第二話 小さな聖母
しんしんと降り続く雪は、季節が冬であることを教えてくれる。
観鞘市の冬は寒く、十二月にも入ると時折白い地面を見ることが出来るほど。空気は冷たく、特に早朝ともなるとかなり寒い。
その中でコート一枚羽織っていない、いや、そもそも身体に何一つ羽織っていない少女の姿は異様といえよう。例えそれが室内であっても、だ。それにそれは別に冬に限った話ではなく、年がら年中全裸で外にいる人間は異様である。
人、それを露出狂という。
そんな露出狂っぽい少女を前にして、平均的な日本人らしい黒髪黒眼で、さらに黒縁眼鏡をかけた少年――ジュンタはどうしようかと悩んでいた。
ここは観鞘市内でも有数の進学校の屋上温水プールだ。
今現在の時刻が午前六時ちょうどなので、水泳部の朝練まではまだ時間がある。この学校の生徒であるジュンタには、そのことが分かっていた。
しかし人目につかないからと言って、少女をこのままにしておくことはできない。
どうして少女は裸なのか?
そもそもこの少女は誰なのか?
と言うか、自分はどうしてこんな場所にいるのか?
疑問は尽きない状況であるのだが、取りあえずジュンタは着ていた制服の上着を脱ぎ、それでプールサイドで眠りにつく少女の身体を包む。そしてそのまま少女を抱き上げて、取りあえずプール内でも人が来そうにない、物影になった観覧席の一席に運ぶ。
眠っている少女は、綺麗な白銀の髪を足首の長さまでのばしていた。
眠っているため瞳の色は分からないが、まつげは長く、お人形かと思うぐらいかわいらしい顔をしている。身体は起伏がほとんどなく、年齢は十二歳より下くらいと推測される。
幼いながらも、少女は女性特有の柔らかさを備えていたため、ジュンタは少しドキドキとしながら運んでいく。
(一体、何がどうなってるんだ……?)
ジュンタは観覧席へと少女を寝かしたあと、隣に腰を下ろして状況を考え始める。
覚えている記憶の最後は曖昧だ。
自分がどこで何をしていたか……それがどうしてか思い出せない。
覚えているのは自分が異世界にいて、そしてドラゴンと戦ったこと。そしてドラゴンを倒すために自分は死んだことの二つだ。それから後、何かあった気がするが、それを思い出すことはできなかった。
「……はぁ、取りあえず、鍵はこの子かな」
ジュンタは気持ちよさそうに眠っている少女を見て、そう考える。
記憶にはない相手だが、少女に対してどこか懐かしさを覚える。
覚えてないだけで、彼女とはどこかで会ったことがある……そんな気がしたのだ。
意識がはっきりしたと思ったら、プールサイドに突っ立っていて、傍らには眠る少女が。
この状況から見るに、この少女が何らかのキーパーソンであることは間違いないだろう。運が良ければ、自分がこの場所にいる理由も知っているかもしれない。
取りあえず水泳部連中がやってくるまで一時間はある。それまで少女が起きるのを待とう。それでも起きなかったら、仕方がないが起こすしかあるまい。
そうジュンタはこれからの行動を決め、視線を少女から外した。
視界には我が校が誇る五十メートル十レーンという巨大プールがある。
私立であるこの高校の水泳部はかなり強い、全国大会常連のチームである。だから学校側も力を入れて設備を整えたらしい。水泳部員ではない生徒は夏にしか入れないが、水泳部は毎日毎日朝昼晩と使っている。
ジュンタはそのプールから視線をずらし、横にある窓へと視線を向ける。
普通プールには目隠しのための仕切りがあるのが付き物だが、ここのプールにはない。
プールは校舎の屋上にあり、さらにはマジックミラーになっているため、問題はないらしい。金のかけ方がそもそも違うということだ。
窓の外には小さな花壇が広がっている。そしてその向こうには校舎の端が見え、さらにその向こうにはまだ薄暗い空が広がっていた。
空からはしんしんと雪が降っており、外の薄暗さから見ても今の季節が冬であることは間違いない………………だから、ジュンタは疑問を抱く。
ジュンタの記憶では、今は秋であるはずだった。
落ち葉が校庭を赤く染める季節で、学校の清掃で落ち葉集めをした記憶があった。集めた落ち葉を使い、無断で焼き芋をした記憶があるからそれは間違いない。
しかし外の景観は、間違いなく冬。
ずっと観鞘市で暮らしていたジュンタには、この風景が冬である自信があった。だから秋だと感じている自分との相違に戸惑っているのだ。
「どう、なってるんだろうな、一体……」
それを言ったら、そもそもどうして自分は生きてここにいるのだろうか、という話ではあるが。
「俺は確かに死んだ。リオンに生きていて欲しくて、ドラゴンと戦って、『不死鳥聖典』を使って死んだ……そのはずだ」
自分の手を見る。足を見る。身体を見る。手で、顔を触る。
感覚があった。自分に触れているという感覚が、当然の如くあった。
「生きてる。俺は、生きてる…………生きてるのか……?」
生きている――それが本当のことだとしたら、とても嬉しいことだ。だがジュンタはすぐに認めることができなかった。記憶に確かに、自分が死んだという記憶があったために。
無論のこと、自分が本当は死ななかった可能性だって考えられる。
使えば必ず死ぬという『不死鳥聖典』が、実は使っても死なない。そういうことなら、確かに生き延びることも可能だろう。
だがそれだと疑問も残る。それは今、ジュンタがいる場所だった。
窓の外にはビルの灰色が見え、近代的な家々の屋根が見える。道路には少なくない数の車が走っていて……見覚えがある。間違いなく、ここは観鞘市と呼ばれる場所だった。
異世界ではない。
唐突にやってきて、そして死んだ異世界ではない。
ここは元いた世界。地球の日本の、ジュンタが生まれた故郷の街――観鞘市だった。
『不死鳥聖典』の情報間違いで生き逃れることができたとしたのなら、元の世界に戻っているのはおかしい。それが、ジュンタがその可能性を肯定できない理由だった。
「別に、そんなに深く考えないで、適当に認めちゃえばいいのに」
「いや、それはそうなんだけど……いまいち実感が無くてさ」
突然尋ねてきた声に、ジュンタは苦笑しながら答える。
確かに少女の言うとおりなのだが、それをそうと認められないのがジュンタという少年だった。確かな証拠と説明があれば認められるが、それがないと少し疑ってしまうのだ。
「ふ〜ん、実感ねぇ……わたしは生き返った経験が無いからよく分からないけど」
「普通は死んだら生き返らないからな。経験がないのは普通だ……と…………?」
バッとジュンタは横を振り向く。
そこにはこちらを金色の瞳で見る、かわいらしい少女の姿があった。
ジュンタが少女を見つめること数秒。少女はどうして自分が見つめられているのか分からないようで、小首を小さく傾げる。
「あ、えっと…………起きてたんだ?」
「うん、ついさっき。久しぶりに大規模な魔法使ったから、疲れちゃって。最近はお昼寝お昼寝の生活だったから、ついつい疲れて眠っちゃったの」
努めて普通に尋ねれば、少女も普通に言葉を返してくれる。
…………でも、せっかくかけた制服を脱がないで欲しいと、ジュンタはそう思った。
◇◆◇
実篤が自分の通う高校へと辿り着いた時、すでに魔力の残滓はなくなっていた。
世界が魔力を消滅させてしまったのだ。
魔力は毒――先程の魔力は世界にバグを起こすほどの量だったため、その残滓だけでも十分異常は起こってしまうから、残っていたら打ち消そうとするのは当然のこと。
しかし実篤にとってそれは、迷惑行為以外の何ものでもない。
「魔力を持つ誰かの姿は…………やはりいないか」
実篤がいるのは屋上温水プールだった。ここから見知った巨大な魔力のほとばしりを感じたのだが、今は誰もない。……白い少女の姿は見つけられない。
在ったはずの魔力も霧散してしまった今、それを頼りに居場所を判別することはできなくなってしまった。打つ手無し。唯一使える魔法では、探し人の捜索はできない。
それでも何か手がかりは残ってないかと、実篤は一度プールの中を調べることにした。
「戸に鍵はかけられていた……誰かがここに現れ、外に出たとしたら開いているはず……誰もここから出ていない? いや、もしここにいたのがあいつならば、鍵など関係ないか」
一通りプールを調べ回ったが、魔法を使った人物の手がかりは何も残っていなかった。
実篤はプール内にある時計を見る。
時刻はもう七時になろうとしている。もうすぐここには水泳部の人間がやってくるだろう。そろそろ後にしないと、面倒なことになる。
――と、そう思った矢先に、プールの入り口の戸が開いた。
あまりに唐突だったので、さすがの実篤も即座に隠れることはできなかった。
ちょうど戸の近くにいたこともあって、実篤は戸を開けた人物に発見され、
「ん? なんだ実篤じゃないか? ……まさかさっきのおかしな感じ、お前のせいか?」
そう、佐倉純太に声をかけられた。
身構えたところにぼんやりとした声をかけられ、思わず実篤は脱力する。
「なんだよ、変な目で見て……?」
「いや、別になんでもない。ところで純太、お前は一体こんな時分にこんなところで何をしているのだ?」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ。実篤、お前こそ一体何をしてるんだ?」
「むっ」
答えづらい質問には答えず、逆に質問をするということを何気なくやる純太は、やはり侮れないと実篤は嬉しく思う。
だが質問に答えられるかと言えば、そうじゃない。実篤は嬉しそうな顔なのだが、口だけはモゴモゴさせるという器用なことをする。
それを見た純太は溜息を吐き、首の後ろに手を触れながら、
「俺がここに来たのは、なんて言うのかな……そう、妙にここが気になったって言うのか? そんな感じがしたから来たんだよ」
「――なんだと?」
純太が教えてくれた、ここに来た理由に、実篤は驚きを声にする。
彼のここに来た理由。それはまるっきり実篤と同じだった。
魔法の行使に正確に気付いて来たわけではなさそうだが、妙な違和感をこの場所に抱いてきたのなら根本的理由は一緒だ。
故に実篤はまずいと思う。
魔法など知らぬはずの純太が、ただ感覚だけで己と同じ行動を取ったということは、彼が並はずれた『素質』を有するだけじゃなく、そこへと近付こうとしているということだ。
それは魔法の存在へと近付くということ。そして世界を毒する行為を知ってしまうということに他ならない。
(…………特にまずいと思う理由もないな)
「それで? お前はどうしてここにいるんだ?」
純太が次はお前の番だと、質問をぶつけてくる。
実篤は一瞬悩み、それに偽りを持って答えた。
「俺がここに来たのは、ラブレターを貰ったからだ」
きっぱりと答えた実篤の嘘は、そんな、あまりにもおかしすぎるものだった。
確かに実篤は美形だが、その評判の所為で女子からの人気は……少なくとも告白を受けるほどはない。遠目から眺めているならいいが、一緒に過ごすとなると一気に難しくなるなるのが実篤という人間である。
「なんだよ、そうだったのか」
――しかし純太ははっきりとした納得を見せた。
そして一言、
「ほどほどにしておけよ。果たし状なんて貰わなければ、貰わない方がいいんだからな。……プールには何もないし、あれはただの勘違いだったか……まぁ、いいや。俺は部室で宿題でもやってるよ。また後でな」
実篤をちょっと寂しくさせる言葉を吐いて、さっさとプールを後にしてしまった。
誤魔化せた。確かに完璧に誤魔化せた。付き合った年月をよく考えた、素晴らしい嘘だった。が、どうしてか妙に空しい。
胸の痛みを堪えつつ、一度プールを振り向く。
「……貴様の所為だぞ、リトルマザー」
そしてそんな言葉を残し、実篤は純太の後を追った。
◇◆◇
ガチャリと部屋に鍵をかけてから、ジュンタは部屋の方を見た。
カーテンが閉じられて薄暗い室内では、ブレザータイプの上着……それも男子用の大きなサイズのみを着た、かわいらしい少女がちょこちょこと動いている。
視線に気付いた彼女は、笑みを作ってジュンタへと振り向く。
十畳ほどの部屋に男と二人きりという状況に、何ら危機感は抱いていない様子だ。
今ジュンタが扉に鍵をかけたため、外からこの部屋に誰かが侵入することはできないというのに。さらに言えば、この茶道部の部室である茶室は、放課後まで生徒がほとんど来ない場所のため、いくら大きな声を出そうとしても誰もやってこない。
(……もし、誰かがやってきて中の様子を見たら、十中八九間違いなく通報されるな)
部屋のことと少女のこと、そして自分のことを考え、ジュンタは嫌な予感に背筋を震わせた。
もちろんジュンタに人目がないからといって……扇情的な格好を見せつけられているからといって、いたいけな少女を襲う趣味はない。だが第三者から見たら、この状況は誤解しろと言っているようなものだろう。
誰もやってこないことを祈りつつ、ジュンタは軽く溜息を吐いた。
「どうしたの?」
「うわっ!」
「きゃっ!」
いきなり間近で響いた声にジュンタは驚きの声をあげる。
すると話しかけた少女もジュンタの声に驚き、小さく悲鳴をあげた。
(い、いつの間に近寄ってたんだ……?)
ついさっきまで和室の部屋を興味深そうに観察していた少女は、間違いなく離れた場所にいた。近寄られた気配など、まったく感じなかった。
(さっきの起きた時のことといい、この子、普通の人間じゃない……?)
びっくりしたぁ、と呟いている少女を見て、ジュンタはそう判断する。
悪い相手とは到底思えないが、少しだけ不思議な少女であることには間違いないようだ。
「も〜、話しかけただけで驚くなんて、紳士失格だよジュンタ」
「うっ、悪い…………って、あれ? 俺、自分の名前教えたっけ?」
めっ、といった感じで注意してくる少女に、なんとなく逆らいがたいもの感じ、素直に謝る。しかしその後すぐジュンタは、少女が教えていないはずの自分の名前を呼んだことに気が付いた。
「……俺は名前を名乗ってないはずだ。どうして分かったんだ?」
「どうして? む〜、酷い。ジュンタってば、わたしのこと忘れちゃったの?」
その質問は、少女に取っては不満に思うことらしい。少女は頬を膨らまして、上目遣いに睨み付けてくる。
「……酷いよ。わたしのこと忘れちゃうなんて」
それから、そう、とても寂しそうに、悲しそうに呟きをもらした。
これにはさすがにジュンタも罪悪感を刺激される。
寂しそうな子供と、悲しそうな女というのは男には天敵だ。二つ揃えば、無敵にゴメンだ。
「ご、ごめん……え、えっと…………」
ジュンタは必死に記憶を呼び起こし、目の前の少女がいた記憶を思い起こそうとする。
少女の言い方だと、昔会ったことがあるらしいが…………記憶に該当する人物はいない。真っ白な髪に金色の瞳という容姿なら、会っていたなら忘れるはずがないと思うのだが……
(え? 金色の瞳?)
ジュンタは改めてその事実に気付き、じっと少女の瞳を見つめる。
大きな瞳は美しい金色の色をしている。それは少女のイメージを神秘的なものに変えており、全裸に服一枚という姿でも、触れがたい高貴さを感じさせる。
だがこの場合、ジュンタにとって一番重要なのは、金色の双眸がとある一つの称号を持つ人間の証であることだった。
『使徒』――金色の双眸を持つ人間は、異世界ではそう呼ばれていた。
使徒とはこの世界とは違う中世ヨーロッパほどの文明の異世界における、最大宗教『聖神教』の最高指導者であり、各国の国王にも命令できる権力を持つ、神の使いと呼ばれる人間を表す名だ。いや、実を言えば、使徒は人間ではない。
使徒は確かに人の姿をしているが、その本質は神獣である。人の姿はあくまでも現世での仮の姿でしかなく、使徒の本当の姿は犬や猫、不死鳥といった人ならざる獣の姿であるのだ。
それを考えるなら、目の前の少女が使徒である可能性も決して否定できない。
見た目はかわいらしい少女だが、その内にいかなる獣の本質がある分からないために。
そう考えたジュンタは、少女に対する疑いを顔に出してしまったのだろう。少女の顔がさらに悲しそうに曇った。
「ジュンタ、何かおかしなこと考えてる」
そうポツリと呟く少女の声は、思わず抱きしめたいぐらいの儚さを孕んでおり、
「――でも、その通り。ジュンタの考えたことは正しいよ。わたしはリトルマザー。異世界における救世主候補者、使徒の一柱よ」
そしてその次の瞬間、素直に自分が使徒であることを認めた少女の声には、ジュンタを威圧するような魔的な何かを孕んでいた。
身体を見えない鎖で束縛されているかのような重圧と、肌の上をムカデが這っているかのような悪寒――それは絶対的強者が放つ、世界の空気すら変える存在感。
(まず、い。この子、桁違いだ!)
ジュンタは指一本動かせなくなった自分の身体を見て、少女に恐れを抱く。
少女の存在としての規模は、以前対峙したドラゴンよりも強大だった。
ただ視線を向けられているだけだというのに、それだけで全てが圧倒されていることを悟ってしまう。殺気も敵意もないが、ただ不思議と感じる重圧感。恐らくこれは魔法――異世界における神秘の技術が生んだ、不可視の強制力だ。
果たしてそれが向けられていたのは一分間ぐらいか? もしくはそれよりも短い時間か? どちらにしろジュンタには、時間が経つのがとても遅く感じられた。
重圧感が一瞬で消え、満足に息が出来るようになった頃には、すでに身体は汗だくになっていた。
思わずその場に倒れ込みそうになるのを必死で堪えるジュンタを見て、少女は愉しそうに笑う。
「ふふっ、わたしを忘れていたことは、これで許してあげるね」
楽しそうに少女はそう言ったが、ジュンタはまったく楽しくない。
重圧を向けられていた間、まったく生きた心地がしなかった。
「…………それで? 許して貰えたなら訊いても良いか?」
ジュンタは汗を拭ってから、取りあえずこの場でこの少女――リトルマザーと名乗った少女に何かされる心配はないと判断し、思い切って質問をぶつけてみた。
「いいよ。わたしが一体誰か、ってことだよね?」
「まぁ、そうだ……悪いけど、俺はお前のことが思い出せない。お前は異世界の人間なんだろ? だとしたらほんの数日前には遭っていたってことになるんだけど……」
質問の内容を言う前に、内容に気付かれたジュンタは、素直に自分が少女を覚えてないことを口にした。そのことにリトルマザーは少しむっとした顔をするが、それはすぐに笑顔に変わる。
「そっか。覚えてないなら仕方がないから、もう一度自己紹介するわね…………あ、違う。よく考えてみたら、自己紹介なんてしてなかったっけ」
「?? 前に会ったことがあるんじゃないのか?」
「あるよ。あるけど……その時はジュンタ赤ちゃんだったから、自己紹介なんて出来なかったもん」
(それで俺が覚えてるって思ってたのか?)
色々とツッコみたい単語が出てきたが、それにはあえて触れないでおく。
これ以上話がややこしくなって欲しくないので、ジュンタはリトルマザーの説明を待つことにした。
リトルマザーは無垢な、しかしどこか艶のある笑顔を作って口を開く。
「もう一回言うけど、わたしはリトルマザー。本名じゃなくて、称号みたいなものかな? 『小さな聖母』って意味。本名は……あんまり言いたくないから言わないね。あ、別にジュンタが嫌いってことじゃなくて、う〜ん、言うなればジンクスみたいなものかな? 名前を名乗るだけで、人が死んじゃうことがあるから」
「…………そ、そうなのか」
「うん。それでねそれでね! 好きな食べ物はハム鳥のステーキ! 意外って言われるけど辛いものとか好きなの。あ、でも甘い物も同じくらい好き。ジュンタも甘い物は好きだよね?」
「あ、ああ、好きだけど」
「じゃあ、お揃いだね! やっぱりこれは遺伝かな? わたしの甘い物好きがジュンタに受け継がれたのかも。ほら? 食べ物の趣味はお母さんに似るっていうでしょ?」
「……………………お母さん?」
怒濤の如くしゃべるリトルマザーの自己紹介を受け止めていたジュンタだったが、さすがにその一言には思わず訊き返してしまった。
「お母さん? え? 悪い、どういうことだ? 俺の母さんって……」
ジュンタにはちゃんと母親がいる。ジュンタも少し似ている、のんびりとした母だ。
確かに彼女も童顔で若々しいが、さすがに目の前の少女ほど若くない。いや、若いというか、リトルマザーは幼いと言った方が正しい感じ。
聞き間違いであることを祈りつつ訊き返したジュンタに、リトルマザーは当然と言った感じでもう一度言った。
「そうだよ。お母さん。わたし、ジュンタのお母さんなの」
「……………………それで俺がどうして生きていて、元の世界に戻ってるのか、お前は知ってるのか?」
ジュンタは取りあえず、その話題をスルーしておくことにした。
リトルマザーも特に話題を流したことを気にした様子もなく、ジュンタの次の質問に彼女は頷く。
「知ってるっていうより、そもそもジュンタの命を助けたのも、この世界にジュンタがやってきた原因を作ったのもわたしだから。知ってるっていうのは少しおかしいかな」
どうしてこう、この少女は驚くことばかりを言うのだろうか?
ジュンタは少し回転のし過ぎでパンクしかけている頭を抑えつつ、今までの情報を整理しながら質問を続けた。
「……つまりお前が俺の命を助けてくれて、この世界に戻してくれた。取りあえず、それだけ理解しておけばいいのか?」
「まぁ、そうね……詳しく言うと難しいし、一度にたくさん言っても受け入れ辛いし、それでいいと思う。ジュンタは生きて、この場所にいる。それ以外は取りあえず今は不必要な情報かな」
「そっか……」
リトルマザーには訊きたいことも、自分の状況に違和感もあったが、取りあえずジュンタは納得することにした。
自分は生きている。死んでない――それをようやく認めることが出来て、嬉しかったから、取りあえず考えることを放棄したと言ってもいい。
…………あと、何か耳に人の話す声が聞こえてきたから、というのもある。
ジュンタは付けていた腕時計を見て、今の時刻を確認する。時刻はすでに七時を回っていた。
遠くで聞こえる話し声は先生や、部活狂の水泳部の連中だろう。
プールから茶室に場所を移動したことはいい選択だったと、自分の行いを内心で褒め称えているジュンタに、リトルマザーが話しかけた。
「ねぇ、ジュンタ。せっかく街にやってきたのに、外を見に行ったりはしないの?」
「え? いや、そうだな……」
リトルマザーがそんなことを言ってくるとは思わなかったが、確かにとジュンタは思う。
故郷の街は、感覚的にはそう長いこと離れていた感じはしないが、それでもようやく帰って来たと言う感じはある。長旅から帰ってきたような感慨と懐かしさは確かにあった。
それと一度ジュンタは自分の死を認めた。もうこの世界に足を踏み入れることはないだろうと、そう覚悟した。だからリトルマザーの言うとおり、外を見に行って、両親に会ったりしたい気持ちは確かにあった。
服装は今、高校の制服で上着無しだ。
少し注目は浴びるだろうが、出歩いておかしい格好ではない。しかし……
「……今は止めとく。今の季節が冬だとしたら、数ヶ月の間、俺は行方不明になってたってことになるし。いきなり学校に現れて、騒ぎにはしたくないからな」
「そんなの気にしなければいいのに……」
リトルマザーにはジュンタの話が共感し辛いのか、そんなことを言う。
ジュンタは苦笑を浮かべ、
「そうかも知れないけど、これ以上有名になるような大騒ぎは勘弁してほしいんだよ。まぁ、今更って気もするが……取りあえず、お前もいることだしな」
「わたし?」
「俺は出歩いても大丈夫だけど、さすがにお前みたいな子供が歩いてるとおかしいと思われるからなぁ〜」
何せ裸に上着一枚である。しかもかわいらしい少女で、その筋の人たちが見たら卒倒ものだろう。
そんな目を向ける可能性がある野獣がいる中に、このか弱い……というのは語弊がありそうだが、見た目だけは十分か弱そうなリトルマザーを放り出すわけにはいくまい。
「子供〜? 違うもん。子供なのはジュンタの方なんだから」
リトルマザーは自分を子供扱いされたと思ったのか、子供みたいに頬を膨らましてジト目を向けている。
本当のことを言うわけにもいかず、ジュンタは笑みで誤魔化しつつリトルマザーの頭に手を置いた。
「ごめんごめん。別に子供扱いしてるわけじゃないから」
「………………これで子供扱いしてないって言うんだから、ジュンタは狡い」
むくれるリトルマザーの頭を、ジュンタは軽く撫でる。
すると彼女は複雑そうな顔で何かを呟いてから、気持ちよさそうに瞳を細めた。きっと尻尾があったなら、勢いよく振られていることだろう。高貴な猫というよりかは、寂しがりやで甘えん坊な犬のような感じである。
白い処女雪みたいな髪の毛は、とても手触りがいい。
いつまでも撫でていたい気持ちだったが、頭を撫でる行為は、唐突に響いた音で中止せざるが負えなくなってしまった。
茶室に響いた音は、鍵が開くガチャリという音だった。そしてそれは、茶室の扉から聞こえてきた。
(誰かが来た!?)
信じられない確率だ。ここは茶道部部長という肩書きを持つジュンタが、ようやく探し出した憩いの空間だ。人が来ることなど、滅多にないというのに……
一体誰がやってきたのかと考える前に、ジュンタは手を頭に乗せたままのリトルマザーを見る。
彼女の格好。やっぱり変わらない、全裸一歩手前。
(まずい! 行方不明者から一転、性犯罪者扱いされる!!)
脳裏に最悪の情景が浮かび上がる。
――行動は早かった。ジュンタはリトルマザーの身体を掴み、無理矢理抱き上げる。
彼女は悲鳴こそあげなかったが、驚いた様子で見てくる。何を考えたのか、頬を少し赤く染めて、仕方がないなぁ〜ジュンタは甘えん坊なんだからぁ〜、みたいなことを考えている表情をしている。
取りあえず大人しくはしてくれているようなので、茶室にあるタンスを開き、リトルマザーをそこへ放り込んだ。
備え付けの布団タンスには、一式の羽布団と座布団が入っている。
量はそれほど多くないので、幼い少女一人ぐらいなら十分入れられる。
「ジュ、ジュンタ、ダメだよ。気持ちは分からないでもないけど、わたしたちは親子なんだから」
「ゴメン、取りあえず呼ぶまでここで大人しくしていてくれ」
羽布団の上で恥ずかしそうに口元に手を寄せたリトルマザーに、ジュンタはそう言ってタンスの戸を閉めた。
(取りあえずは、これでオッケー)
危険な少女は取りあえず隠した。
行方不明になっている生徒が突然茶室にいることに驚かれるかもしれないが、これで今茶室の鍵を開けている誰かに通報される心配はない。後はその誰かに早々とお引き取り願って、リトルマザーを連れてどこかに逃げるだけである…………行動が犯罪者じみているのが、何か嫌だ。
茶室の戸がゆっくりと開いていくのを見ながら、ジュンタは畳の上で佇まいを正す。
相手が誰かは見当付かないが、取りあえず冷静そうな相手がいいなぁ〜と思っていると、戸が開いて、そこから誰かが現れようとして、
――――そして気が付けば、目の前にはリトルマザーの顔があった。
思わず叫びそうになったところに、リトルマザーの小さな手が塞ぎにくる。
その意外なほどの力強さと手の平の温かさに、悲鳴は外に出ることなく飲み込まれた。
目の前にはとても真剣そうなリトルマザーの顔。その顔が物語っていることは分かる。静かに、だ。
どうして茶室の真ん中に突っ立っていたはずの自分が、今はリトルマザーにタンスの中で押し倒されているのか……それはまったく分からないが、今は大人しくしていた方がいいと思い直し、ジュンタは身体から力を抜く。
一枚戸を挟んだ向こうからは、茶室にやってきた人間が何か話している声が聞こえてくる。
会話をしているところを見るに、人数は二人。両者とも男のようである。そして二人とも、どこかで聞いたことがあるような声をしていた。
絶対にどこかで聞いた覚えのある声なのだが、特定に至るまでは聞き取れない。
それも仕方がない。なぜなら今、一番鼓膜を震わしている音はリトルマザーの息づかいであるからだ。
リトルマザーの真剣な顔が目の前にあって、彼女の唇は耳の傍にあった。そのため、彼女の息づかいがダイレクトに聞こえてくる。
息が少し荒いのは息苦しいからか――リトルマザー一人なら十二分に入れる布団ダンスの中も、二人だとかなり狭い。
こっちは背中が羽布団だからいいが、リトルマザーの後ろは天井だ。しかも彼女が着ていた服はすでに身体からずり落ちていて、あれでは肌に直接当たって痛いだろう。
…………ジュンタは身じろいで視線を横に変えた。
状況を冷静に判断していった所為で、気付かなければよかったことまで気付いてしまった。この密着状態では、その視覚情報は致命的である。ただでさえ胸の辺りにやわやわとした感触があって顔が熱くなっているのだから、これ以上は本気でまずい。
「ジュンタ、どうかしたの?」
顔を背けたことを疑問に思ったのか、リトルマザーが小さな声で聞いてくる。
耳に囁く感じで言われたために、ジュンタは自分の身体が震えたのが分かった。
「な、何もないから、取りあえず今は黙ってような?」
「うん。それは別にいいんだけど……大丈夫? 顔、赤いよ?」
「だ、大丈夫ですっ」
優しいリトルマザーの声に、ジュンタは自分が情けなくなってきた。
一体自分は何をしてるんだろう、と、小一時間ぐらい説教したい気分である。
男というのはどうしてこうも獣なのか? いや、獣なのはそれが本質だからか。とにかく女なら誰でも良いのかとか、命を賭けてまで好きになった相手がいただろうとか、いやでも振られたし別にいいのではないか――――そんな感じで自問自答。自己嫌悪。
(俺は、最低だ…………)
純粋に心配してくれるリトルマザーに申し訳なくて、ジュンタは視線を絶対彼女の方に向けないことを決意した。が、その決意は向こうからの侵略によってすぐに崩れてしまう。
「ねぇ、本当に大丈夫? 熱いの? なんならその熱、わたしが冷ましてあげようか?」
耳元で再び囁かれた、甘く蠱惑的な声。
まるで声だけで暗示にかかったみたいに、いけないと分かっているのにジュンタはリトルマザーの方を向いてしまった。
そして気付く――
「どうする? いいよわたしは、ジュンタが望むなら、なんだってしてあげる」
――彼女は決して、純粋に自分の身を心配していたのではないのだ、と。
リトルマザーの声色は確かに優しい。しかしその表情は、酷く愉しそうで淫靡。とても幼い少女が浮かべている表情とは思えないほど、色気のある表情だ。間違いなく、こちらの内心を見抜いている。その上で、からかうように囁いているのだ。
自分の幼い身体をすり寄せるように寄せてきて、リトルマザーは耳元に息を吹きかけてくる。
「ほら、お母さんに言って。なんだって、お母さんが叶えてあげるんだから……」
「リトルマザー……」
初めて呼んだ彼女の名前は、彼女にとても似つかわしいようにジュンタには思えた。
母と呼ぶには子供っぽ過ぎる容姿だが、なぜか母親に近いのだと、そう思えた。しかし同時に、母親には持ち得ない色気も感じて…………小悪魔、といった感じだ。
「ふふっ、初めて名前で呼んでくれたね。ジュンタ、ご褒美あげる」
離れなきゃいけないのに、見てはいけないのに、まるで魅了の魔法にでもかかったように、身体が動いてくれない。
リトルマザーの顔が迫ってきて、その桃色の唇が近付いてきて、ジュンタは焦って、そして……
(ん? 魔法?)
その単語に思いを巡らせた瞬間、何かが壊れるように自分の中から熱が消えた。
「おわっ!」
熱が消え、冷静になったジュンタは慌ててリトルマザーの唇を手で押さえる。
ムガッ、と口を塞がれて、リトルマザーが驚いた様子を見せる。
リトルマザーの表情と一瞬で消えた自分の熱に、ジュンタは彼女が本当に魔法を使っていたことを悟った。
このリトルマザーという少女。使徒であるばかりが、どうやら魔法使いでもあるらしい。
(あ、侮れない奴……)
「むぅ〜、もう少しだったのに、解呪が早すぎるンだもん。ちぇっ」
リトルマザーの口から手を離すと、もう彼女はキスを迫ってこようとはしなかった。代わりにつまらなそうな顔をして、口を尖らせている。
いつの間にか茶室から来訪者二人がいなくなっていたことに気付き、二つの意味に胸を撫で下ろす。
しかし、本当に胸を撫で下ろした人間が他に存在していたことに、その理由に、ジュンタが気付くことはなかった。
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