女は周りの人よりも恵まれていた。 貴族の家に生まれた彼女は、朝起きては怯え、少ないご飯を食べ、家族がバラバラに働いて、友達と遊ぶ暇なんてなくて、眠る時間すら惜しむ日常が当たり前の世界の中、限りなく夢物語に近い人生を送っていた。 それでも心優しかった彼女は、自分一人が夢を享受して、目の前にいる人々に苦労を背負わせる現状を良しとしなかった。自分なりに精一杯考えて、みんなが楽しく暮らせる方法を模索した。 貴族とはいっても、家督も継がない女の身にできることなどたかが知れている。 『あたしは、この世界を救いたい』 ――変えなければいけないのは、この世界そのものだと考えた。 初め、彼女の言葉を聞いた誰もが笑った。 人々に理解されることのなかった理想。災厄の毒にまみれ、疲れ果てた世界にあっては、彼女の理想は、彼女が望んだ夢物語よりもなお夢物語であった。その夢物語を叶えるには、この地獄の世を終わらせるには、それこそ奇跡が必要なのだと。 『でしたら、あたしは奇跡を探しましょう』 彼女はそれでも言う。そこで、初めて周りの人々は気付く。 『世界を救う奇跡を探しましょう。世界が望んだ奇跡を探しましょう。あたしには奇跡なんて起こせないけれど、それでも探すことはできるから』 彼女の旅路はそのときに始まった。彼女の理想を最初から信じてくれた一人の従者だけを引き連れて、彼女の救世の旅は始まった。 『――誰もが幸せに暮らせる。優しい世界を迎えるために』 そこから、全ての奇跡は生まれいずる。 ◇◆◇ サクラ・ジュンタがリオン・シストラバスへと指輪を贈ったという事実は、次の日にはもうシストラバス家のラグナアーツ別邸内において周知の事実となっていた。 ジュンタもくすぐったくはあったが、これもリオンと付き合うことになった有名税だと思うことにした。特に問題もなかったので。 「それで、結婚式っていつやるのかな?」 否、問題はあった。ジュンタがそれに気が付いたのは翌日三時のティータイムで、友人であるラッシャ・エダクールとエリカ・ドルワートルの両名と席を一緒していたときだった。 「…………は?」 とりあえずラッシャのことは置いておいて、エリカは蜂蜜色の髪を小さなポニーテールに結んだ、天真爛漫な笑顔が印象的な少女である。シストラバス家に仕えるメイドであり、この世界において、恐らくジュンタが一番最初に仲良くなった友人でもある。気心も知れていた。 そんなエリカの部屋に、彼女の休憩時間のときラッシャによって強引に連れ込まれたときもなんだと思ったが、この意味不明な発言にはジュンタも目が点になる。 持っていたカップを置き、眼鏡を取って目を解す。次にこめかみを軽く押さえて、 「……悪い。自分の妄想をさも現実のものとして進めないで欲しいんだけど」 「ひどっ。ジュンタ君が私のこと日頃どう思ってるか、今のですぐにわかるね」 「いやだって、あまりにも突飛過ぎる。お前お得意の妄想なんだろ? エリカ。なんだよ、結婚式って?」 「結婚式は乙女の憧れだよ」 エリカは基本的に面倒見のいいよくできた少女なのだが、ただ一つ問題として、その妄想癖がある。会話の途中で自分の世界に入り込んでしまうのは毎度のこと。その発言が時として前後の文と続いてないのもよくあることである。 ジュンタはむくれたり目を輝かせたり忙しいエリカを見ながら、紅茶を一口飲む。 「そういうのはわからないでもないけど、生憎と当分結婚の予定はないな」 「そうなの? でも、いつかは結婚するんでしょ?」 「そりゃ、いつかはな。そういうエリカだって、いつかは結婚するんだろ?」 「それは、したいよ。でも何だかジュンタ君に言われると傷つくなぁ。余裕の発言というか、ちょっぴり嫉妬がメラメラというかね、乙女心は複雑なんですよ。うぅ」 「なぜに落ち込む……?」 しくしくと泣き真似をするエリカが地味に落ち込んでいるのを見たジュンタは、そこでちょいちょいとラッシャに肩を突かれた。 「まぁ、私たちのことは置いておいて。重要なのはジュンタ君の方だよね、やっぱり」 「な、なんで俺の結婚がそんなに重要なのでございましょうか?」 「どうして敬語なの? 本当なら、敬語を使うべきなのは私の方なのに。でも、まさか最初会ったときは、ジュンタ君がご主人様になるなんて思いもしなかったなぁ。世の中、何があるか本当にわからないよね」 うんうん、と腕を組んで頷くメイド。 「今は婚約状態だからまだいいにしても、実際ジュンタ君が入り婿になったらちゃんと敬語使わないとダメだよね。こうして一緒に紅茶も飲めなくなるだろうし。まぁ、どこの誰とも知れない人に仕えるよりはマシかな。それにめくるめく禁断の……きゃっ。これ以上は言えない!」 頬を抑えて身をくねらせるエリカが仕える人とは、それ即ちシストラバスの家名を持つ者である。現在ならゴッゾとリオンだけだ。なのに、そこに自分が加わるとは一体どういうことか。 いや、わかってる。考えれば酷く単純な問題だ。 そう、そうなのだ。リオンと付き合うことこれ即ちそういうことなのだ。 「……考えてなかったって言っても、いい訳にはならないだろうなぁ」 勢いのままに恋人同士になり、恋人同士になってからは浮かれたりして気付かなかったが、ジュンタが付き合い始めた相手はあのリオン・シストラバスである。国の内外問わず名高い家の次期当主様である。 リオンは高潔な淑女であり、一途で頑固な性格をしている。裏切るなんて真似死んでもできまい。浮気なんて考えもしないだろう。ついでにいえば、途中で心変わりもしないことは嫌というほどジュンタは知っている。 ならばリオンと恋人同士になることは、そのまま彼女の婚約者となり、果ては夫となることが決まったといっても過言ではない。何てことはない。エリカはいずれ自分の主の一人となるジュンタに対して、リオンとの結婚の日取りを聞いていただけなのである。あとラッシャ少し黙れ。 「エンゲージリングのつもりじゃなかったんだけど」 ジュンタは自分の右手薬指にはめた、リオンに贈ったのと同じ形のペアリングを見つめつつ意味も無く天井を見上げる。 抑えきれない笑みを口の端からもらしつつ、リオンはジタバタとベッドの上で足を動かした。 思い切り抱きしめられた枕が、中の羽毛が飛び出す寸前の潰れ方をしていた。それでもリオンの笑みを抑えきるには至らない。クフ、クフフフフと隠しきれない声がリオンの私室に木霊する。 身につけたドレスが皺になるのもお構いなしのリオンは、枕に思い切り埋めていた顔をあげ、右手薬指にはめられた指輪を見つめた。 うっとりと心奪われるように指輪を見つめること数十秒――にへらとしまりのない顔で笑って、思い切り足をばたつかせて枕に顔を押しつけた。新調されたばかりの枕の寿命は、刻一刻と削られていく。 屋敷の使用人たちの前では凛然とした態度でいるリオンは、私室だけでは素直な顔を見せることができた。いや、実際のところ部屋の外でも頬はどうしようもなく緩んでいただろうが、私室だけは我慢する必要もない。 ジュンタから贈られた指輪を見つめ、そこに込められたものに思いを馳せ、幸せ過ぎる我が身に悶え狂う――永遠に続く可能性の高い幸せの連鎖。なんだかこのまま死んでしまいそうですわ、とさえリオンは思った。 だって、指輪である。好いた人から贈られた指輪には、贈り物としての価値に特別な付加価値が宿る。 リオンとしても、これがエンゲージリングだとは思っていない。エンゲージリングはお互いに交換するものであり、一方的に贈られるものではない。たとえペアリングだとしてもだ。はめるべき指も左手の薬指であるし。 けれど渡された指輪を見ると、何だか自分がジュンタに結婚を申し込まれたみたいな気分になってしまう。その幸せ過ぎる瞬間に思いを馳せるだけで、どうしようもなくくすぐったかった。 「ふふっ、もし本当にエンゲージリングを渡される日が来たら、私は一体どうなってしまうのでしょう」 十年前からつけ続けている右手中指の紅の指輪に並んで輝く、アンティークな輝きを見せる黄金の指輪に心奪われつつ、リオンは目を細めた。 エンゲージリングを渡されたなら、どうなるかは決まっている。決まっているのだ。 「婚約。結婚……そうなったら私、ジュンタのものになってしまいますのね」 幼い頃から何度も夢見た、憧れ続けてきた夢。 「おっちょこちょいなところのあるジュンタのことですから、きっとそういった意味はないのでしょうけど。このリオン・シストラバスを本気にさせたのですから、責任はきちんと取ってもらいませんと」 家のこととか、責務のこととか、そういった部分とは別の部分で、ジュンタには責任を取ってもらわないといけない。拒否するならすればいい。それでも本気にさせた以上、どこまでも追いかけて行くだけだ。 もうジュンタだけを愛すると決めた。他の誰も愛さないと決めた。 それは誓い。決して違えてはいけない、間違ってもいない、リオン・シストラバスの聖約。 リオンはベッドで仰向けになり、クルリと手首を回す。その動作に合わせて、指輪状態の愛剣を剣の姿へと変えた。 竜滅姫を貫くという聖約の証――『不死鳥聖典』へと。 「お母様。あなたの娘は、あなたが持っていた強さがどんなものであったか、それがわかった気がします。あなたは竜滅姫としてだけはなく、愛する人を見つけた一人の女としての強さも持っていらしたのですね」 切っ先が指し示すは天井。だが、リオンが指し向けるはその先にある何か。 「ならば私は全てを手に入れるまでです。竜滅姫としての幸福も、女としての幸福も、全て」 黄金の指輪が輝く手に握られた紅の聖骸が、どこか嬉しそうに、リオンには見えた。 ◇◆◇ 昼間だというのに、その一室からはむせ返る酒の臭いが漂っていた。 酒器を使わぬ豪快極まりない飲み方がよく似合っているのは筋骨隆々の大男である。 「まったく、相も変わらずよく飲むね。ロスカ。君は遠慮っていう言葉を知ってるかい?」 三十本近く用意しておいた酒のほとんどが空になったのを見て、ソファーに腰掛けていた金髪の貴人――ゴッゾ・シストラバスは苦笑いを浮かべた。 ゴッゾの真向かいに座った大男――ロスカ・ホワイトグレイルは、一気にエールを飲み干すと、赤らんだ顔で大笑した。 「ガハハハハッ。遠慮など、これほどの酒を揃えてくれた盟友に悪いというものだ。出されたものはありがたく平らげる。これこそ真の感謝なり」 「喜んでくれて何よりだ。はぁ……お祝いしたいことがあったからって、持ってきておいたコレクションは出すべきではなかったね」 グラスに入っているワインを惜しみつつ飲み干しながら、ゴッゾはすっかり片付けられてしまった自分のコレクションの残骸を見る。ワインの存在意義が飲まれることだというのなら、あれほど美味しそうにロスカに飲まれてさぞや嬉しいことだろう。そんな風に自分を慰めつつ、全てが目の前の友人に飲み干される前に、ゴッゾは好みのワインの封を開けた。 「おう、そういえば基本的にけちくさいゴッゾがコレクションを取り出してくるなんて珍しいことだな。祝いごとと口走ったが、一体どんな祝いごとがあったんだ? 吾が輩は是非ともそれを知らなければならない。なぜなら、吾が輩がご相伴に預かれたのは、その誰かのお陰なのだからな」 酔っぱらっているのか、無意味に格好いい顔を作り、瞳にだけ好奇心を輝かせつつロスカが尋ねてくる。 ゴッゾとしても隠すことではないし、何より誰かに思い切り教えたかったことでもある。 「是非とも聞いてくれ。実は私のかわいい一人娘に恋人ができてね。それがとても嬉しいんだよ」 「なんだと!? ははぁ、ついにリオンに悪い虫がくっついちまったか。うちのキルシュマのお嫁さんに是非とも欲しかったんだがなぁ。残念だ」 「そんなことを企んでいたのか、君は。どうせリオンが義理の娘になることが重要だったんだろうけど、どちらにしろ諦めてくれ。すでにリオンの心は恋人が占拠してしまった」 「うむ、では諦めるとしよう。何はともあれめでたいことだ! リオン・シストラバスとその名も知らぬ幸せ者に乾杯!」 「ああ、リオンとジュンタ君に乾杯」 それぞれワインの瓶とグラスを打ち付けて、一気にあおる。先に口を離したのはもちろんゴッゾであったが、ロスカが一瓶飲み干すのも、その五秒ほどあとのことだった。 「ぷはぁ! しかし、これでシストラバス家も安泰だわなぁ。色んな意味で先を越されちまった」 「キルシュマ君とミリアン君にそういった気配はないのかい?」 「ないない、まったくない! キルシュマは最近何やらコソコソ隠れて誰かと逢い引きを繰り返しておるようだが、浮ついた用向きではなさそうだ。ミリアンの場合は――」 ロスカは新しい瓶を手にとって、鼻息を荒くする。 「まだ誰のところにも嫁にはやらん! かわいい娘をやるには、それ相応の益荒男でなければ話にならんわ!」 「私もそう思っていたけど、いや、これが実際相応の益荒男と出会ってしまったからしょうがない。何よりリオンがとても幸せそうだからね、私としては反対する気はまったくないよ。このまま結婚に行くとしてもね。まぁ――」 ゴッゾもグラスにワインを注ぎつつ、 「――一発くらいは殴らせて欲しいかな。長年の夢なんだよ、これが」 「おお、そいつはいいな。吾が輩もそのときが来たら、思い切りぶん殴るとしよう」 「ロスカが本気で殴ったら、大抵の人間は死んでしまうと思うけど」 「その程度で死んでしまうような奴に用はない!」 はっきりと親バカ発言するロスカに、ゴッゾも返す言葉はなかった。ゴッゾも同じく娘を持つ身。しかも目に入れても痛くない自慢の娘だ。そんな娘を自分からかっさらっていくのなら、それくらいは耐えて当然という気持ちには同感する。 実際、ゴッゾが認めた娘の恋人、そしてゆくゆくは夫となる少年は、ゴッゾの熱い一撃にも耐えてみせることだろう。これまでの苦難を耐えたように、きっと。 「……まぁ、実際のところだ。そういった男がミリアンの隣にいてくれたら、とは思う」 ふいに部屋の気配が沈んだものになる。それは何とも濃い気配を漂わせるロスカが、快活な笑みを消して、少しんみりとした様子を見せたからだった。 何の悩みも不安もないように見えるロスカだが、ホワイトグレイルという家名が示す通り、その身はゴッゾと同じく旧き名家の当主という立場にある。ゴッゾが抱える案件と同じくらいか、それ以上の悩みがロスカにもあるのだろう。 特に彼の故国――魔法大国エチルアの情勢を聞いてみれば、そう思わずにはいられない。 「……やはり、状況は悪いかい?」 「悪い。もうな、どうにもならんだろうよ。革命は近い将来必ず起こるだろう。成功するか否かは別としてな」 「確かレオナルドとか言ったかな、革命家を名乗っている若者は」 近年、ベルルーム大陸を中心に流行っている革命運動。その動きがまた、エチルア王国でも活発化していた。 予兆があるというのならグラスベルト王国も同じだが、エチルア王国の場合はもはや避けられない段階まで進んでいるという。レオナルドと名乗る革命家が現れてから数年、革命軍は急速にその規模を大きくしている。 「一体彼はエチルア王国の行く末を、どんな風にしようと思っているんだろうね。下手な革命運動では、ジェンルド帝国に襲ってくれと言っているようなものだが」 「その辺り、何も考えていないわけでなかろう。実は吾が輩のところにも数回、こちら側につけという革命軍からの嘆願があったのだ」 「それはまた、妥当だが無謀というべきか」 「しかも直接レオナルドとかいう輩が来るわけではなく、使節という形でだ。まったくもってつまらん。革命などという大それたことをするのであれば、直接顔を見せにこいというのだ」 エチルア王国における革命の問題点は、国内より外交の方にある。エンシェルト大陸北部一帯を領土とする大国――ジェンルド帝国。かの国は隙あらば、確実に攻め込んでくるだろう。 エチルア王国の規模はジェンルド帝国と比類しているが、だからこそ戦争が始まれば血みどろの殲滅戦になる。それを今避けられているのは、絶対に敵に回してはいけない聖地と関わり深いホワイトグレイル家がエチルア王国に存在しているからである。 革命が全ての貴族を淘汰するものであるのなら、ホワイトグレイル家にまでその魔手は伸びよう。結果的に革命が成功したとしても、そこにあるのは平和ではなく戦争だ。それでは本末転倒もいいところである。 本当の意味での革命の成功は、ホワイトグレイル家を革命軍側が取り込むことだが……生憎とこの現当主であるロスカ、国に忠義する元軍人である。国を裏切る真似などよほどのことがなければするまい。 「ホワイトグレイル家を抱き込まない形での革命……そんな恐ろしい真似、本当にする気かな?」 「吾が輩に聞かれても困る。吾が輩にできることといったら、革命が起きたとき正面から叩き潰してやるまでよ。戦争など起こしてたまるか」 貴族としての利益とは別の部分で、ロスカは革命軍には下らない。彼が頭を下げるとしたら、それは心底から仕えてもいいと思う相手が現れたときのみだろう。革命の成功は、本当の意味で指導者であるレオナルドの器にかかっているのかも知れない。 「移りゆく時代の境目、か。今の私たちは、そんな時代で生きているらしい」 「激動の時代というのは大歓迎だがな。それよりゴッゾ、もう酒はないのか? なくなってしまったぞ」 空になった瓶を逆さにして振る友人の様子に、ゴッゾは苦笑を浮かべて立ち上がる。これから忙しくなるだろう彼に、今日だけは思う存分酒を振る舞っても罰は当たらないだろう。 ◇◆◇ さて、ジュンタとしては誰にリオンとの交際を知られても問題がなかったのだが、一人だけ知られるのが別の意味で問題となる相手が存在した。 「ふぅ、まさかジュンタに先を越されてしまう日が来るとは。これで彼女いない歴を未だ更新し続けているのは俺だけになってしまったな」 それこそが目の前で何かとてもだらけている白猫――サネアツである。 ポカポカと陽気が当たる庭の芝生に寝転がり、熔けていくアイスクリームのようにだらけているサネアツは、尻尾を時折元気なく猫じゃらしへと繰り出していた。 「お前はもてたんだから彼女を作れば良かったのに……って、今のお前に言うのは酷か?」 芝生の上に座りながら猫じゃらしを振り続けるジュンタにとって、サネアツは幼なじみである。 眉目秀麗であった彼は、とにかくもてた……ということは性格のためになかったが、一部にコアなファンを生み出していたのは事実だ。その気になれば彼女くらい簡単にできたことだろう。それをしなかったのはサネアツの方なのに、彼女ができたことを責められるのはどうなのか。 しかし、それはあくまでも人だったときの話。今のサネアツは猫。人語は介せても、それを多くの人には黙っていなければならないような存在だ。魔法が息づくこの世界でも、猫がしゃべることは異常以外のなにものでもない。 今の状態で人間の彼女を作るのは容易なことではないだろう。それを考えれば、今のジュンタの立場はとても羨ましいものなのか。 「酷、というのは間違っているな。この愛くるしいボディを使えば、大抵の女子はメロメロにすることができるだろう」 サネアツはそんな軽口を先に叩いてから、 「しかし残念ながら、そもそも俺は女性に興味がないのでな。彼女を作れといわれても困るのだ」 そんな聞き逃せないことを暴露した。 ピタリと止まる猫じゃらしに、サネアツの尻尾がだらんとアイスクリームの一部となる。その後、何とも憂鬱そうに猫の姿をした『男』は大きな口を開けてあくびをした。 「……サネアツ。まさかお前にそんな趣味があったなんてな……」 「何を考えているかは一目瞭然だが、勘違いをしてくれるなよ。ジュンタ。別に男に興味があるわけでもない。正確にいえばだな、俺は人を恋愛対象として好きになるというのがいまいちよくわからんのだ」 「それは、好きになるような奴に会ったことがないからとか、そういう理由じゃなく?」 いつでも逃げられる準備をしていたジュンタは、態度とは裏腹に、思いの外真剣なサネアツの声に腰を落ち着けた。 「俺とて男だ。性欲を持て余すときもある。しかし、どうしても特定の誰かが欲しいとか、かわいい女子と親密になりたいとか、そういうのはなかったのだ。まぁ、自分のことだ。ある程度予想はつく。つまり俺は女子と付き合うことよりも、ジュンタと馬鹿やっていた方が有意義だと思っていたのだろう」 「まだ恋愛よりも友情だった、ってことか?」 「そういう意味ではとてつもなくガキンチョなのだろうな、俺は」 そういえば、サネアツとこんな話をするのはとても珍しいことだ。 日本にいた頃は、ジュンタもまたサネアツと同じような感じだった。異性に対してそこまで興味があったわけでもない。恋、というものもしなかった。ジュンタが初めて恋を自覚したのは、この世界にやってきてリオンと出会ったときだ。まるで運命ように、一目で彼女を好きになった。 「だが、してみたい、とは最近思うようになってきたわけだが」 「へぇ、なんで?」 「……それをジュンタが訊くのか? 毎日毎日幸せそうに爛れた日々を過ごしている奴といつも一緒にいれば、少なからず興味は湧いて当然だろう?」 「うっ」 サネアツから胡乱気な視線で見られたジュンタは、軽く赤面して視線を逸らす。 「まぁ、詳しいリオンとの仲は今後しっかりみっちりねっとり聞いていくとして、そういうわけで俺も少しばかり恋愛というものに興味が出てきたということだ。差し当たっては再び人間の形になる訓練に集中する必要があるのだがな」 「待て。いや、色々と待て。最初はこの際置いておきたくないけど置いておくとして、なんだ? その人間になる訓練ってのは?」 「そのままの意味に決まっているだろう? 猫の姿もいいがな、やはり人間としてこの世界を楽しみたい気持ちは俺にもあるのだ。そのため、マイステリンの下で目下人間の姿になる魔法を研究しているのだよ。これがマイステリンと知り合った経緯でもあるのだが……そういえば、言っていなかったか?」 「初耳だ。しかし、そうだったのか。先生とどうやって知り合ったかと思ってたけど、そういう経緯があったわけだ」 サネアツがマイステリンと呼び、ジュンタにとっての先生にあたる人は一人しかない。美しき女傑。最強の騎士。トーユーズ・ラバスだ。 剣に秀でた彼女であるが、噂によれば画期的な魔法を編み出した天才でもあるらしい。それは自らの姿形に影響する魔法であるのだとか。なるほど、それを発展させればサネアツが人間に戻ることも可能なのかも知れない。ジュンタは、たとえトーユーズの協力がなかったとしても、いつかサネアツならば単独でもそれを成し遂げるだろうと思っていたが。 まぁ、それは置いておいて。 「それで、恋愛に興味があるとかいうけど、誰にアタックするとかそういうあてはあるのか?」 「いや、これっぽっちもないな」 「ないのかよ。じゃあ、あれだ。恋愛対象とか抜きで、一番興味がある相手は誰なんだ?」 ジュンタには一人、怪しいと思える相手がいた。 何気にサネアツと仲が良く、またサネアツも彼女を認めているような節を受ける。それは恋愛感情ではなくとも、興味という一点だけならばきっと彼女の名前が…… 「それを言ってしまえば、俺の場合ダントツでジュンタになるのだが」 名前が……出てきてはくれなかった 代わりに、自分の名前が出てきたジュンタは、ずざっと大きくサネアツから距離を取る。トーユーズが極めた魔法を知っているからこそ、尚更に。 「サネアツ。やっぱりお前……」 「いや、だから恋愛感情を抜かせば、という話でだ。幼い頃から一番仲が良かった幼なじみなのだぞ、ジュンタは。しかもとびきり俺を楽しくさせてくれる、毎日見てても飽きない奴だ。一番に興味を持てといわれて、名前をあげるなというのが無理ではないか」 何気に俺が恋愛できないのはジュンタの所為ではないか――とか意味不明なことを呟くサネアツ。本当に彼の中に恋愛感情がなさそうだったので、ジュンタは元の位置まで戻った。 「サネアツの言い方はいちいち誤解を招くんだよ、まったく」 「それは今ジュンタの頭が色ボケしているからだ。俺たちが異性同士ならともかく、同性同士なのだから、恋愛に絡めて考えないだろう。普通は」 「……だと嬉しかったんだけどなぁ」 呆れるサネアツだが、人間のときいちいちセクハラチックな言動を繰り返していたのは彼の方である。猫の姿である今だからこそ気にならないが、今行っているようなことを人間の姿で行えば、間違いなく逮捕される。ついでに案外周りは誤解をしてくれるものだ。 けれど、サネアツのいうことは間違ってはないだろう。今自分の頭の中がお花畑なのは、ジュンタとて自覚あることだ。そういう意味では、一番の親友と考えてくれるサネアツには少し優しくしてもいいかも知れない。 ドカリともう一度座り込むと、ジュンタは再び猫じゃらしを振り始める。 視線をこちらに向けていたサネアツは反射的に猫パンチを繰り出し始めて、自然とだらけていた身体は起きあがり始めた。 「それで、ジュンタ。お昼寝していた俺に何の用があるのだ?」 「ん?」 猫じゃらしへとジャブを繰り出しつつ、サネアツが核心に迫ってくる。 「まさか俺に遠回しなのろけ話を聞かせたいだけでやってきたのではないだろう? 愛しの彼女を放ってな」 「まぁな。それなりに大事な用件はある」 「ならば単刀直入にいえばいいものを。俺とお前の仲ではないか。遠慮などどこに必要がある?」 「それもそうだな。なら聞くけど――」 猫じゃらしを振りつつ、ジュンタはサネアツに聞いた。 それも少しの間のこと。すぐにサネアツは猫じゃらしへとじゃれついてくると、そのまま遊びに興じつつ口を開いた。 「気付いていたのか? 俺がそれを知っていると」 「俺とお前は幼い頃から一緒にいた幼なじみ、だろ? お前の嘘を、俺がずっと見抜けないでいるとでも?」 「……そうだな。たとえリオンに負けたとしても、それだけは俺が勝っているか」 使徒である以上必ず持っている、魔法とは異なる力――特異能力。 けれど、それが嘘であると、いつしかジュンタは気が付いていた。きっとサネアツは知っていて、何か事情があって教えてられないのだと気付き、なら聞くまいとそう思っていた。 「一つ聞きたい。どうして今、それを尋ねる?」 だが、聞かなければいけない理由ができた。 「リオンを守るために」 大切な人を守るために。 「教えてくれ、サネアツ。もうすぐ戦いが始まる。その前に俺は自分の力について知っておきたい。お前が俺のことを心配して黙ってくれてたのはわかってる。だけど俺は全力で挑みたいんだ」 ――今度こそは、絶対に守り抜くために。 サネアツの視線は猫じゃらしではなく、ジュンタを追っていた。その瞳に浮かぶのは動揺でも心配でもなく、理解という名の親愛の輝きだった。 「……ジュンタ。やはりお前が一番興味深い。 「ありがとな」 「礼を言う必要はない。ただ、整理する時間を少しくれ。記憶を奪われているだろう俺は、真実をきちんと整理する必要があるからな」 鋭い踏み込みから跳躍。そして渾身の右ストレート。 「そう、お父様はロスカ様とご歓談中ですのね」 リオンは父を探していたのだが見つからず、偶然見つかった自身の従者であるユースにどこにいるのか尋ねたところ、返ってきたのは『ゴッゾ様はロスカ様とご歓談中』という返答だった。 ホワイトグレイル家当主ロスカと父親が友人関係にあるのはリオンも知っており、なおかつ二人が集まると酒盛りが始まることも知っていた。 ゴッゾは何かと忙しい身である。偶には息抜きも必要だろうと、あとでご挨拶には行くとして、今は二人っきりにしておくべきだろう。 「わかりましたわ。それでは、また後にすることにします」 「大丈夫なのですか? 何かお急ぎのようでしたが」 薄茶色の髪と銀縁フレームの奥にある切れ長の翠眼。女性として羨ましい限りのスタイルを身に包むエプロンドレスに、頭の上のホワイトブリム。リオンと同い年の従者ユース・アニエースは、主を心配してそう声をかける。 「何でしたら頃合いを見計らって、私の方からゴッゾ様にお伝えすることも可能ですが」 「いいえ。これは直接私の口から言わなければ意味がないことですから。大事なことですが、急ぐこともありませんし。それに……あなたとここで会ったのは僥倖ですわ」 「と、言いますと?」 小首を傾げるユースの姿に、リオンは佇まいを直してドレスの裾を両手で摘み上げる。 そして――優雅にして可憐なる一礼を。 「ありがとう、ユース。私の大切な従者。あなたの協力のお陰で、私はジュンタと結ばれることができましたわ」 「リオン様……!」 主に唐突に頭を下げられて、いつもは感情の揺らぎが少ないユースが慌てふためく。 リオンがゴッゾを探していた理由は、ジュンタとの仲を接近させるにあたって、色々と協力してくれた父にお礼をすることにあった。いうなれば、今リオンがしていることはお礼回りなのだ。 とすれば、従者であるユースにもお礼をいわなければならない。用は順序の問題だ。 「そんな、私などに頭を下げられる必要は……従者が主の幸せを願うのは当然のことですし、お二人が結ばれたのはお二人ががんばられたからであって……」 しどろもどろに口を開くユースのかわいらしさに、リオンはクスリと笑みを零した。 ユースははっとなると表情を引き締める。それでも頬の紅潮は抜け切れていない。 「そういうことですので、お礼など不要です。ゴッゾ様やサネアツさんならともかくとして、私など微々たることしかできなかったのですから」 「そんなことはありませんわよ。でも……そういえば、サネアツにもお礼を言わなければならないのでしたわね」 思い立ったが吉日だと思って、お礼回りの決行に移ったリオンであったが、サネアツのことだけはすっぱり頭から消えていた。ちょっと嫌な顔をしてしまい、それを見たユースが眉をハの字にする。 「前から思っていたのですが、リオン様はサネアツさんがお嫌いなのですか? まだ許されていないと?」 「そのことについてはもう溜飲をおさめていますわ」 ユースが言いたいのは、サネアツがずっと猫の振りをして騙してきたことを指しているのだと気付いたリオンはそう答えてから、 「それに嫌いというわけでもありません。そうですわね……どちらかといえば、私はサネアツが苦手ですの」 「苦手、ですか?」 「ええ。私自身でも意外とは思いますけど、サネアツだけはどうにもこうにも苦手ですわ。あの言い回しといい、ジュンタとの仲といい、ええ、苦手という他ありません」 「なるほど」 サネアツのことを語ると知らず苦々しい顔になってしまうリオンを見て、ユースは得心がいったと頷く。 「つまり嫉妬をなさっているのですね、リオン様は」 「な、なにを馬鹿な?! どうしてこの私がサネアツに、しかも何に対しての嫉妬ですのよ!?」 「無論、ジュンタ様との仲です。共に過ごしてきた時間だけは、決して勝つことはできませんから」 そう言われてみると……認めるしかない、か。リオンは男性であるサネアツに対して嫉妬する見苦しさをあまり認めたくなかったが、ユースに言われてしまってはしょうがない。 「そうかも知れませんわね。だってジュンタとサネアツの間には、恋人となった私ですら入れない何かがあるのですもの。嫉妬するのなという方が無理な話ですわ」 ジュンタとサネアツは幼なじみ。心の底から信頼し合った二人。リオンは否応なく、サネアツがジュンタを語る言葉の端々から、敗北感を感じずにはいられない。 だから嫌いではないが苦手なのだ。 「ですけど、今回で少しはサネアツにもわかったのではないかしら?」 込み上げる不満を振り払うように、リオンは髪をかき上げ、不敵な笑みを浮かべた。 「ジュンタが一番好きなのはこの私なのですから、私たち二人の間にも、余人が入ることができない何かが生まれたはずですもの」 「リオン様が一番好きなのはジュンタ様ですからね。私にはわかります。余人では入り込めない何かが、今のお二人にはありますよ」 「そうでしょう。そうでしょう。ふふん、悔しがるがいいですわ。サネアツ!」 気分良く笑うリオンを微笑ましく眺めながら、ユースは小さく呟きをもらす。 「……きっと、サネアツさんの方もリオン様と同じなのでしょうね。形は違えど、同じ人を一番大事に思ってしまったから」 ジュンタとサネアツが幼なじみであるように、 「リオン様」 それを自覚していたユースは幸せそうな主人に向かって、一言だけ問い掛けた。 「あなたは今、幸せですか?」 「ええ、もちろん――」 リオンは少し寂しそうな従者に向かって、心の底からの笑顔を見せた。 「――世界で一番の幸せ者ですわ!」 ◇◆◇ 一日が終わるのは早い。 夕餉前の空は、まだ夕暮れの色を残している。夏の終わりを締めくくる強烈な夕陽は、窓から外を眺めるジュンタの目に焼き付く。 浮ついた心を、静かに醒ましていく紅。 「やれることは、全部やらなくちゃな」 戦いが始まろうとしている。けれど短期間で剣の腕をあげるのには限界がある。できることは決意を固めること――やり残したこと、後回しにしておいたこと、全てをやり遂げることで決意を固め、明日への力と変える。 正真正銘の正念場。本当の敵たちと激突する戦場が待っている。 敵は――ベアル教。戦いは避けられない。避けるつもりもない。 「ジュンタ様」 耳通りのよい、抑揚の薄い声が耳朶を打つ。 振り向けば、夕陽が差し込む廊下を歩いてくる静かな従者の姿があった。 「ユースさん。何か用ですか?」 ユース・アニエース。彼女の前に立つと、ジュンタは自然と敬語を使ってしまう。彼女が年下であることは知っているが、それでもなぜかタメ口では話せない。 苦手、と言ってもいいかも知れない。リオンとどこか似た高潔さを纏うユースは、けれどリオンとは違ってどこか接し辛いものがある。察しのいい彼女のことだから、こちらの内心には気付いているだろう。しかし媚びず、悲しまず、ユースは変わらず自然体で話しかけてくる。 「ジュンタ様。リオン様とこれから歩いて行かれるでしょうあなたに、お尋ねしたいことがあります。少しお時間をもらってもよろしかったでしょうか?」 その瞳に込められた強さはいつもとは違っていた。 外ではゆっくりと、夕陽が沈んでいく。 肩へと重さがかかったのは、本当にふい打ちだった。 お礼回りもゴッゾを除いてやり遂げたリオンは、ロスカを見送るため玄関へと移動していた。 「そういえば、あなたにもお礼を申し上げるべきでしたわね」 リオンは天井から肩へと落ちてきた子猫を手で掴もうとして、避けられる。しかしそれこそが計画。床に着地したサネアツに向き直ると、ドレスの裾を摘み上げた。 「ありがとうございます、サネアツ。あなたのお陰でジュンタとの仲を深めることができましたわ。心からあなたの助力に感謝を申し上げます」 「皮肉にしか聞こえないが……まぁ、受け取っておいてやろう」 暗闇の中、はっきりとした白さを見せる人語を介する白猫は、そういって髭を震わせる。 頭を上げて、リオンは真っ正面からサネアツを見下ろした。 「それで何用ですの? 淑女の肩へと飛び降りてきたのですから、相応の理由は必要でしてよ?」 「器の小さい奴め。それくらいは気にするなという話だろうに」 「誰も彼もをあなたの幼なじみと一緒にして欲しくありませんわね。唐突に声をかけられて驚かない人間の方が稀でしてよ?」 バチリ、と互いの目線の間で火花が散る。苦手を通りこして、それはもうライバル同士が顔をかち合わせたのとほぼ同じ反応だった。 「まぁ、いい。俺は器のおっきい男だからな。気にせず本題に移るとしよう。 ニヒルに笑う見た目のみかわいらしい子猫に対して、夜をはね除ける紅の髪をかき上げて、淑女は優美な笑みを形作る。 「ええ、よろしくてよ」 ◇◆◇ 「あなたはこれから先、どんなことがあってもリオン様を愛せますか?」 話は、そんな言葉から始まった。 「たとえばリオン様が心変わりをしたとき、あなたはそれでも変わらずリオン様を愛せますか? 「そんなことは起こらない、という答えは卑怯なんでしょうね」 返答はない。問い質す言葉を紡いだユースが聞き届けるのは、ただ唯一質問への返答のみ。 「竜滅姫とドラゴン。きっと本来は相容れない二人。結ばれたことが悲しみに変わる日がいつかやって来るかも知れません。それでも、あなたは……」 ユースはそこでいったん言葉を止め、恐らく誰にも話したことのない話を始めた。 「私はリオン様のことをとても大事に見守ってきたと自負しております。私にとって、リオン様に害する者はもちろんのこと、近付く男も敵でしかありませんでした」 それはユース・アニエースという少女の、リオン・シストラバスという少女に対する想い。主従の楔から解き放たれた、一個人としての気持ち。 「失礼なことを言わせていただきますが、ジュンタ様が最初リオン様の入浴を見られたことに対する罪科を与えるとき、酷く悩ませていただきました。あのままそれこそ酷い罰を与えることも、私は考慮していました」 「無償奉仕だけじゃ普通に考えて割りが合いませんからね」 「ですが結局そこに落ち着きました。それはリオン様と会話されるジュンタ様が、今までリオン様に詰め寄ってきた男性とは違ったからです。あくまでも自然体に、それこそ同年代の相手に接するかのような態度を見て困惑してしまったのです」 リオンはとても美しく、気高い、最高峰の宝石のような少女だ。だから周りの人間は必ずリオンを見て躊躇いを持つ。自分とは何か次元が違う場所にいる彼女を見て、触れることを躊躇してしまうのだ。こんな儚く、美しいものに自分が触れて良いのか、と。 それでもジュンタは触れた。それは腹立たしかったからかも知れない。恋心があったからかも知れない。理由はどうあれ、ユースでも驚き困惑してしまう対応を、あのときの自分は取ったのだ。 「困惑は日増しに大きくなっていきました。リオン様と接せられるジュンタ様の振るまい方に。そんなジュンタ様の振るまいに自身の振るまいを気にされるリオン様に。本来ならば近付く距離を遠ざけないといけない立場にありながら、思わず呆然としてしまうほどに、私は困惑していました」 困惑にユースは理由を求めた。どうしてこんなにもこの二人は近い距離で手を差し出し合っているのか。初めて見る主と少年の関係に、そうしてユースは一つの解を当てはめた。 「これが恋の始まりなのだと、そんな馬鹿げたことを夢想してしまったのです」 小さくそのときのことを思い出して、ユースは笑った。 「初めてのことでした。リオン様に男性が触れて良いと思ったのは。そのときは任せられるとは思いませんでしたが、それでも近付いていいと、楽しそうなリオン様を見て思いました」 「そしてそのままドラゴンが現れて、俺はいなくなった」 「はい。そうして次に再会したとき、ジュンタ様を見て私は驚きました。生きていらしたことはもちろんですが、変わってしまったそのお姿に」 今度苦笑させられるのはジュンタの方だった。 「そりゃ、女装して現れれば驚くでしょうよ」 「いいえ、そのことについてではありません。かつて無邪気な子供のようにリオン様と触れ合っていた少年が、そう、自分と同じ小さな恐怖心を胸に抱いていたことに驚いたのです」 首を横に振って、ユースはそのときの心境を語った。 「――ジュンタ様は自分に似ている、と」 それは、ジュンタが予想もしていない言葉だった。 「私などと一緒にされてはご迷惑かと思いますが、そのときの私は確かにそう思ったのです。 そっと近付いたユースの指先がジュンタの心臓を服の上から撫でた。 「永遠などないと理解しつつ、全てのものはいつか壊れてしまうのだと弁えて、それでも壊れない永劫を求める……ジュンタ様は、そんなことをお思いにはなりませんでしたか?」 「それは……ええ、思いました。変わって欲しくないものが、変わらないものが、この世にはあって欲しいって」 至近距離で見つめるユースの瞳はガラスのように無感動で、けれどどこまでも吸い込まれていくような深淵を思わせた。それはかつて全てを失ったことのある者が浮かべる、拭いようのない恐怖心に似ていた。 ユースがかけた眼鏡に反射して、ジュンタには自分の姿が見えた。その瞳に浮かんでいるのもまた、ユースと同じ瞳だろう。そしてまたユースも、眼鏡に反射して自分を見ているはず。 なるほど、とジュンタは今どこかで得心した。 「似ているのは間違いないのでしょう。サネアツさんが私に懇意にしてくださっているのは、私を通して自分の一番大切な人を、ジュンタ様を見ているからだと思いますから。ですから――」 「私は今恐怖を覚えます。私がどこかリオン様に焦がれ、だから触れることを恐れてしまうように、あなたにもそれがあるのだと知ってしまったから。私ではきっとリオン様を幸せにはできません。ですから、あなたにリオン様を幸せにできるか不安で、とても怖い」 触れる手は蠱惑的で、ゾクリという官能の寒気がジュンタの背中を貫く。 少しだけ背伸びをしたユースの顔が間近に迫って、吐息が触れ合うほど近くなる。 「傷の癒す相手を求めているだけでしたら、私がリオン様の代わりになりましょう。あなたのどんな要求にも応じる、そんな相手となりましょう。……一人でいるのは、とても寂しい。あなたが求めてくれるのなら、それは、私にとっても幸せなことですから」 「ユースさん……」 世話話は必要ない。 二人は似ている。何か通じ合うものがある。だから答えは必要なくて、代わりに目を閉じたユースの顔が迫る。 その顔に大好きな少女の顔が被る。紅の髪に紅の瞳、焦がれる人が映りこむ。果たして自分はユースにリオンの影を求めているのか、それともリオンじゃなくてユースでもいいのか……ああ、そんなもの悩むまでもない。 「ユースさん。俺とあなたは、やっぱり似てなんていませんよ」 吐息が溶け合う前に、ジュンタはユースの肩を掴んで優しく突き放した。 「ユースさんが一番似ている人は俺なんかじゃない。ユースさんはどちらかといえば、そうですね、リオンに似ています。思わず一瞬リオンじゃないかって錯覚してしまうくらいに似てますから、だから俺とは似てませんよ」 「ジュンタ様……」 「最初の質問に対する返答を返します。ユースさん、俺はこの未来がわからない世界の中、それでも今日リオンが好きだったことを忘れたりしません」 心配しないでください。と、少年は言う。 「リオンのことが好きだっていう今日がある限り、俺はリオンが好きだった日のことを思い出せる。リオンって奴が好きだっていう気持ちを忘れないでいられる。愛し続けるっていうのは簡単だから、俺は、愛した今日を忘れないでいたいと思う」 いつか心変わりをする日が来たとしても、それでも愛した事実は消えなくて、その事実がある限り、ジュンタは何度だってリオンのことを好きになる。 毎日また好きになるのなら――それは永遠に愛し続けることと一緒だと思うから。 「でしたら――」 ジュンタの答えを聞いて、ユースはまた何かを言おうとした。 けれど、そこから先は答えにならない。言葉にならない。いや、してはいけない。 ユースは自分の肩に触れるジュンタの手をそっと外して、ゆっくりと距離を取った。 「いえ、そうですね。似ているからこそ、私とジュンタ様はまったく似ていないのでしょう。私は見守ることしかできなかった。だけどあなたは手に入れたのですから」 そこでユースは腰を折り、深々と頭を下げた。 「ジュンタ様。リオン様のことを、どうかよろしくお願いします」 「はい。忘れません。今日、この瞬間のことも」 頭を深々と下げる少女に、ジュンタは頷いて約束した。 今日という日の気持ちを忘れないために。 「お前はこの先、ジュンタを悲しませないと誓えるか?」 挑戦は、そんな台詞から始まった。 「意外に思うかも知れないがな、ジュンタは一度大きな喪失を経験している。今まで大事に思っていたもの全てをなくした経験が」 夜の月のように毛並みを輝かせて、子猫は初めて話すだろうことを口にした。 「辛かっただろう。悲しかっただろう。俺はそのときその場にいてやれなかったが、それくらいは容易に想像がつく。あいつはそんな悲しみを受け入れて、そうして旅立って今ここにいる。俺にはわかる。ジュンタはきっと強がっているだけで、心には悲しみが溜まっているのだ」 「だからもう悲しませるな、と言いたいのですのね」 「その通り」 ジュンタの幼なじみという存在。きっと昔からずっと一緒で、誰よりも一緒に過ごしてきた時間が長い彼。これだけは恋人でも勝てない、親友という存在。 そんな彼が挑戦を叩き付けてきた。お前にジュンタを支えられるのか、と。 「俺はジュンタならきっと大丈夫だと思っている。どんなことがあっても、笑って日常の一部にしてしまうのだと。たとえ何かが摩耗しても、何かが欠け落ちても、それを別の何かで補完してみせるすごい奴なのだと。 ジュンタは否定をしない。嘘だとは思わない。どれだけ辛いことでも、悲しい現実でも、それを受け入れてしまう。逃避することなく、その一部始終を自分のものとしてしまう。 あらゆる全てを自分のものにしてしまうそれは強さにもなろう。 けれども、この世は幸せなことばかりではない。悲しみも痛みも存在する。人はそれらを前にしたとき、否定や拒絶で自分を守って現実から逃げる。だけど、それをジュンタはしないというのなら、それは酷く危うい強さなのかも知れない。 サネアツという猫となってしまった人間の、それは友情。 何よりも大事な人に対する、恋慕とは決して結び付かない無上の友情。途中で感情を恋愛へと変えてしまったリオンとは違い、友情のままに感情を大きくした存在が、今目の前にいた。 「お前はどうだ? リオン・シストラバス。ジュンタをこれから先、お前は支えていけるか? 竜滅姫という在り方を心に刻んだお前は、本当にジュンタを抱きしめ続けることができるのか?」 形は違えども、ジュンタは多くの人に愛されていた。 恋愛という形でリオンに。 そうして支えられている彼を、これからもずっと支えていけるのかと、サネアツは言う。 それはとても意外な言葉に聞こえた。だって、サネアツの言い方はまるで託すようだから。これまで支えてきた自負をもって、その役割を今譲ろうとしているように見えたから。 そういうこと、なのかも知れない。 今、サネアツから叩き付けられた挑戦とは、つまりは『俺からの信頼を受け取ることができるのか?』ということなのだろう。受け取ったが最後、返すことができない役割。それをお前は受け取ることができるのか? と彼は謳っているのだ。 ――上等だ。 「私を誰と心得ていますの、サネアツ。すでに私は覚悟していますの。決めていますの。この身尽き果てるまで、いえ、この身尽き果てても、ジュンタの傍に居続けると。彼にとって泣くことができる居場所で在り続けることを。 リオンは約束を守るということを強く証明するために、最も効果的な一言を告げる。 これまでジュンタを支え続けてくれて『ありがとう』という意味をこめて。 サネアツは酷く安心した様子で微笑むと、ぴょんとリオンの腕の中に飛び込む。 それはずっと避けられ続けて来た行為。信頼を示す親愛表現。 「リオン・シストラバス。今初めて思ったが、お前はいい女だな」 「気付くのが遅すぎですわね。あなたも、そして私も」 リオンは小さな友人の身体を抱きしめて、そっと歩み寄ってくる人たちへと自らも歩み寄った。 「なるほどな。確かにありゃあ、幸せそうな光景だなぁ」 赤らんだ顔で屋敷の方を見たロスカは、門の前で自分の髭をぐりぐりと撫でつけた。 見送りに来ていたゴッゾは振り返って、ああ、と微笑みを浮かべる。 「そうだね。とても幸せそうだ」 そして自分も幸せだ。愛する子供が笑っている。親として、これ以上の幸せがあるだろうか。 「子供の笑顔が親の笑顔。子供の幸せが親の幸せ。少し寂しい気もするけど、リオンの親で嬉しいと思う瞬間だよ」 「ちょいとそれは違うぞ。ゴッゾ」 ベランダで笑いあう三人と一匹の影を見つめて、同じく子供を持つ親であるロスカは、したり顔で頷いた。 「リオンの親というのは間違っちゃないが、もうお前はリオンだけの親ではないのだ。子供の連れ合いもまた自分の子供。ゴッゾ、お前が幸せなのはな、二人の子供が幸せだからだろう」 「……なるほどね。いつの間にか子供が一人増えていた、ってことか」 リオンとジュンタが結婚したら、ロスカのいうとおりジュンタは自分の子供となる。血のつながりは関係ない。その笑顔を見て自分が幸せになれるのなら、それは何があっても守る価値のある家族である。 「そうして、そうやって家族は増えていく。いつか吾が輩もお前も、お父様だけじゃなくおじーちゃまなんて呼ばれるわけだ。ガハハハッ! 夢が広がるのぅ!」 「そうだね。それはとても素晴らしい夢だ。想像するだけで……ハハッ! 笑い声が抑えられない!」 豪快に笑うロスカにつられ、ゴッゾも大きな声で笑った。ポーカーフェイスを心がけているゴッゾとは思えない大声と笑顔で。 「うむ。今日は来て良かった。とてもいいものを見ることができた」 「きっと、これから先いつだって屋敷に来たら見えるさ。そしていつか自分の家でもね」 「まだ嫁に行かれたら悲しいがな。孫が生まれるってんなら、我慢の価値はあるかもなぁ」 笑いをおさめたロスカは、静かな顔で物語る。 それは父親の顔であり戦士の顔。 「子供の未来を守るのが親の務めよ。ゴッゾ・シストラバス、我が盟友よ。次は円卓で会おうぞ」 「ああ。ロスカ・ホワイトグレイル。円卓で会おう。家族の幸せを守るために」 ロスカは手を挙げると、最後にもう一度だけリオンたちの方を見て、軽やかな足取りで去っていった。 ゴッゾはその背が消えるまで見送ったあと、彼がそうしたようにベランダを見上げる。 ――かつて夢見た光景が、そこにはある。 愛した女性と一緒に語り合った未来の光景。 守るべき価値のあるもの。守りたいと思うもの。 色づいた世界は、もう何があっても色褪せることはないだろう。 「なぁ、カトレーユ。私は今、とても幸せだよ」 愛した彼女が紅く色づけた、この世界の素晴らしさを。
そんな人間として生まれた以上当然与えられるべき日常を、しかし厄災が暴れ回る世界にあっては夢物語でしかないそれを、彼女は全ての人に贈りたかった。
彼女は父が精一杯領地をもり立てようとして、それでもこの現状が精一杯なのだと知っていたから――
それこそ夢物語だと貴族たちは笑い、金持ちの道楽が始まったと平民たちは溜息を吐く。
それは幼い少女が見るような夢なのだけれど、それでも彼女は本気なのだと。
実際のところ虚言でもなんでもないし、張本人であるリオンが隠しもせず、いつでもどこでも贈られた指輪を見てにへらと笑っているのだから隠しようもないのだが。
「そやそや。もちろん、ワイも呼んでくれるんやろな?」
「時にジュンタ、相談なんやけど」
「何だよ? 珍しく真剣な顔して」
「真剣な相談なんや。ジュンタも真剣に聞いてくれるか?」
「……わかった」
むやみやたらと会話に絡んでこなかったラッシャは、エロ成分が見えない顔を作る。それだけでいつもの彼とは雰囲気から見た目まで、かなり違って見えた。
「ジュンタには前に言ったけど、ワイには夢があるんや。商売で一山当ててハーレムを作るっちゅう夢がな。その第一歩として、ワイはまずこの聖地ラグナアーツに作ろうとした。そう、超ミニスカ喫茶を!」
「ああ、ラッシャ・エダクール過去最大のアホ発言だったあれな」
「いつの時代も先駆者はそう呼ばれるもんなんやで! しかしワイは諦めへん! たとえ断られても貶されても蹴り飛ばされても、むしろそれを快感にして明日への活力にすることができる!」
「最近俺はお前を見て、心底生産的な生物なんじゃないかと思うよ」
「でも害虫成分が多すぎるから、結果的にクリーンじゃないよね」
ラッシャの妄想を超えた現実には、さすがの夢見る少女エリカも憐憫の眼差しだった。
というか、エロ成分がないんじゃなくて、それ以外がなくなり純度百パーセントになったから違って見えただけだった。
「というわけで本題や! 夢とやる気はあっても、ワイには先立つものがあらへん。ギルド連中にもパトロンを断られた以上、もうワイにはジュンタ以外に頼れる奴があらへんのや!」
「要は金を貸せってことか?」
「ど阿呆! ワイが親友からそないなことするわけないやんけ! ワイはただ、同じ男としてジュンタに賛同して欲しいだけや」
「つまりラッシャ君は、もうすぐ権力を手に入れるであろうジュンタ君のネームバリューを使い、強引にギルドを納得させようっていう魂胆かな」
「おおぅ、エリカ嬢ちゃんそこは黙っておいて欲しかったもんやな。ジュンタの言質をこっそり取ることで、ラッシャさんのお店がオープンする計画やったのに。いやぁ、持つべきもんは友達や」
「その友達を利用しようとしているのはどこのアホだ。コラ」
ジュンタは額に青筋を浮かべて、しみじみと頷くラッシャを睨んだ。
なんだと思って身構えていたら、まさか悪事の片棒を担がせようという魂胆とは。というか、本気で諦める気がないらしい。聖地に超ミニスカ喫茶なんて無理に決まってるのに。いや、人が無理だと思うことをやることが商売としては重要なのか?
「というか、そこのところは利用しようとするのに、俺が使徒だってことは失念してるラッシャはいい奴なのかただのアホなのか……」
「うん? ジュンタ君何か言った?」
「なんでもない」
エリカに首を傾げられ、ジュンタは咳払いを一つ。実際のところ、咳払いをしている場合でもないのだが。
「なんかおかしい会話だとは思ってたけど、もしかして……」
ジュンタは気が付いていた。自分と二人の会話の奇妙な齟齬に。ジュンタの場合は未だ遠い未来のことを話していたのだが、エリカやラッシャはまるで近い将来起きるだろう確定事項を話しているように思えた。
彼女の聞き逃せない発言に、齟齬の正体に完全に気付く男の子が一人。
「そしてワイと革命を起こすんやな! シストラバス家万歳!!」
どうやらいつの間にか、人生の墓場に片足を囚われてしまっていたらしい。
幸せな結婚生活。愛しい人に愛されて、心から尽くす、そんな夢。
叶わないとかつて諦め、けれどジュンタがきっと叶えてくれる、未来の夢。
ワイン、エール、清酒、あらゆる種類の酒瓶が床に転がり、また新たな瓶の蓋が開けられ、胃へと吸い込まれていく。
獲物を探す獰猛な青い瞳。ボサボサの髪と伸び放題の髭が野生の獣を思わせる。威圧感ある厳めしい面構えだが、不思議と近付きづらい雰囲気はない。口元に白い泡をつけて美味しそうにエールをあおる様が似合い過ぎており、妙な愛嬌すらあるからか。
それなりに飲んだ酒の勢いでいつもより三割ほど柔和な笑みを浮かべると、身を乗り出した。
今でこそ彼はかわいらしい白い子猫の姿だが、本来は人間の男性の姿をしており、それがなかなかどうして格好いい青年であることを知っていた。
浮かれていた自覚はあったが、サネアツが呆れるほどだったのかとちょっぴり反省。
サネアツが恋愛事に興味を持つとは珍しいので、ここは深く追求するとしよう。
何の遠慮もない幼なじみだけど、それでも少しだけ躊躇してしまうその質問を。
「――――俺が持ってるっていう特異能力って、一体何なんだ?」
猫としての本能に勝って、サネアツという個人の思惑の前に彼の動きが止まる。
以前、自分の特異能力が何であるかジュンタがサネアツに尋ねたとき、返ってきた返答は『知らない』というものだった。
この身体に隠された力があるのなら、それを知らなければならないと思った。
大切な人を守る力を得るために。
いいだろう。俺が知っていることを全てお前に教えよう。お前が持つ、その力について」
どこか誇らしげに笑ってサネアツが振るった豪腕は、見事猫じゃらしを根本から叩き折った。
しかしユースは根っからの従者なので、主に頭を下げられることが酷く落ち着かないよう。
女の嫉妬は見苦しいが、それでもリオンはチクチクと敗北感を刺激されるのが嫌だった。
リオンとユースは主従という関係だから、それがわかった。
紅は幸せを届けてくれる色であり、また決意を固める色でもあった。
色素の薄い髪は、夕焼けに染まって紅く照り返す。
身に纏った服がドレスのようにも見え、背を伸ばして歩く姿はさながら深窓の姫君のように。
いつもは冷静そのものの瞳は、一つの覚悟をもって真剣味を帯びていた。
いや、嘘である。玄関へ見送りのために移動していたことではなく、ゴッゾ以外にお礼をやり遂げたという方が。
おうおう、リオン・シストラバス。ちょいと、裏庭まで顔を貸してもらおうか?」
たとえばご自身が心変わりをしたとき、あなたはそれでも変わらずリオン様を愛せますか?」
この人は、何か大切なものを喪失したのだと。壊れないと思っていたものが壊れ、絶えないと思っていた糸が切れてしまったのだと」
ユースの冷たい指先から何かがしみいるように、ジュンタの鼓動を早くさせる。
似ている。ああ、確かに自分とユースはどこか似ているのかも知れない。
ユースの手が心臓を離れて、ジュンタの頬に触れた。
確認も必要ない。
それがリオン・シストラバスの背負った業だとしても、だからこそ口にしてはいけない。
だが……だからこそ脆いのかも知れないと、最近俺は思い始めた。
全てを受け入れるということは、普通は拒否すべきものも、否定すべきものも受け入れるということ。全てを全て受け入れているのなら、それは闇も痛みも全て背負ってしまうということ」
スイカとヒズミの二人の死を経て、ジュンタはどこか変わった。横顔が凛々しく、背中が大きくなった。
二人が残した言葉を胸に刻んで。二人の死を受け入れて。
「手に入れたものの中、温かい思い出が大きければいいだろう。だが、もしも痛みの思い出の方が大きくなってしまったときでも、ジュンタはきっとそんな自分を受け入れてしまう……俺はそうなったジュンタを支えよう。また楽しい思い出が上回るまで、大変な馬鹿騒ぎに巻き込み続ける。そう決めた。そう決めて、俺はここにいる」
信仰という形でクーに。
友情という形でサネアツに。
こんなことを言う日が来るとは、一年前の私では想像もつかなかったでしょうけど――」
これからジュンタを支え続けるという役割を『ありがとう』という意味をこめて。
「――ええ。きっと私はジュンタが止めてと言ったら、もう竜滅姫として死ぬことはできないでしょうね」
「……そうか」
ロスカ・ホワイトグレイルは盟友に対し、掛け合いの言葉を放った。
家に守られて、子供が幸せそうに笑っている、そんな素晴らしい夢。
いつだって変わらずそこにあったことを、その光景が夢ではない現実として、ゴッゾに教えてくれる。
だって、そう、今もまだ覚えているから。
カトレーユ・シストラバスが我が子を抱いて微笑んだ、あの家族の光景を。
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