第一話 少年の日常
ただ、見ている。
ただ、眺めている。
見つめていることしか出来ない。
眺めていることしか許されていない。
それはただ、考えるだけの存在。存在そのものである『魂』に、考えるだけの『精神』がある、だけど『肉体』なき存在。
ただ、見つめる。
ただ、眺め続ける。
それだけしか出来ない、ちっぽけな泡沫。
――――羨ましい。そう、それは想いながら、ただじっと見つめ続ける。
僅かな油断も見せず、完膚無きまでの勝利を、その日、佐倉純太は修めた。
目の前の温水プールには、三人の若者。
その全員が髪を染めたり、ピアスを付けたり、腕にタトゥーをしたりと、俗に言う不良といった風貌をしている。
そんな三人がプールに仰向けでプカプカ浮いている姿は……一言で言ってしまえば見苦しかった。
「まったく、毎度毎度あいつのせいで……とんだとばっちりだ」
ずれた制服の襟を正しながらここにはいない悪友に向け、純太はいくつもの呪いの言葉を吐く。それはすでに二十を越え、そろそろ三十に届こうかと言うぐらい。よほど腹に据えかねているのか、その悪友に汚点が多いのか……恐らく両方だろう。
ともかく治まりきれない不満を隠そうともせず、その場をさっさと後にしようとプールの出口に足を向ける。
純太の通う高校のプールは、私立であることもあってか、何と温水プールになっている。そのため観客席のついた五十メートル十レーンのプールは外にはない。あるのは校舎の屋上である。
冬の今でも入ることのできる温水プールだが、無論、一般生徒は使用できない。
使えるのは県大会常連で、全国大会の上位に食い込む我が校自慢の水泳部員だけである……いや、今はまったく関係ない他校の不良が入っているが、いつもはそうなのである。
朝と昼休憩、そして放課後に水泳部が使用するこの屋上温水プールは、基本的に一般生徒は出入り禁止とされている……というか鍵が掛かっているので入ることなどできない。しかし一度入ることができたなら、反対に出ることは簡単だ。
純太は悠々とプールを後にし、入り口の戸を閉める。
それから懐から鍵の束を取り出し、一つを選んで、入り口の鍵穴へと差し込んだ。
ガチャリと音がして、プールの戸が閉まる。
「よし、これなら三時限目には間に合うな」
純太は懐に鍵の束を戻し、腕時計で時間を確認。やれやれと一息つく。
水泳部員でもない自分がどうしてプールの鍵を持っているのかとか、そういうことに対する疑問は、すでにない。そんなのはもう一年も前に悟りを開いて、忘れてしまった。
そのことを自覚すれば深く落ち込むことになるのは目に見えているため、自動的にそのことは考えないようにしている。
純太は階段を下りて行き、自分の教室のある二年五組へと急ぐのだった。
◇◆◇
佐倉純太という高校二年生の容姿を説明するなら、この一言で事足りる。
即ち――『地味』
黒い髪に黒い瞳。黒縁眼鏡で派手さのない顔。
決して顔は悪くないのに、地味な一色で容姿が完成されているため、その魅力を半分近く減少させている。これではあまり異性にはもてないだろう。
現に純太は年齢=彼女いない暦という、現役高校生には少し悲しい称号をまだ捨て去れていなかったりする。でも彼女がいない主な原因は、容姿よりもその環境の方にあった。
佐倉純太という少年のことを、同校の誰かに聞けば、大抵の生徒はこう答える。
――不良、と。
純太という少年、その地味めな容姿とは裏腹に、市内に名を轟かす不良の一人だったりする。いや、本人に言わせてみれば不良などではないらしいが、周りの認識はそうである。
通っている高校が、中学で勉強をがんばらなかった生徒が行く学校なら、その称号は逆に異性を惹きつけたかも知れない。だが市内一の進学校と称される高校では、不良というレッテルは異性を遠ざけるものでしかなかった。
まぁ、すぐに彼女が欲しいというわけではないため、そのことは純太本人はさして気にしていない。不本意な不良というレッテルも、もう慣れてしまった。
そんなことより何よりも、長いこと付き合ってきたのに、決して慣れることのない幼なじみの方が遙かに問題なのである。
その宮田実篤という純太の幼なじみの少年は、世間一般で言うところの完璧超人である。
短い茶髪に、切れ長の黒眼。凛々しく整った眉に、男らしい色気を感じさせる甘いマスク。
黙って流し目をすれば異性の動悸を速くさせるだろうその美貌に加え、成績優秀、運動神経抜群と、何かと恵まれた少年だ。
だが純太に言わせれば、人として一番大事な物に恵まれなかった男――というのが、実篤の評価である。
人として一番大事なもの……そう純太が思っているのは、人としてのモラル。ひいては性格である。
実篤という少年には、人としての常識度が足りない。
神が一番忘れてはならないものを、ことごとく忘れて生まれてきてしまったのだ。
そのせいで――
「俺は、またこんな苦労を背負い込む羽目にぃッ!」
――純太は今、脱兎の如く路地裏を逃げていた。そりゃもう、全力で逃げていた。
急激な発展の影で生まれてしまった、ゴミゴミとした廃工場の横道。
観鞘市中心街からそう遠く離れていないその場所は、市内の不良のたまり場だった。だがそれは間近に控えた区画整理と再開発の前に、徐々に数を減らしているらしい。
それでもいました二十人。
放送禁止用語を何の恥じらいもなく叫び、後ろから追ってくる輩は、どこからどうみても不良と呼ばれる人種である。
鼻ピアスのリーダーが率いたその不良軍団との逃走劇は、すでに三十分にも及んでいた。
その間、ひたすらに逃げていた純太の息は荒い。
煙草や麻薬に毒された不良より、肉体的な持久力は恐らく純太の方が上だろう。しかしここは不良のたまり場とされる、入り組んだ路地裏――彼らのホームグラウンドである。地の利は彼らにあり、逃走距離が不良たちより長くなってしまったのだ。
そのため疲労は、不良たちが感じているのとそう変わらない。
そうなると差がつくのは人数だ。
「待てこらァ! 佐倉ぁ、俺らから逃げられると思ってンのか!」
「逃げられると思ってるんじゃなくて、逃げたいんだよ!」
背後から響く怒声に、泣きそうな声で純太は無意識に返答を返す。
彼らのような生粋の不良に名前を覚えられていることを落ち込みつつ、それでも走る速度は落とさない。先程から心臓が破裂するくらい脈を刻んでいるが、捕まったらその時点でアウトな現状、スピードは緩められなかった。
純太は嘆きの中、考えてみる。ああ、どうして不良たちに追いかけられているのか、と。
いや、分かっている。どうして自分が不良たちに追われているのか、分かりたくもないが分かっている。言ってしまえば敵討ちなのだろう、これは。
誰かの敵討ちのために純太が乗り込んだのではない。
不良たちに、やられた仲間の敵討ちとして追いかけられているのである。
これだけ聞くと純太が悪いように見えるが、実際のところは違う。
確かに今日の昼前、彼らの仲間の不良三人をのしたのは事実だ。それは否定しようがない。だが、誰も望んで手を出したわけじゃない。自分は平和主義者なのだ。
理由があった。海よりも深く、空よりも高い理由が。そして一言で説明できてしまう理由が。
――――実篤の所為。以上、説明終わり。
佐倉純太を知り、宮田実篤を知る人間ならば、この一言で全てを分かっただろう。だが、宮田実篤を知らない人間では分からないはず……事情を詳しく説明するとなると、それは今から五日前に遡ることになる。
その日も純太は、極々普通に学園生活を送っていた。
昼休みに昼食を食べ終え、そして楽しみにしていた甘味へと手を伸ばしていた純太は、何の問題もない昼休みというものに、酷く感動をしていた。
その日、いつもいつも厄介ごとを持ち込んでくる幼なじみが、珍しくも風邪を引いたお陰で、昼に殴り込んでくる不良の相手も、備品を壊して修理するはめにも、考える度に涙ぐみそうになる苦労に身を投じることもなかった。
久々の平穏を噛み締めながら食べたカップケーキは、非常においしかったことを覚えている……その後に起きた事件があったため、尚更その味は覚えている。ベリー美味かった。
トラブルが起こったのは、そのデザートを食べ終えたすぐ後のことだった。
呼ばれた。叫ばれた。
名前を呼ばれた。校庭に降りてこいと叫ばれた。
見たくない。窓から校庭の様子なんて見たくないと思ったが、自分の席は窓際。少し横に視線を向けると、三階にある教室からは校庭の様子がよく見えてしまった。
そこにいたのは、案の定、不良さんたち。
数にして五――バイクの数が三つなので、一人は寂しくワンマンツーリングだったに違いない。
クラスメイトから『またかよ』的な視線を貰いつつ、純太はゆっくりと窓から離れた。実篤が休みという幸福な一日に、トラブルに巻き込まれたくなかったのだ。
恐らく何らかの理由で殴り込みにきた彼らも、いないと知ればご帰宅することだろう。
無視することを決め、コソコソと部室にでも隠れていようと思ったあと、見なければ後々のトラブルは回避できたのに、最後に校庭をチラリと見てしまった。
その所為で、結局校庭に行かざるがおえなくなってしまった。
校庭を見たとき、そこでは純太が出てこないことに早くも痺れを切らした不良が、堂々と校舎へと進んでいたところだった。
それだけならともかく、校庭に行くことを決めたのは、不良たちが近くにいた女生徒に脅迫をしていたからだ。恐らく、佐倉純太を出せとでも吠え立てていたのだろう。
自分の所為で他の生徒に迷惑がかかるというのは、さすがに見過ごせない。だから純太は校庭に出て、不良たちの前に姿を現した。
――そしてそれから、夜七時まで大逃亡劇が始まった。
その時は逃げることに成功した純太だったが、それからというもの、ことあるごとに不良たちが学校に姿を現す。
一度先生に武力で追い出された不良たちは、コソコソと学校に忍び込んでくる。
そんな彼らに苛つき、純太が手を出したのが今日のこと――
「…………思い返してみると、もしかして俺が悪い……?」
そう呟いてから、いやいやと純太は頭を振る。
先に手を出したのは向こうの方だし、最後まで自分は言葉での解決を望んだ。プールに放り込んだのだって、被害を最小限に抑えるための正当防衛だ。
だが、そんなものは彼ら不良たちの絆の前では、言い訳にならなかったらしい。
三人が倒されたということで、初めは参加していなかった不良仲間も仲間意識からか、敵討ちという大義名分の下多く集まってきてしまった。
勢い任せの不良三人なら素手で倒せる自信もあるが、二十人となると厳しい……というか絶対無理。
よって逃げる道を選んだわけだが、まんまとこの廃工場地区へと誘導させられてしまった。
(あー、まずいな。このままだと捕まる)
徐々に近くから響くようになった怒声に、純太はタラリと冷や汗を垂らす。
冬だというのに汗はびっしりと身体を伝い、着ている紺色の制服のブレザーにも染みこんでしまっている。疲労は大きい。このままではまず間違いなく、もう少しで不良に追いつかれてしまう。そうなったら、まず五体満足では帰れない。
「致し方ない……恨むなら、俺をここまで追い込んだ自分たちを恨んでくれ」
純太は走りながら十字を切って、それからポケットから携帯電話を取り出す。
短縮を使って、さっさと電話をかける。かける相手は、そもそも不良と追いかけっこをする原因を作った、一月前の『悪質不良殲滅活動』を行った幼なじみである。
ワンコールで電話は繋がる。
『――助けが必要か?』
相手方からの第一声は、そんな全てを見透かしたような一言だった。
元凶の愉しそうな声に怒りが沸々と込み上げてくるが、今は必死で堪える。
「ああ、必要だ。大至急必要だよ、バカ野郎」
『ふっ、ならば仕方がない。俺の出番ということだな。
それにあたり、先日純太との間で交わした『他人との喧嘩に発展する行為はしない』という約定を破ることになるのだか、もちろん構わんのだろう?』
「ぐっ…………仕方ない。俺のピンチだ。今回だけ許可する」
『了解だ。三分で行く。それまで持ちこたえてくれ』
プツ、と了承の言葉と共に電話が切れる。
切れた携帯電話を胡乱な瞳で眺めつつ、純太はボソリと呟く。
「俺は、最悪の悪魔を呼び起こしてしまったのかも知れない……」
その言葉は独り言だったのだが、どうしてか、返答の声が純太の耳に届いた。四方八方、いくつも届いた。
「なに、馬鹿なこと言ってるんだコイツ?」
「恐怖で頭イカレちまったんじゃねぇか?」
「あり得る! あの宮田実篤の友人でも、これだけの人数に囲まれちゃ、頭もおかしくなるさ!」
下卑た笑い声が、廃工場前の道に響き渡る。
野太い声の合唱は、聞いていて酷く耳障り。純太は顔をしかめ、足を止めた。
(……頭がおかしいのは、そっちの方じゃないのか?)
純太からしてみれば、頬や唇にピアスをする方が、よっぽど病んだ行動だ。不良という人種の一部には、想像も及ばない思考回路を有している奴らがいる。やはり自分は不良ではないと一安心。
グルリと一周、自分を中心において形成された包囲網。
それを作っている不良たちを見て、純太は哀れみの視線を送らずにはいられなかった。
長い逃走劇に終止符を打て、ようやく制裁を下すことができる――その喜びに満たされた彼らが、なんと哀れなことか。これからの自分の末路を知らないというのは、なんとも悲しいことである。
「やっちゃう? やっちゃう?」
「やっちゃおうぜ! 裸にひん剥いて、宮田の奴に届けてやろうぜ!」
「…………なんだか、男に向ける言葉か、それ?」
何か、この不良たちは勘違いをしているのではないのだろうか?
実篤とは小学校以来の幼なじみであり悪友であるが、学校の一部で噂されるような、そんな関係ではない。断固としてあり得ない。
(どうして女子といい、そういう噂が好きなんだよ……?)
理解できないと純太は頭を抱える。
その行動をどう取ったのか、周りの嘲笑が大きくなった。
不良たちのリーダーである鼻ピアスが前へと出てきて、その大柄の身体で威圧してくる。
「よう、佐倉。よくも俺らの仲間をやっちゃってくれたな?」
威圧感自体は大したことはないので問題ないが、ずっと追いかけてきた彼の身体からは、酷く嫌な臭いがした。
純太は視線を鼻ピアスから逸らし、
「……一つ提案なんだけど、ここらで一つ、互いの幸福な未来のために話し合わないか? ある程度の距離を持って接することができれば、俺たちは良い友達になれると思うんだ」
自分の身体のにおいを確認する。
……汗くさい。目の前の巨漢ほどではないとしても、汗だくの身体はかなりにおう。
(家帰ったら先に風呂入ろう。今日は母さんいるから飯も作らなくて良いし……久しぶりに入浴剤を入れてのんびりしよう)
すでに帰宅した後のことを考えている純太は、もちろん自分の提案を鼻ピアスがのんで、平和的な解決で終わることを望んでいる。が、一方でそれは不可能だということもちゃんと理解していた。
ニヤニヤと嗤う鼻ピアスは、先程の言葉に同意などしてくれなさそう。その道は、純太が仲間をのした時点で潰えていたのである。
「友達ねぇ。悪いが俺ら、ピアスもしていない奴は友人として認められないんだよね。俺たちは『ピアス団』。ここら一体を牛耳る、不良グループだからな」
「うわぁ、何そのネーミング…………ほんと、よく見れば全員ピアスしてる」
全員が全員、どこかの拷問施設出のような様相である。かなり見ていて痛々しい。それより何より、『ピアス団』というネーミングセンスが痛々しすぎる。
「な、な、なんだと! ピアス団に何か文句でもあんのか!?」
「文句はないけど……あんたらがそれでいいなら、俺は別に言うことはないけど」
「そ、そうか……?」
「なに喜んでるんですかリーダー。そいつ、バカにしてるんですよ」
純太から向けられる生暖かい視線に、鼻ピアスが自分のセンスを認められたと思って喜ぶ。だが、手下の一人に教えられ、バカにされていることに気付いて顔を真っ赤にして怒り出す。
「て、てめっ! よくも俺の純情なハートを弄びやがったな! この悪魔め! おいっ、てめえらやっちまえ!」
ダメです。その台詞を言ったら負け決定です。
純太がそう、思わずツッコミを入れたくなるぐらい、自然に三文芝居の台詞を吐いた鼻ピアスの指示に、周りの不良たちが殺気立つ。
純太でもいい、不良の誰かでもいい、一人が動けば即リンチが始まりそうな雰囲気。
絶体絶命のピンチの中、それでも純太の顔は冷静そのままだった。
――――なぜなら、全ては分かりきったこと。
傍目から見れば絶体絶命のピンチに見えても、本人である自分から見れば、こんなものはピンチでも何でもはない。不良たちから僅かな恐怖も感じない。それは決定的なものだ。自分の本能がそう感じているなら、負ける未来が訪れることはない。
「おりゃああああああああ!」
不良の誰かが、叫びながら突っ込んでくる。
純太はそいつに睨みをきかせ、腰を少し落として迎え撃とうとする。
武術の経験はないけれど、喧嘩ならそれなりに経験がある。したくはなかった経験だが、素人なら四、五人ぐらい相手取れる自信が純太にはあった……逃げることを前提にして、だが。
何の技巧もない一撃が、右から振るわれる。
それを何の不可もなくかわし、純太は逆に相手の背中に肘を叩き込む。
勢いのまま、その不良は地面へと倒れ込んだ。
「てめっ!」
仲間が一人やられたことで、他の不良たちも一斉に動き出す。
素人と素人――同じ戦闘能力の範囲内の戦いでは、後はどれだけ相手に隙を見出せるかが勝負の鍵となる。だから隙があってもその隙を突けないという、数に物を言わせた攻撃には敵う道理はない。一対十九という差はあまりにも大きい。
純太は一斉に殴りかかってくる不良たちを、あきらめたかのように、自然な力を抜いた格好で対応する。
そしてその場にいた第三者に対しては、次の言葉をもって対応とした。
「ほら、俺はピンチだ。助けるなら今だぞ実篤」
「心得た。こここそヒーローが助けに入ることが許された、絶好のタイミング。中々分かってきたじゃないか、マイソウルパートナー」
軽口に対し、かなりの本気のふざけた返答――
「だ、誰だ!?」
「誰だ、か。貴様らのような人のモラルも知らぬ輩に名乗る名などはないからな。そうだな……そこにいる少年の大事な相棒とでも言っておこうか。人呼んで宮田実篤だ!」
「名乗ってるじゃん……」
場に似合わぬマイペース具合で、不良たちの前に一人の男が進み出てくる。
男が出てきたのは、道に面した廃工場。
一体いつからそこにいたのか、純太と同じ制服には僅かに埃が付着していた。
「お、お前は!?」
「宮田実篤!!」
不良たちの幾人かが、その少年――宮田実篤の名を、驚きと畏怖を込めて叫んだ。
自分の幼なじみで悪友の男は、その場の空気を変える存在感とともに、不良たちの包囲網の中へと進み入ってくる。
「ジャスト三分。素晴らしい会話運びだったぞ純太」
「最低だ。お前、全部見てたのか……」
ニヒルな笑みを、実篤は純太の言葉に対する無言の返答とする。
顔が整っているだけに、その笑みはかなり様になっている
しかし頭に付着した大きな埃のせいでいまいち決まっていない。
全身から変人オーラを発している実篤は、純太から視線を周りにいる不良たちに変える。その視線には純太に向けた友好的なものとは違い、怒気が多分に含まれていた。
「やってくれたらなピアス団。この俺ならともかく、俺の親友に手を出すなど……お前たちはバカの見本と言えよう。俺の逆鱗を見事に突くとは、命がいらないとみえる」
実篤の発する一言一言が、不良たちを威圧する。それは長身から来る威圧感じゃない。身に纏っている空気から来る威圧感だ。不良たちも日々を喧嘩で明け暮れているため、目の前の男がハンパじゃないことにすぐに気が付いた。
だが彼らにもプライドがある。いくら敵わないと分かっても、逃げることはできない。
ジリジリと恐れを払うように包囲を詰めてきて、口々に強気な発言で自分を奮い立たせている。
見ていて哀れ――下手にプライドを持ち合わせていなければ、傷つくことはないというのに……
恐怖を堪えられなくなった一人が、実篤目掛けて殴りかかる。
そんな攻撃、純太でも見切れ、反撃できる。実篤に通用するはずがない。
「ふんっ」
軽く鼻をならし、つまらなそうに実篤はその不良を撃退した。その撃退方法は、先程の純太とは違う。
相手の拳を避けるのではなく手の平で受け止め、その場から一歩も揺らぐことなく、思い切り殴り返すという行為。とても実篤の体格からは想像できないタフネスと、男を一撃で昏倒させる攻撃力。それは不良たちを怖じ気づかせるには十分だった。
「どうした、かかってこないのか?」
実篤が口元をつり上げて、不良たちを挑発する。
(こいつ、やっぱり何か変わったな)
そんな彼の、自分を守るように向ける背中を見て純太はそう感じた。
自分が知らない間に、長い間一緒だった幼なじみはどこか変わった。
それはたぶん、秋の頃だと思う。なにがあったかは知らないが、その時、彼に何かあったのだろう。
変わった幼なじみは強くなった。
前々から武術を習っていて、前も十人ぐらいの不良を相手取れるぐらい強かったが、今はその倍を圧倒できるぐらい強い。数日間の成長では到底手に入らぬ強さである。
それをどうやって手にいれたか、その理由は知らない。だがたぶん、それはこの世界においては反則に近いのだと、そう純太は認識していた。
一歩実篤が不良たちに近付くと、不良たちは顔を恐怖で引き攣らせ後退る。すでに勝敗を決している。これ以上は、弱いもの虐めにしかならない。
「失せろ。今回は大目に見てやろう。だが分かっているな? ――次はないぞ」
それは実篤も分かっていたようで、底冷えする声色で不良たちを脅し、彼らを無傷で帰すことを了承する。
実篤一人に圧倒され、逃げ去っていく不良たち。
未だ向けられたままの背中――――その背中が、純太にはなんだか遠く見えた。
純太には実篤に何があったのか知らない。訊く気もない。
教えてくれる気になったら、こっちが拒んでも実篤は教えようとするだろうし、それまでは意地でもこちらから訊く気はなかった。尋常じゃない成長の秘密はとても気になるが、だからこそ今まで通りにしなきゃいけない。
「…………帰るか?」
これまでがそうだったように。これからも、二人の関係は変わらない。
純太の呼びかけに、実篤は振り向いた。顔には親しみを込めた笑顔があった。
「ああ、そうだな。ここまで走ってきた所為で汗くさい。どうだ? 純太、一緒に風呂に入らないか?」
「あっはっは、殴るぞ? 泣いて謝るまで殴るぞ? 寝言は目覚めぬ眠りについてから言え」
その顔を何の悩みも遠慮もなく殴れたら、どんなに気持ちいいか――その時、これから先自分の身に降りかかる小さな怪異には気付かず、純太はそう思ったのだった。
◇◆◇
――魔法とは即ち、世界に働きかける術である。
『世界』という途方もなく大きな存在に対し、自分の生命力――魔力を持って干渉する。世界の運営を阻害する法こそ、魔法と呼ばれる神秘の技術なのである。
……要は魔法というのは、『世界』という大きなコンピュータに『魔力』というウイルスを混入し、そして起きたバグのことをいう。
世界が正しく機能している内は決して起こらないことを、トラブルを起こすことによって可能とする。故に魔法は世界が起こす現象の一端であり、魔法の効果というのは世界によって大きく変化するのは当然と言えよう。
「う〜む、やはり外へと働きかける魔法は使えんか……」
魔力に弱い世界ほど魔法は簡単で強力になり、魔力に強い世界ほど魔法は困難で弱くなる。それが魔法と呼ばれる法の理であり、実篤が知った最初のことだった。
実篤が住む世界は、魔力という毒に対する防犯設備が並ではない。この世界は魔法を使うのが難しい世界なのだ。
この世界にバグを起こさせることは並大抵では不可能で、自分の保有魔力ではとてもじゃないが無理だ。自分はただの人間であり、その生命力は世間一般でいうところの平均でしかない。この世界の人間が魔法という存在を夢物語と思い使えないように、また自分も使うことが難しいのだ。
だが実篤は運が良かった方だ。
この世界に生まれた限り、本来は魔法など一生使うことなどできない。それは魔力云々よりも、魔法というものが知られていないからである。
知らなければ使うことができない……それは当然のことだ。
正しく理解しなくても使用することだけはできるかも知れないが、そもそも存在を知らなかったら使えるはずがない。
確かに実篤は魔法を知らない世界に生まれたが、とある事情により魔法の存在を知り、そして扱うことができるようになった。しかしやはり根本的に世界が世界なので、魔法は使えても、魔法だと分かるような魔法は使うことはできなった。
一般的な魔法のイメージは、炎を手から出したり、空から雷を落としたり、風を操って空を飛んだり、地面を揺るがし大災害を起こす……そんなものだろう。
確かに魔法の中にはそれらの現象を起こす魔法が存在する。こことは違う世界なら、それらの魔法は普通に行使されている。が、そんな魔法なんて実篤は使えない。
「……結局は使える魔法は一つだけか。いや、一つでも使えただけでも僥倖といえよう」
実篤が扱える魔法は、『世界』に働きかける魔法ではなかった。
あまりに魔力に対する防御が完璧な世界なので、世界に働きかけても無駄でしかない。
そんなもの、世界を滅ぼすぐらいの魔力がなければ無理だし、よしんば万に一つの確率で成功したとしても、静電気を起こす程度の魔法しか起きないだろう。
よって実篤にできることは、外の『世界』ではなく内の『世界』へと働きかけることが精一杯だった。つまり自分という世界――魂と精神と肉体からなる『世界の中の世界』に働きかけて起こす魔法である。
――――意識を集中する。
世界の中に在る自分を、世界から切り離す感覚。
人間が持つ最小限度の生命力を、毒である魔力へと変換する。
外へ対する魔力干渉式である魔法陣ではなく、自分に対しての魔力干渉式を構築し、自分の世界の働きを乱す。
「ぐっ……!」
実篤は身体に走った痛みに、小さく悲鳴をあげる。
魔力という毒が世界を冒した痛みだ。バグを起こすということは、世界を害する……下手をすれば正常稼働ごと全てを崩壊させるということ。故障に痛みを伴うのは当然のことだ。
「ぬ、ぅ……」
自分の世界において、正常に動こうとする働きと、乱して魔法を起こそうとする働きがせめぎ合う。
人間一人が持ち合わせる『魂と精神と肉体』は、外の世界に比べたら小さいにもほどがあるが、中で起きていることは世界と同じ。正しく世界の縮図だ。
長い苦痛の時間のあと、ついに世界が毒に負け、魔法が生じた。
肉体が正常な動きを見失い、精神が自分を見失い、魂が理を見失う。
そうしてようやく、実篤という人間が唯一扱える魔法が発動する。
それはあくまで宮田実篤の世界でのみ働く法。ゆえに外には一切現れず、現れたのは内にのみ。実篤は自分の身体が熱く燃えたぎるようになったのを感じ、深く息を吐き出す。
「よし」
実篤がいるのは自宅の自室だ。
カーテンを閉め切り、ドアを閉め、電気を消したその部屋は実篤らしい奇抜なデザイン……というわけではない。
本にCDに勉強机。クローゼットにベッドと、特におかしな部分はない。まぁ、本の種類がミステリー系なのが、少し異色といえば異色か。
それでも高校生百人の部屋を調べたら、一人ぐらいはいそうな部屋である。学校始まって以来の変人と噂される宮田実篤の部屋とは到底思えない。しかし実際にここは実篤の部屋なので、それはただの噂でしかなかったというこ……と…………
実篤は額の汗を拭うことなく、徐にベッドの下に手を伸ばす。
一般的に青少年が隠したいものを隠すというベッドの下。
確かにそこから出てきた品は、一般社会には隠しておいた方が良さ気な代物だった。
日本刀である。
実篤は自分のベッドの下から日本刀が出てきたことを、まったくおかしいと思わず手に取った。まるで高校生のベッドの下に日本刀があるのは当然だと言わんばかりに、慣れた手つきで日本刀を鞘から抜き放つ。
綺麗な波紋の刀身が露わになり、芸術品とも呼ばれる輝きを発す。それは間違いなく真剣だった。
実篤は日本刀を右手で持ち、その刃を左腕に当てる。
引かなければ切れないのが日本刀である。それだけの行為なら、なんら問題ない。
――だが実篤は何の躊躇もなく、日本刀を引いた。
日本刀が肉を滑る音がして、実篤の手から血が出る。
当たり前だ。日本刀で斬りつけて、血が出ないなんてことはありえない。当然のごとく実篤の手からは夥しい量の鮮血が出て…………はいなかった。
確かに血は出ている。だがそれは、紙で手を切ってしまった時ぐらいのものだ。とても日本刀で切ったとは思えない出血量である。
「……まだ錬度が甘いか。皮膚が切れてしまったな」
血が出た自分の左腕を見て、実篤が不服そうに呟きをもらす。
持っていた日本刀を床に置いた実篤は、あらかじめ用意しておいた絆創膏を取り出し、切れた皮膚に貼り付けた。
傷はそれだけで隠され、腕は日本刀で切ったとは到底思えない正常さを見せている。
そう、それこそが実篤の使える、唯一の魔法の効力だった。
実篤が唯一知る『魔法に似て否なるもの』の知識から、独学で魔法として効果を発揮するようにしたのが、この魔法だった。
[抵抗]の魔法と呼んでいるこの魔法のお陰で、日本刀で切ってもあの程度の傷しか付かなかったのである。これは単純に外の世界と自分とを切り離し、外界からの干渉を緩和させるというだけの、魔力を身体に流しただけの魔法とも呼べない魔法である。
「――と」
その時実篤は、自分の身体から急激に力が抜けたのを感じた。
「魔法の効力が切れたのか。五分、やはりこれ以上は持続できんか」
『世界』とは世界として正常に稼働しようとするものである。
そのため魔力によってバグが起きても、それをすぐに正常に戻そうとする働きがある。魔法の効力は、やがては効力を失う。いわゆる自浄作用というものだ。
持続させるには世界にバグだと思わせないように騙すか、正常に戻す力に抵抗できる魔力を注ぎ込みし続けるしかない。
その両方ともできない実篤の魔法は、すぐに効果を失ってしまう。
この世界に生きているために、それはどうしようもないことだった。
「…………この世界は魔法を使うのに適さない。そんなこと、何度も言わなくても分かりきっていることだ」
実篤が知るところの、最高の魔法――魔法の存在を知る原因となった少女が誇った、世界渡りの魔法など、この世界では身に着けることはできないだろう。
誰かと協力して魔法を学ぼうにも、この世界には実篤しか魔法使いはいない。いや、実篤を魔法使いなどと言っては、本物の魔法使いに申し訳がないというものだ。
だがそれでも、この魔法という技術が何かしらの自分の力になることを信じ、再び鍛錬へと戻ろうとする。
その時――――実篤は不思議な波動を感じた。
「ん? なんだ、これは?」
それは自分が使った魔法ではない、とてつもない神秘の波動だった。
急に現れた、爆発的な魔力の波動。
とんでもない規模での魔法行使に違いない、あり得ない規模の魔力の奔流。色を持たない無色の力は、間違いなく実篤の知覚範囲内に現れた。
(場所は恐らく学校……)
感覚によって見たところ、急に現れた爆発的な魔力は、ちょうど自分の通う学校の方から感じられた。
「一体何だ…………この魔力、前にも感じたことが……」
そして実篤は、その魔力の波長――魔力は一人一人僅かに違うのである――を以前にも感じたことがあった。
「…………嫌な予感がする」
自分の知る場所に現れたことといい、見知った気配であることといい、とんでもなく嫌な予感がする。
そして最悪なことに、自分の感じる嫌な予感は大抵的中してしまうのである。
「…………まさかとは思うが、お前なのかリトルマザー……?」
持っていた日本刀を鞘に戻し、急ぎ実篤は、鞄とコートを持って部屋を出た。
◇◆◇
視線を向けると、そこには白銀の光と共に現れた、妖精のような少女がいた。
ぼんやりと彼女を見つめていると、彼女の透明な声が聞こえてくる。
「――――ようやく、見つけたよ」
それは信じられないことに、自分へと向けられた言葉であるようだった。
考えることすら億劫で、なんだか妙に肌寒い世界を漂う中、それは初めての体験だった。
それは昔……もうずっと昔のように思える、いつかの時と同じように、誰かに見つけられるという体験……なんだか涙が出そうになった。
口のない自分では、彼女の言葉に返答を返すことはできない。
身振り手振りで返そうにも、腕も、足も、そもそも身体がないから無理だった。
「大丈夫、泣かないで。あなたの想いは、ちゃんと伝わっているから」
優しい微笑を浮かべた少女は、そう言って近付いて来る。
自分は考えるだけの存在。故に、人である彼女の目には映らないはずなのに。目の前で、彼女は立ち止まった。
「大丈夫。すぐに、前みたいに戻してあげるからね」
見知らぬ少女は、そう優しい声音と共に手を差し伸べてくる。
見えない自分を抱き寄せるように、彼女は手を伸ばし、その小さな胸に自分を抱き留めてくれた。
――温かい。
久方ぶりに感じた人の温もりは、母親に抱きしめられているかのような温もりだった。久方ぶりに感じた人の匂いは、遠いあの世界の空気と同じ、胸が熱くなるような懐かしい匂いで……ああ、自分はこの人の胸に帰るのだと、そう分かってしまった。
「安心してね。また、私が生み出してあげる。終わりの続きを、歩ませてあげる。だから、今度こそは――」
安心する少女の胸に、だんだんと眠気が襲ってくる。
気持ちいい。彼女の腕の中こそ、自分にとっての抱擁の楽土に違いない。
少女の胸の鼓動が、子守歌となって魂にまで響く。
剥き出しの魂を包みこむように愛を伝えながら、小さな願いを、少女は我が子へと伝える。
「――――どうかせめて、幸せな終わりを」