「「「―― 『理想の英雄』 ――」」」
第七話 収穫の唄
踏み出した足裏から蜘蛛の巣状の雷気が迸る。
「行くぞ!」
何もない空間を踏みしめて駆けたジュンタの足は、虹色の矢となってヤシューの身体を斜め下から蹴り上げる。さらに縦へ虚空を駆け上がると、連続して無防備な胸元へ蹴りを叩き込んだ。
その際感じたのは、まるで鋼鉄でも蹴っているかのような感触。
ヤシューの方も何ら痛みを感じていないようで、口元には笑みが浮かんだまま。
とはいえ、ジュンタの目的は足場のない場所へと追い込むことにあった。
ヤシューの胸板を強く蹴り、その反動を使って距離を離すと、そこから双剣に魔力を付加して突進に打って出る。
『加速』の魔力性質を持つジュンタにとって、何もない空間が足場になりうる。重力に逆らって自身を加速させ、空を駆ける虹色の稲妻と化す。
「くらえ!」
空中で向きを変えられないヤシューの無防備な身体に、今度こそ本気の刃が襲いかかった。
それは鋼鉄すらも切り裂く雷光の刃。研ぎ澄まされた双剣の冴えを前に、さしものヤシューも防御姿勢を取った。顔の前でクロスさせた腕に渦巻いていた黒い魔力が一気に膨張したかと思えば、物理的な壁となって攻撃を阻まんとする。
「そっちが『侵蝕』の守りなら、こっちだって『侵蝕』の刃なんだよ!」
しかし他者を拒絶し、蝕むドラゴンの魔力性質はまたジュンタも同じ。ドラゴンスレイヤーの一撃は容易く黒い壁を切り裂いてヤシューを刺す。
「はぁあああああ!!」
それだけでは攻撃は終わらない。懐に入り込むと左の刃も叩き込む。そこから反撃の隙も与えない乱舞へ。
連続して放たれた攻撃は、加速された速度も相まって暴力的な破壊力を生み出した。あまりの攻撃速度にヤシューの身体は落下することなくその場に固定され、最後の一撃によって錐揉み回転しながら神殿の屋根に叩き付けられる。
普通ならば即死の高さから落ち――しかし彼は平然と立ち上がってみせた。
「こいつはもう、防御力ってレベルの話じゃないだろ!」
落下に合わせて下方に加速し、ジュンタは水辺の獲物を強襲する鷹のごとく左右の剣をヤシューに叩き付ける。
攻撃をガードしたヤシューの腕に刃が僅かに食い込む。しかし、それ以上進む前にその足場の方が限界に達し、彼は後方に大きく距離を取った。
それに遅れて、ジュンタもさらに広がった穴の向こう側へ着地した。
「一定威力以上の攻撃以外は全部無効か。もはや天然の『竜の鱗鎧』だな」
「もしかしてとは思ってたが、どうやら同じようにドラゴンスレイヤー相手だと多少弱体化させられるようだなァ」
ヤシューの腕についた傷は一筋。ドラゴンスレイヤーによってついた傷だ。以前のものよりも強力になった彼の特性は『侵蝕』の魔力によって支えられている。なら、ドラゴンスレイヤーが天敵となるのは当然だ。
貫けない防御ではない。ドラゴンスレイヤーが効果的なら、それを計算に入れて戦えばいい。
ジュンタは呼吸を整えて、ペロリと傷から滲んだ血を舐め取ったヤシューに声をかける。
「ウォーミングアップに付き合ってもらって悪いな。この辺りで本気の勝負と行こうじゃないか」
「もういいのか? 何なら、もうちょっと付き合ってやってもいいんだぜ? 俺は前もってきっちり準備体操してきたが、テメェは半日近く面倒な儀式に駆り出されてたんだろ?」
「やっぱりこれまでは様子見か。……生憎と血潮なら十分沸き立ってる。なにせ結婚式を邪魔されたんだ。新郎として当然の怒りに充ち満ちてるさ」
そういう意味では、ジュンタは初手から敗北していた。結婚式自体は守るつもりだったのに、これでは延期は免れないだろう。
「お前のことを思い出させてくれただけで十分だ。これ以上は余分になる」
「そうかい。それじゃあ、そろそろ俺の方からも行かせてもらおうか」
ここで初めてヤシューも構えらしい構えを取った。
ジュンタの構えによく似た、軽く拳に力を入れただけの体勢。攻撃と防御どちらにもすぐ反応できる構えだ。
ジュンタは左手を引き、右手を伸ばす迎撃の構えを取る。
ゆるやかに停滞する時間。爆発の瞬間を待って、研ぎ澄まされた感覚が一秒を長く引き延ばしていく。
ズドン、と屋根を踏み抜く勢いで仕掛けたのはヤシューが先。
「行くぜェえええええええええ!!」
右手に闇の塊のような魔力が集い、さながら猛獣が敵に飛びかかるような動きで襲いかかった。
初撃は何の技もない右ストレート。ジュンタが左の剣で捌いたとき、鋼とも打撃音ともつかない異音が鳴り響いた。同時に剣を握る手に伝わってくる重い痺れ。これまでの攻撃のそれとは比べものにならない威力。
続いて胸元を抉るように放たれる左フック。上体を後ろに倒して避ければ、顎の先を黒い魔力が掠めて小さな切り傷をつけた。
やはりヤシューのそれもジュンタが剣に纏わせる雷気と同じもの。それ自体が属性を付加された魔力の塊だ。それがただでさえ鋼鉄のようなヤシューの拳を、鉄塊のごとき凶器へと強化している。
「ハッハー!」
先程の連打のお返しといわんばかりに唸るヤシューの拳。
距離を離そうとするジュンタにぴったりと身体を張り付けて、全身のバネを使った鋭い一撃を繰り出していく。
しかしジュンタは至近距離からの攻撃を冷静に見切って捌き切った。いくら一撃の威力が高くとも当たらなければ意味がない。死角から迫る痛烈な肘打ちも受け流し、逆に斬りかかって自ら距離を離させた。
「いいねいいぜ最高だなァ!」
ヤシューは歯をむき出しにして笑って地面を蹴る。
一歩の加速で穴を超えて、低く沈んだ状態から全身を伸ばすように跳び蹴りを放った。が、そのときにはジュンタは瞬間移動じみた速度で二歩横へ移動し、カウンターの突きを繰り出していた。
「速度は俺の方が上」
「反応が俺の方が上かァ」
まさに一瞬の攻防。ジュンタが霞むほどの速度で動けば、ヤシューはそれを脅威的な反応で追っている。
立ち替わり入れ替わり位置が変わる二人。
ぶつかり合うたび、その余波で屋根石が剥がれ、未だ聖堂で戦いを見守っていた者たちの頭上に降り注いで避難を余儀なくさせたが、そんなもの二人の眼中にはない。
虹色の雷光も、漆黒の爪牙も、共に込められた魔力は常人の認識の外。油断すれば一撃たりとも見逃せないとなれば、お互いに集中するしかなかった。
(これが、今のヤシューか)
ジュンタとしても、ヤシューの強さは予想を超えていた。
純粋な身体能力、まずこれが人間離れしている。ジュンタも極限まで鍛えたが、これまでの人外じみた動きは[加速付加]によるバックアップがあってこそだ。しかし、ヤシューは何ら強化なくして同じ動きを行っている。
さらに恐ろしいのは、その身体能力にふさわしい反応や思考速度を持っていることだ。魔法による強化とは次元の違う、根本からの逸脱は、まさに人外と戦っているのだという確信を抱かせる。それでいて人間特有の技法を自己流のものが強いとはいえ使っているのなれば、その脅威は跳ね上がる。
それでも、今のジュンタならば必殺の刃を届かせることは、できる。
そこで問題になってくるのが、やはりその防御力。圧倒的な強固さの前にあって、果たして必殺が必殺と成り得るのか? もしも一太刀で命を奪えなかった場合、隙を生んでしまう攻撃は逆に命取りになる。
(決め手をどうやって見出すか……やっぱり、ヤシューとの戦いはこうなるか)
従って、今の均衡――ジュンタは好敵手の実力を寸分の狂いもなく把握しようと、金色の目を凝らす。
しかし、均衡を生んでいるのはヤシューとて同じこと。
(これが、今のジュンタか)
喜悦の中に、野生の冷徹さをもってヤシューは観察する。
ついに相まみえることができた好敵手。その実力は、夢想していたものよりも飛躍を遂げていた。
身体能力こそ人間の範疇に止まっているが、膨大な魔力を用いた効果的な運用によって、ヤシューと同等とはいかないが、近しいレベルにまで引き上げている。特に前々から際立っていた速度に至っては数段上だ。
しかし、ヤシューが歓迎したさらなる衝撃は、その技術。
いかなる研鑽と実戦を積んできたのか、ジュンタの剣は以前のようにまっすぐでありながら、熟練の巧さというものが付加されていた。邪道の剣術特有の型破りな軌道から繰り出される一撃には、何度かひやりとさせられる。空中も足場に使った三次元的な動きは、ヤシューの研ぎ澄まされた本能をフルに使ってようやく対処できるものだ。
(いいねェ。まだ全力を出してねえのによォ。ここまで愉しませてくれるなんて、流石だねェ)
従って、今の均衡――ヤシューはこの瞬間を存分に愉しみながら、その切り札を出すタイミングを、濁った金色の瞳で見計らう。
◇◆◇
先に勝負へ打って出たのはジュンタの方が先だった。
旅人の刃を空に放り投げたジュンタは、両手でドラゴンスレイヤーを握って斬りかかる。
片手から両手に変わったことで重さと速度を増した斬撃で、斬りかかった勢いのままにヤシューを攻め立てていく。肉体の防御力を甲冑代わりに使うその戦術から、少なからず掠めていく刃がヤシューの身体を傷付けていたが、むしろその意識は投げ捨てられた剣の方に向いていた。
「覚えてるぜ、ジュンタ。あの戦いのときにテメェが見せた技をなァ」
「そうかよ。なら――」
ジュンタは一気に距離を離すと、柄から手を離した左腕を正面に据えた。
「――受け止めてみろ」
そこに魔力の集中が見られたかと思えば、まるで手のひらから剣が生えてきたかのように旅人の刃が出現――雷気を纏って射出された。
それはまさしく閃光だ。『英雄種』の剣に備わった『帯刀』の能力――いかなる場所にあっても、持ち主が望めば手元に引き寄せられるという特性を用いての一撃は、わかっていても対応できない最速の攻撃。
「かはっ」
落雷と同等の速度で奔る刃には、さしものヤシューも反応が間に合わず、その左胸へ稲妻は突き刺さった。
しかし、ジュンタにとってそれは勝負札の初手に過ぎない。
攻撃の隙を突いて背後に回ると、再び旅人の刃を喚び戻す。雷気を纏った刃は空間を切り裂いて消失する際、さらにヤシューの胸元を雷光で焼きながら、両手を振り上げたジュンタの手元に戻ってくる。
「ここッ!!」
煌々と輝く虹の剣――
双剣を一本に束ね、背後から踏み込んで一気に振り下ろした。
渾身の一撃は、ヤシューの身体を肩口から胴にかけて切り裂き、さらに放射状に屋根石を吹き飛ばした。
これまでにない血がヤシューから噴き出す。致命傷とまではいかないが、動きに支障が出るほどの傷。代わりにジュンタも横腹をクロスカウンターで抉られていたが、与えたダメージの方が遙かに大きい。
均衡はここに崩れた。誰が見てもそれは明らかで、
「ハッハー! いや、まさかここまで成長してるとは、もはや進化のレベルじゃねえか、おい!」
ヤシューは口から血を噴き出しながら、これまでで一番の感動を露わにしていた。
「こりゃ、白兵戦じゃ俺の方が分が悪いなァ! ああちくしょう、悔しいがそれは認めねェといけねえな」
無言で束ねた剣を戻し、ジュンタは左右に構え直す。不気味なヤシューの反応だが、むしろ彼ならここで笑うだろうと予想していたため驚く気持ちはない。問題は普通ならふらつくほどの傷が、果たして彼にはどれだけの足枷となったか、だ。
少しでも弱体化してくれていれば、ジュンタは一気に畳みかける腹積もりだった。
先程と同じように次もヤシューの隙をつけるかといえば、恐らく無理だろう。相手は本能で戦う戦闘狂。ヤシューという男は、戦いの中で強くなるを地で行く男なのである。付け入る隙を見出せたなら、これが最後のチャンスだと思わなくては勝てない。
「――だからこそ」
歓喜に戦慄いていたヤシューの声のトーンが低くなる。
「そろそろ全力を出さねェと。邪魔が入るかもだしなァ」
ほとんど崩れ去った屋根の上から彼が見下ろすのは、瓦礫が散乱した聖堂。
すでに戦い始めてから十分ほどが経過している。混乱は治まり、眼下には聖殿騎士団が待機していた。ジュンタからの号令があれば、すぐにでも援護に入れる状態だ。
また、聖殿騎士団によって包囲された人物がいた。
「やれやれ、皇帝陛下にも困ったものだ。まさかこんなタイミング、こんな状況で名乗ってしまわれるなんて。放り投げられた方の身にもなって欲しいものだね」
大袈裟に肩をすくめてみせたのはクォーツ・ウリクス・タダト。
襲撃者であるヤシューがジェンルド帝国皇帝を名乗ったことで、外交官であるクォーツにも当然疑念は及ぶ。
「貴公には聞きたいことがある。その身柄、押さえさせてもらおう」
囲む輪の中から進み出て、クォーツに宣告したのは幼さの残る少年だった。癖のある翡翠色の髪を後ろで結った鋭い眼孔の持ち主。使徒ズィール・シレだ。
「ズィールさんが出てきた以上、戦いをこれ以上引き延ばすこともできないか」
ジュンタもヤシューの思惑を了解する。今でこそジュンタが一対一で戦うことを望んだため叶っているが、ズィールがそんな勝手を許さないであろうことは、これまでの二年近い付き合いからわかっていた。権限が同等である以上無理強いもできない。
「ヤシュー。俺はお前と一対一で決着をつけたい。それはお前も同じだと思うが、どうだ?」
「当たり前だろ。ここまで来て邪魔に入られてたまるかよ。そもそも、これまでのはお互い本気だったとはいえ前哨試合みたいなもんだろ?」
「どういうことだ?」
少なくとも、ジュンタは命を奪いに行くつもりで戦っていたし、ヤシューの拳にも殺意が込められていた。
もちろん、ジュンタとて切り札や奥の手の一つや二つは持ち合わせている。それはヤシューも同じだろう。それをお互いに切っていないという意味では、本気ではあったが全力ではないという話にも頷けるが……
「とぼける振りは止めようぜ、ジュンタ。二年前とは違うんだ。こんな人の殻を纏った戦いなんざ、どう足掻こうと前座にしかなりゃしねェ」
「……お前、まさか?」
「ハッ、決まってる。テメェも使徒。俺も使徒。とくれば、全力全壊の喰らい合いってのは、つまりそういうことになるだろうが」
拳を打ち合わせて、ヤシューは歯をむき出しにして嗤い、
「そういうわけだ。そろそろフィナーレと行こうや。クォーツ、テメェらも本気でやっていいぜ」
全てを終わらせると言い放った。
ゾクリ。と、ジュンタの背中に悪寒が奔る。それは生存本能の領域にある危険信号。急激に高まり始めた魔力を感じて、これから彼が行おうとすることを許してはいけないという予感が身体を突き動かす。
足の裏で雷気を爆発させ、その加速を得てジュンタは一気に斬りかかった。
「おいおい、お互いに全力を出そうってことで同意したんじゃなかったのかァ?」
ヤシューは斬撃を避けるしかない。しかし膨れあがった魔力は、これ以上増大することこそなくなったが減少はしない。倒さなければ根本的な解決にはならないのだ。
その間にももう一つ、今度はジュンタの足の下でも魔力の迸りが感じられた。
「つくづく皇帝陛下の自由さ加減には呆れますが、なるほど、この状況はなかなかにいいピンチだ。この危機的状況を本当の力を見せてひっくり返す……ああ、それはとても心躍る展開じゃないか」
「この魔力は?!」
魔力の中心にいるのはクォーツだ。大勢の聖殿騎士、そして戦に長けた使徒を前にして薄ら笑みを浮かべている。
その身体からは底なしを思わせるほどの魔力が溢れ出ていた。高位の魔法使いとしても、人の身ではあり得ざる魔力容量。ここまで来ると何の加工もされていない状態ながら、物理的な風になって聖殿騎士たちを吹き飛ばす。
「よそ見してると怪我すんぜ!」
「しまっ――」
使徒に匹敵する魔力に気を取られたジュンタは、カウンターを合わせられ殴り飛ばされる。怪我など感じさせないヤシューの一撃に、ついに全ての屋根を崩落させ、瓦礫と一緒に聖堂内に倒れ込んだ。
それはこの敵を前にしては致命的な隙――
「さあ、テメェに地獄を見せてやるぜ」
――堕天の使徒は変貌を始めた。
魔力の閃光が青空を切り裂く中、妖精が踊る。
「どうしたどうした? もう疲れたのか小僧共!」
ラグナアーツの都を駆けめぐる水路の上を、走り、跳ね、水しぶきと共に消えてはまた別のところへ現れる。
銀色の髪を翻し、変幻自在に踊ったり跳ねたりする様はまさしく妖精だ。
その動きに翻弄される聖殿騎士団は、プラチナと名乗った敵との戦いが始まってから十分以上、ただの一度の攻撃も届かせられずにいた。
「ここは其方が歩き慣れた街だろうに。新参者の妾に振り回されておっては、聖殿騎士団の名が泣こうというものじゃ!」
しかし、それはプラチナの方も同じこと。彼女は戦わず、ずっと逃げ続けている。偶に挑発の言葉を投げかけるのみで、攻性魔法の一つも使わない。
そう、これはプラチナにとっては楽しい楽しい鬼ごっこ。遊びの範疇にしかないもの。
よって、聖殿騎士団は――
「ぐあぁああああああああ!」
「ひぃ!」
「た、助け……ぎゃああ!」
悲鳴を上げ、断末魔の叫びを上げ、妖精を追いかけながら鬼から逃げていた。
「殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス」
どす黒い殺意を胸に聖殿騎士を蹴散らすのは、ジェードと呼ばれた少女。被ったフードを返り血でべっとりと濡らし、ハルバートを振り回して一人、また一人と敵を血祭りに上げていく。
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
呪詛を口にして、一心不乱に敵を屠っていく姿はまさに狂戦士だ。
小柄ながら、その一振りは家屋を半壊に追い込み、人間を引きちぎるほどの怪力。彼女の周囲は血と臓腑で血溜まりができ、神殿前を赤黒く染めあげていく。
聖殿騎士たちも隊列を組んで応戦していれば対処の仕様もあったかも知れないが、妖精を追って隊列を崩したそのとき、彼らは狩られるだけの獲物になってしまった。
「とはいえ、あまり見ていて楽しい光景でもないのぅ」
自分たちを追いかけていた騎士が物言わぬ屍と変わり、他の騎士が距離を取るのを見てプラチナは足を止めた。
「外で混乱を起こして、大多数の騎士を引き寄せる。中におる者らはクォーツが引き受け、皇帝の戦いを誰も邪魔できぬよう致す……作戦自体は分かりやすくてよいのじゃが、こうも簡単すぎるとつまらぬのじゃ。のぅ、ジェード」
「汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ汚イ」
ジェードに話しかけるが、彼女には聞こえていないようだった。
外套から出た腕についた聖殿騎士の血を、ぶつぶつと呟きながら必死に拭おうとしている。拭う手も真っ赤に染まっているため、汚れが酷くなっていく一方なのだが、彼女は何かに取り憑かれたように手を動かし続ける。
「止めぬか。たわけめ」
自分の皮膚まで剥ぎ取らんばかりの妹の姿に、柳眉を逆立ててプラチナは指を鳴らす。すると近くの水路から綺麗な水が汲み上げられ、ジェードの頭の上でひっくり返った。
返り血ごと綺麗さっぱり洗い流されたずぶぬれの少女は、そこで初めてプラチナに気が付いたように顔を上げた。
「……お姉様、合図は?」
「まだ来ぬ。もうしばらくはこやつらと遊んでやらねばならぬようじゃ」
「わかったです」
コクンと頷くジェード。そこには一瞬前まであった狂騒など見る影もない。
しかし一目敵を視界に入れた瞬間、再び禍々しい殺意を纏う。
この豹変には指揮を執っていた師団長のオリバーも、気圧されたように後退るしかなかった。
「化け物め。たった二人で『神の矛』の攻勢を凌ぐとは……」
「なんと!? かよわいおなごを前にして何という暴言! うむむ、許しておけんのじゃ!」
これまで三十人近い聖殿騎士を相手取っていたのはあくまでもジェードの方だったが、オリバーの発言にプラチナの表情が変わった。
見た目の年齢にそぐわない艶やかな笑みを浮かべると、両手を使って空中に光り輝く魔法陣を描き始める。
「その暴言、取り消させてやろうぞ。ふふっ、妾が手出しをすればこの辺り一帯が焦土となるやも知れぬが、乙女の敵とあれば手加減などすまい」
「来るぞ! 隊列を崩さず一斉にかかれッ!」
プラチナが魔法を繰り、オリバーが号令を下す。
「――止めろ、プラチナ」
両者がぶつかり合おうとしたそのとき、唐突に両者を呼ぶ男の声が戦いに水を差した。
「どうもオリバー副師団長。お久しぶりです」
民衆がいなくなった神殿前で声の主の姿はよく目立っていた。
黒い燕尾服を身につけた男で、その手には柄が折りたためるようになった短い槍が握られている。
そんな彼をオリバーは知っていた。
「ウィンフィールド・エンプリル?! 裏切り者のお前がなぜここに!?」
「なぜって、そりゃ裏切ったからに決まってるでしょ。俺としても出なくていいなら出たくなかったが、上からの命令じゃあしょうがない」
「……そうか。お前は帝国の手の者だったのか」
ウィンフィールド・エンプリル。それはかつて聖殿騎士団・第八師団に在籍しておきながら、『封印聖戦』のどさくさに紛れて裏切り、全国指名手配されている男だ。かつて轡を並べていたオリバーからしてみれば、是が非にでも捕まえなければならない相手だった。
「今回の件は全てお前が手引きしたものか?」
「まあ、そのための聖殿騎士団への潜入調査ですからねぇ。ああっと、そんな目で見ないでくださいよ。こっちにだって事情はあるわけで」
「抜かせ! お前にはベリーローズ師団長の殺害容疑もかけられている! そこの下手人共々、罪を償わせてくれる!」
「へえ、そりゃ物騒な話だ」
飄々としていたウィンフィールドの表情が、ベリーローズという名を聞いて歪んだ。
「こっちとしても戦うのはやぶさかじゃあないですが、生憎と今の俺はそこのお嬢様方の執事に過ぎませんから」
しかしすぐに余裕を取り戻すと、むくれるプラチナに向かって苦笑いを浮かべた。
「そんなにふてくされるなよ、プラチナ。宰相閣下からのご下命だ。攻性魔法を使うのは禁じたままだが、本気を出してもいいとさ」
「――ようやくか」
プラチナの顔に笑顔が戻った。童女のような笑みが。
同じようにジェードもフードの下の表情を変えていた。燃えるような瞳でオリバーを睨んでいる。まるで彼の吐いた言葉の何かが、彼女の逆鱗に触れてしまったかのように、これまでの狂騒とは別種の殺意を纏っていた。
「行くぞ、ジェード! 我らの真の力を見せてやろうぞ!」
果たして、二人の少女から滔々と溢れ始めた魔力はあまりにも突然であり、あまりにも強大だった。二つの魔力のうねりがぶつかり合い、轟、と大気を揺るがす。
「これ以上、一体何が起きようというのだ……?」
吹き荒れる烈風にオリバーは顔を庇いながら、それを見た。
プラチナの銀色の髪が月明かりを浴びたかのように光輝く様を。
「……ウィンを……殺そうとした……」
そして、ジェードと呼ばれた少女の素顔が風によって露わになる様を。
こぼれ落ちた髪の色は深緑の色。
耳はプラチナと同じく僅かに尖り、幼さの残る顔立ちには、隈が酷い大きな瞳が並んで敵を呪っている。
そんな少女――否、女性の顔をオリバーはよく知っていた。
「ベリーローズ、師団長……!」
「聖なる地より聖者の列は行く」
かつての副官に対するジェードの返答は――唄。
あらゆるものを祟り、恨むかのような声で紡がれるものは、確かに唄だった。
「悪を滅ぼすために聖者の列は行く」
「始まりは虚無より 産声は狭間より」
唄はプラチナの口からも紡がれていた。ジェードのそれとは違う、あらゆるものを愛でるような美しい声で、歌う。
――収穫の唄を。
「さあ、舞台は整った。歓声は鳴りやまず、拍手は下りた幕を振り払う」
神殿前でプラチナとジェードが歌い始めるよりも少し前から、良く通る美声をクォーツは披露していた。
「劇は現実へ姿を変える。役者は本物へと姿を変える」
ズィールを含む邪魔者たちを聖堂から引き離しながら、自分が立っているのが満員の劇場の舞台であるかのような振る舞いで、歌う。
捧げるのは自分の未来。こうあって欲しいと思い描く、理想の英雄の姿。
故に、聖地にて歌われた唄は三つ。ただ一つとして重なりはない、自分だけの唄。
ただ、締めくくるための呼び名は同じ。
この世界で生まれた英雄豪傑たちが捧げたという誇り高き名を、三人の現在を生きる英雄は『皇帝』のために謳い上げる。
――そうして、ここにヤーレンマシュー・リアーシラミリィの神獣化は完成する。
二年という歳月をもって体現してみせた、理想の自分。最強の獣。
其の名は――
「――『堕天神獣』」
瞬間、聖地の空に地獄の化身が具現化した。
ヤシューの身体を漆黒の炎が包み込んだかと思えば、そこから獣が顔をのぞかせる。
全身が鱗に覆われた蜥蜴に良く似た姿。口には鋭い牙が並び、爪の生えた四肢で空中にしがみついている。背中からは大きな翼が広がり、長い尾が虚空を叩くたびに世界が悲鳴をあげているかのように大気が震え上がる。
「――『終わりの魔獣』」
ジュンタはその神獣の名を呼ばう。
そう、それは間違いなく魔獣の王と称される獣の威容だった。
かつて戦った堕天使の翼を持つソレを一回り小さくし、より人間的なフォルムに近付けたのが、今目の前にいるヤシューの姿……
縦に瞳孔の割れた瞳でドラゴンは肯定するように嗤うと、口を開いて中に黒い炎を灯らせた。
「まずい!」
ジュンタは逃げることなく立ち尽くしている紅い花嫁の姿を見て取ると、すぐさまその攻撃を防ぐため動こうとした。
だが、視界の端にやはり呆然と立ちつくした金色の瞳の巫女を発見して足を止めた。
ドラゴンの吐息は全てを灰燼と化す。二人共は助けられない。
偽りの花嫁か。
偽りの巫女か。
「あ……」
ジュンタの頭は一瞬真っ白に染まり、次の瞬間足がまったく動かなくなった。
圧倒的な力を前にしてどうしようもないと諦めるしかない恐怖――今まさにジュンタが感じているものはそれだった。
「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!」
咆哮と共にヤシューより放たれたブレスは星を思わせた。触れれば蒸発してしまう灼熱の星に……
その前にあってはただ絶望し、立ち尽くすのみ。
漆黒の太陽を頭上に仰ぎ――刹那、ジュンタの意識は世界を切り裂くような轟音に押し流されていった。