第三話  観鞘市





 佐倉家は、高校から徒歩で約十五分程度歩いたところにある普通の一軒家だ。


 住宅街の一角にある、極々普通の二階建て。これといった特徴もなく、あくまでも普遍的な一軒家。秘密の地下室があったりとか、実は宇宙船に繋がっていたりとかはない。

 そんな我が家へと久方ぶりに帰ってきたジュンタは、懐かしい自室にて服を漁っていた。


「あ〜、着られそうな奴がないな、昔の服はほとんど処分しちゃったからなぁ」


「別にわたしはこのままでいいよ? 着心地悪くないし、いい匂いもするし」


 同じくジュンタの自室にいたリトルマザーが、自分の着ている学生服の上着の裾を摘む。表情を見るに、気をつかって言っている様子はない。本心のようだ。いや、本心ならいいかと言われれば、完璧にNGなのだが。


「いや、さすがにそれはこっちの身が持たない……学校から家まで来るのに、どれだけ神経をすり減らしたことか……」

 げっそりと疲れた様子のジュンタが、佐倉家へと戻ってきたのはつい先程のことだった。

 学校の茶室に潜んでいたジュンタとリトルマザーだが、茶室に来訪者が来るというアクシデントが発生したため、ここではまずいと場所の移動を行うことにしたのだが、 学校には茶室以上に隠れられる場所はなかったので、外に出るという危険を冒してまで自宅へ戻ることにしたのだ。

 時刻は生徒が登校する時間帯だったために、裏道を駆使して自宅まで移動。
 そのお陰で十五分の道を二倍近くかけてしまったが、幸運にもリトルマザーを誰かの目に晒すということなく自宅には辿り着けた。

 学生服で異世界に飛ばされたのが幸いして、制服の内ポケットにはまだ自宅やら部室やらの色々な鍵があったため、家に入ることは苦労しなかった。

今日は早番らしく――少し残念と思ったが――両親の姿は家にはなく、リトルマザーを見られずに自室まで来ることができた。

久しぶりの自室だが、まぁ、これと言って年中変化しない自室なので、懐かしい以上の感慨はまったく浮かばなかった。

――そして今現在、リトルマザーの服を探している最中、という感じになっている。

洋服タンスの中を漁ること十分。

しかしそこは男の部屋、リトルマザーの着られそうな服は見つからない。身長差も二十センチ以上あるため、何とか見つかった中学時代の服も着られそうにない。


(どうするかな…………いっそコートとかで全部隠すか?)

 と考えた瞬間――ジュンタの脳裏にサングラスにマスクにコートという、分かりやすい露出狂のイメージが浮かんでくる。

 

 絶対に止めようと、ジュンタが判断するのにそう長くはかからなかった。

「母さんの服でも借りるしかないかぁ――と」

「もー、わたしは別にこれで良いって言ってるんだから、さっさと出かけようよー」


 背中に急に重みを感じたために後ろを振り向くと、退屈に我慢できなくなったらしい、不満そうなリトルマザーの顔があった…………極至近距離に。

 

 ジュンタはリトルマザーの顔から距離を取りつつ、

「いや、だから、その格好はまずいんだって……というか、出かけるって何だ?」

「何って、出かけるって言ったら散策に決まってるじゃない。ジュンタは街を見て回りたいんでしょ? でもわたしがいるから中止した。わたしがいいって言うんだから、ジュンタも街を見て回ることに問題は無し。……そう言うことでしょ?」

真っ白い巨大犬のようにジュンタの背中にのしかかっているリトルマザーは、自信満々にそう言い放った。

確かにリトルマザーの問題さえ解決したなら、街に出るのもやぶさかではない。しかしその問題こそが服装の問題なので、まったく解決はしていない。


「……街に出るなら、なおのこと服はちゃんと着ないとダメなんだよ」


「え? どうして?」


「どうしてって、分かるだろ? 普通、裸に近い格好じゃ外になんか出ないんだから」

「?? わたしはいつも服なんて着ないけど?」


 なんでもないことのように言ったリトルマザーの一言に、ジュンタは彼女を育てた誰かを疑う。なんだろうか? ヌーディスト村の出身とでも言うのか? というか、異世界にもそんな場所あるのだろうか? もしそうじゃないなら、彼女を育てた人間は最低だろう。


「と、とにかく、その格好はダメ。裸もダメ。外に出たいなら、ちゃんとした格好をすること。それが出来なきゃ外へは行かない。これ決定」


「えー! そんなぁ〜…………でもジュンタがそう言うなら、分かった。あ、なら服はわたしに選ばせて欲しいな。ねぇ? それくらいはいいでしょ?」


「それは別に構わないけど……選ぶほど母さん服あるかなぁ?」

 服を着ることが不満なのか、リトルマザーは少し嫌そうな顔を見せる。それでもちゃんと言うことを聞いてくれる辺り、根は良い子なのだろう。ただ、一般常識が少し破綻しているだけで。

 彼女をこれまで育てた誰かに代わり、自分がしっかりと一般常識を教え込もうと決意しつつ、ジュンタはリトルマザーを母親の部屋に案内しようとする。しかし背から離れたリトルマザーが嬉々として向かったのは、ジュンタが今まで彼女の服を探していた洋服タンスだった。

 そこには着られる服はない――そうジュンタが言う前に、


「うん、これがいい。わたしこれにする!」


 リトルマザーは一着の服をさっさと選んでしまった。


 彼女が選んだのは、黒と赤のチェック柄のセーターだった。

確かジュンタが去年購入したはずの冬用の服である。春になってタンスの奥の方にしまっておいたはずなのだが、どうしてかすぐ手に取れる場所に置いてあったらしい。


 リトルマザーはそのセーターともう一つ、ジーンズを取り出してタンスを閉めてしまった。


「うおぃっ!」


 徐に着ていた服を脱ぎ始めるリトルマザー。彼女が選んだ服を着ようと
裸になる前に目を瞑り、そして頃合いを見てジュンタは目を開く。その頃には、すでに彼女は服を身につけていた。
 しかし着たのは去年のジュンタでぴったりのサイズ。セーターには埋もれたみたいに、ジーンズは手で押さえないとスポンと脱げ落ちてしまいそうな有様だ。

 完璧にサイズの合っていない服を着たリトルマザーに、ジュンタはやはりその服は無理と言うことを教えようとする。が、それと時を同じくして、信じがたい光景を目の辺りにすることになる。


 ――リトルマザーの着た服が突如縮み出したのである。

 何の前触れもなく、どんどんと服がサイズを小さくさせていって、そしてちょうどリトルマザーのサイズに合う大きさで縮小は止まった。


 リトルマザーはぴったりになった服を見て、嬉しそうに頬笑んだ。


「うん、良い感じ。フカフカでヌクヌクっ!」


 …………忘れていた。

そう言えばリトルマザーは魔法使いだったのだ。別に服のサイズを変えるくらい、彼女にとっては簡単なことなのだろう……今までの自分の苦労はなんだったのか?


(ほんと、色々と規格外な子みたいだな……)

 ――リトルマザー。

名前すら素直に名乗ることが出来ないと言う少女は、なんでも自分の命を救い、異世界から元の世界に戻してくれた恩人らしい。


 見た目はかわいらしい少女なのだが、その眼圧といい、行動といい、色々と普通じゃない。ミステリアスという言葉を越え、デンジャラスな少女と言えよう。

(……たぶん、命を救ってくれて、この世界に戻してくれたっていうのは本当のことなんだろうな)

 だからこそ突拍子もない話を信じられるのだが……彼女が何を考えてそうしたかは別として、そのことには感謝をしている。今自分がこうして生きていられるのは、間違いなく幸せなことなのだから。

 一頻り服の着心地を確かめたリトルマザーは、何か期待を込めた瞳を向けてくる。

 彼女が今何を望んでいるのか、ジュンタには簡単に分かった。


「街に行くか?」


「うんっ!」

 
 返ってきたは、満面の笑み。

 やはりリトルマザーは街を見て回りたかったようで、そのはしゃぎようは見ていて微笑ましいほど。勢いに任せて彼女は腰に抱きついてきて、少しだけドギマギとしてしまう。


「あ、でも一つ訊いて良い?」

 腰に抱きついたまま、リトルマザーが上目遣いに訊いてきた。


「何? 何か問題とかあるのか?」

「問題っていうほどじゃないけど、ジュンタの通っている高校。大体何時ぐらいに終わるの?」

 どうしてリトルマザーがそんなことを気にするのか、それは分からなかったが、なんだか酷く気にしている様子なので素直に教えてあげることにする。


「大体四時過ぎぐらいかな? 部活やってる奴やってない奴でかなり変わるけど」


「四時かぁ……なら、大丈夫かな…………」

「大丈夫? 何が?


「あ、ううん。別になんでもないよ。ほらっ、ジュンタ行こ! 時間は有り余ってるわけじゃないんだからっ!」


 リトルマザーは部屋を飛び出していく。
 
ジュンタも慌ててその後を追おうとしたが、その前にお金があった方がいいかと思い直し、机に向かう。


 机の引き出しを開けて、異世界に行く前、そこに入れておいた財布を持って行こうとする。

「あれ? 財布がない」


 だが、引き出しに財布が入っていなかったため、それは急遽断念せざるが負えなくなった。


 仕方ないので、財布に入れない分のお金が入った封筒の方を手にとり、それを二つに折りたたんでポケットにしまう。

「ジュンター! 早くー!!」


 一階からリトルマザーの催促の声が響く。
 ジュンタは急いで一階に向かおうとし、その前に、気になっていた今日の日付を確認した。


 十二月十二日・土曜日――異世界に行ったあの秋の日から、二ヶ月が経っていた。






◇◆◇







 土曜日ということなので、観鞘市の街中は比較的賑やかだった。

 朝ということで店こそほとんど開いてないが、時折開いているファーストフード店や、それら店々が続くアーケードを抜けた先の公園では屋台が開かれていた。
 ここは市内の高校の通学路として、かなり朝から人が溢れかえっているため、休日になれば屋台を出しているところも多い。もっとも、通学時間を外れた今の時間では、学生の姿はほとんどないが。


 リトルマザーと出かけたまではいいが、ジュンタに特に行くあてなどなかった。

 喜んで出かけたリトルマザーにも特に行きたい場所はないらしく、二人は結局、のんびりとアーケードを歩いた後公園に行くというルートを取ることとなった。


 そうして最終目的地となった公園――観鞘中央自然公園。


 市内最大と謳っている公園なのだが、異世界で見た公園に比べると遥かに見劣りする。

 遊歩道に植えられた花壇に、春には桜が咲き誇る並木道。噴水は申し訳程度の大きさであり、ベンチはあっても休憩所の数はかなり少ない。

そもそも市内最大と言っても、観鞘市には公園というものが少ないため、その広さは大体にして百平方メートルもない。異世界出身のリトルマザーからすれば、感嘆など出来るはずもない公園である。

 だけど、それでもベンチに座ったリトルマザーの顔は、とてもいい笑顔を浮かべていた。


「このクレープっていうの、とってもおいしいね!」


 ……それは自然公園に来たからというわけじゃなく、その小さな手が持っているクレープのお陰なのではあるが。

 チョコバナナというオーソドックスなクレープを食べている彼女は、酷く幸せそうな顔をしている。そしてそれはジュンタも同じだった。


「ここのクレープを食べるのも久しぶりだな」


 久しぶりに食べる屋台のクレープの味に、ジュンタは感動をしてしまっていた。

 ランカの街に滞在している間、甘味というものをほとんど口にしていなかったのだ。それは甘党のジュンタにとっては、かなりの苦痛だった。

 それに異世界で食べた甘味と言えば、ジャムを付けたスコーンなどで、確かに自然の味付けでおいしいものばかりだったが、技巧を凝らしたケーキなどはついぞ食べることが叶わなかった。

 久しぶりに、チョコと生クリームが乱雑に組み合わさったクレープに、ジュンタは「ああ、これが故郷の味か」と呟きつつ感動する。

 それほど大きくないクレープを小さな口で食べるリトルマザーにスピードを合わせ、五分以上かけて食べ終えたジュンタは、軽く息を吐きつつ彼女の隣に腰を下ろす。


「ジュンタ、疲れちゃった?」


「ん? ああ、大丈夫だよ。まだ一時間も歩いてないし」


 家からのんびりと久しぶりの故郷の街を見歩いて、まだ一時間も経っていない。


 歩いて街全部を見て回るのは一日作業になってしまうが、ジュンタの行動範囲を重点的に散策するとなると、これぐらいの時間で終わってしまった。
高校生の身なので、時折遠出はするが基本的に見て回る範囲は常に決まっている。

「リトルマザーの方は疲れていないか?」


「わたし? うん、大丈夫だよ。これでもわたし体力ある方だから」


 えっへん、どうだ、と言わんばかりに胸を張るリトルマザーは、とてもじゃないが体力がありそうには見えない。だが、人は見かけによらないのだ。その小さな身体は、ジュンタの数倍の体力を捻り出すことだろう。


(まぁ、寒さとかにも強いようだしな)


 リトルマザーの格好は、この冬の寒空の下では薄着と言えた。

身に着けているものはセーターとジーンズだけ。他には何一つ、それこそ下着だって着けていない。


 それでも寒さなんて何のそので、街中にある物のことを質問してきた彼女は、未だ元気いっぱいのようだった。


「ねぇ、ジュンタの世界っておもしろいね」

「そうか? う〜ん、ずっと暮らしていた俺からすると、異世界の方がおもしろいって感じだったんだけどな」


 ここまで来る間、街並を見ていると感慨を覚えたように、リトルマザーは新鮮さを覚えたのだろう。こうして一緒にベンチに座っていると忘れそうだが、彼女は剣と魔法が支配する世界出身なのだ。科学が支配するこの世界は、目新しい物ばかりに決まっている。

 …………そう、彼女は異世界人なのである。
 ジュンタを助けられるほどに、元の世界に戻せるほどの力を持った、魔法使いの使徒なのだ。


 こうしてはしゃいでいる様子を見た限りではそんな風には見えないが、学校の茶室――あの時一瞬見せた彼女を目の輝きは、並大抵ではなかった。

(ほんと、この子は何のために俺を助けてくれたんだろうな)


 今も自分の腕を取り、楽しそうに頬笑んでいる純白の少女
の目的がまったく掴めない。

 何かしらの目的を持って自分を助けたと最初は思っていたが、彼女は素直に言うことを聞いてくれるし、こうして街を歩くことを純粋に楽しんでいる様子である。敵意なんてまったくないし、むしろ好意としか思えない微笑みを終始浮かべていた。

 ジュンタには本当は彼女が何をしたいのか……それがさっぱりだった。


「……なぁ、リトルマザー?」


「ん、なぁに?」

 見上げるようにこちらを見る彼女は、どうしようもなく幸せそう。まるで、こうしていることが彼女の目的だと勘違いしてしまうほどに。


 それを無粋な質問で壊すのははばかられた。だからジュンタは言葉を濁し、


「いや、なんでもない。甘い物食べて喉渇いていないか? なんならジュースでも買ってくるけど?」


「ジュース? 喉は別に渇いてないけど……実はわたし気になる飲み物があったりして」


「気になる飲み物?」


「うん。あのね、わたし飲んだことがないから一度飲んでみたいと思ってたの。あの『炭酸飲料』っていうの」

「炭酸か……確かに異世界にはなかったな」

 向こうにあったジュースと言えば果汁系オンリーだった。こちらの世界にあるような炭酸飲料は、向こうの世界ではまだ発明されていないのか、それとも好まれていないかのどちらかだろう。


「よしっ、じゃあ、適当に買ってくるからここで待っててくれ」


「わ〜い! ありがと。それじゃあよろしくねー!」


 ジュンタはベンチから立ち上がって、自販機を探して歩き出す。でも、よく来ていた場所なので、実際には自販機のある場所は既知していた。

 自然の中にポツンとある自販機の方まで三十秒ほど歩いて行き、ジュンタは小銭を入れてから何を買おうかを悩む。


「…………比較的甘い物の方がいいか」


 初めての炭酸体験なら、恐らく微炭酸の方がいいだろうとジュンタは判断し、果汁系の炭酸飲料を買おうとボタンに指を伸ばす。


 しかし目的のボタンを押す前に、なぜか他のボタンが押されてしまう。

 それはいきなり後ろから伸びてきた太い指が、勝手に目的とは違うボタンを押したからであった。

 ガコンと取り出し口に落ちてくるジュース。


 ジュンタは人がジュースを買っているのに、横やりして勝手に選ぶ……そんなことをする輩がまともな奴じゃないと知っていたので、振り向きたくはなかったが、そうも言っていられないので背後を振り向いた。

 背後には案の定、見るからにまともそうじゃない大男が立っていた。

 鼻にピアスをした、どこをどう見ても不良という言葉にしか行き着かない相手である。


「よう、佐倉。一日ぶりだな」


 ニヤリと笑って、そう凄んできた鼻ピアス。怖くはないが、ジュンタは違う意味で怖かった。


「…………申し訳ありませんが、人違いじゃないですか?」

 それはジュンタが彼を見たことがなかったからだ。


 見知らぬ相手から見知ったように扱われる……それは結構怖いことなのである。相手がかわいらしい白銀の髪の少女ならともかく、こういった手合いの場合は特に。


 ただそれは口にしてはいけないことだったのだろう。知らない相手に対する受け答えを取ると、あからさまに鼻ピアスは禿頭に青筋を浮かべた。


「ほほぅ? お前この俺の顔を忘れたと、そう言うのか?」


「忘れたというか、会ったことないはずなんですけど…………たぶん」


「忘れた? マジで忘れただと? この俺を? ピアス団のリーダーであるこの俺を?」


 鼻ピアスはジュンタの一言に傷ついた様子を見せる。
 

 百九十センチ近い大男が落ち込む姿は、どこをどう見てもうっとうしい。顔が普通に怖いから、哀愁感ただよう姿は異様でしかない。

「……あ〜、よく分からないけど、あんまり落ち込まないで欲しいんだけど」

 ただ、目の前で落ち込まれるというのもなんだか居心地が悪いので、ジュンタは軽く慰めようと手を伸ばす。しかしその手は彼の野太い手によって、にべもなく振り払われてしまった。


「情けはいらねぇ。確かに俺はお前らみたいな奴らからすれば、そこらの路傍の石ころだよ。溶けかけている綿雪だよ。綿菓子だよ」


「はぁ……まったく意味は分からないんだけど、取りあえずそうですかと同意しておきます」


「誰が綿菓子だコラァ!!」

「逆ギレっ?!」


 ああ、もうなんだこの人と言った感じで、ジュンタは突如殴りかかってきた鼻ピアスの拳を避ける。何の技術もない大降りの一撃を避けるぐらい、いきなりでも特に問題はない。


 ちっ、と避けられたことに舌打ちした鼻ピアスは、もう敵意を隠さずに近付いて来る。

 ジュンタの方は自分が恨まれる覚えがまったくないので困惑の表情だが、これまでの経験から自分が厄介ごとに巻き込まれたことは悟っていた。


「佐倉ぁ、俺はな、確かに宮田には負けたよ」


「サネアツに?」


 鼻ピアスの口から出た幼なじみの名字に、ジュンタは眉を顰める。


「そうだ。宮田実篤だ。
確かに俺はあいつには負けた。ピアス団も解散しちまったよ。だけどな、俺はお前に負けたなんて思っちゃいねぇ。お前よりも格下なんてこの鼻ピアスに誓って認めらんねぇ!」


「悪い。俺に分かる言語でしゃべってくれないか?」


 ピアス語が理解できないジュンタがそう言うと、鼻ピアスは律儀に腕を組んで考え出した。


「……簡単に言うと、取りあえずお前はぶっ潰す。そういうことになる」


「うわぁ〜すっごい分かりやすい〜」


 そして勘弁願いたいとジュンタはその場から逃走するルートを考える。

 相手は鈍足のようだから、このまま後ろに向かって走れば逃げられるだろうと判断。さっさと逃げようと向きを変えたところに、嘲笑と共に鼻ピアスが言葉を投げかけてきた。


「いいのか、佐倉? 逃げたりなんかして。そんなことしたら、学校まで休んで遊んであげてるかわいこちゃんがどうなるか………分かってるだろうなぁ?」


 その言葉を背中に受けて、ジュンタは動きを完全に止めた。

 鼻ピアスの言葉の意味をしっかりと噛み締め、眼鏡の下の目を細めて振り向く。


「待て、お前まさか――

 リトルマザーに何かしたのか? ――と、ジュンタが問い掛ける前に、フライング気味に鼻ピアスは笑って言った。

「そうさ! 俺はロリコンだ!!」


「………………………………と、取りあえずリトルマザーは無事なんだな?」


 ちょっと人としてどうかと思うカミングアウトに後退りつつ、ジュンタはその一点だけを気にすることにした。


 鼻ピアスが大仰に腕を振り上げ、鳴りもしない指を擦り合わせる。

 ヘビュン、という空しい音が無駄に力だけはあるから公園内に響き渡った。


 恥ずかしそうに頬を染める鼻ピアスの元へと、その合図を聞いた三人の男たちが近くの茂みから姿を現す。

 そして彼らの傍らには、


「あ、ジュンタ。この人たちジュンタのお友達って言ってたけど、本当? 取りあえず本当だったら不作法だから付いてきたんだけど?」


 三人の男たちに囲まれるように、純白の髪が美しいリトルマザーが立っていた。


 彼女は自分が人質になっていることに気付いていないようで、とてものんきそうにしている。周りを取り囲んでいる男たちは、それぞれ顔にピアスを付けた分かりやすい――小悪党っぽい――不良なのだが、一切怖がっていない。


「佐倉、これで逃げられないって分かっただろ?」


 自分たちの元へとやってきた子分たちを見て、鼻ピアスは勝ち誇った笑みを浮かべる。


「お前、なんてことを……」


 ジュンタにはそれしか言える言葉がなかった。


 どうして自分が鼻ピアスに狙われているのかは知らない……いや、そもそも理由なんてないのかもしれないが、喧嘩を売られ、そしてリトルマザーを人質にしている。この状況を見ては、動揺せずにはいられない。


 こっちの態度を見て鼻ピアス御一行は笑っているが、それはまったく気にならない。
 
むしろその笑い声はジュンタには空しく聞こえた。なんて悲しい声なんだろうと……これから先の未来を予測して思ったのだ。

 ――視線の先、人質になったリトルマザーの表情が急速に冷めたものになっていくのを見て。

 無邪気な少女であるリトルマザーだが、知能面で言えば自分よりも遥かに聡いように感じられた。
そんな彼女が嘘を吹き込まれ、人質になったことを理解するのに、そう時間がかかるはずがない。


(なんてことしてくれたんだ。リトルマザーを怒らせたら、死ぬぞこいつらっ)


 ジュンタが心配していたのはリトルマザーではなく、彼女のご機嫌を損ねる真似をしてしまった不良たちの方だった。


 過程に覚えはないが、リトルマザーは自分のことを大事な人を見るように見てくれている。そしてリトルマザーは恐らく、大事な人を傷つけられたりすることが大嫌いなタイプだ。


 よってこうなることは、ジュンタには簡単に想像付いていた。


――――そう、分かった。つまりあなたたちはジュンタの敵なのね?」



 ぞっとするような冷たい声。
一切の温かみのない、絶対零度の無邪気な囁き。

 視線の先、リトルマザーが無表情で周りの不良たちに視線を向けていた。その視線の恐ろしいこと。学校で一瞬見せた、あの視線よりも恐ろしい。

 不良たちは一瞬で嘲笑を止め、心臓麻痺でも起こしたようにガクガクと痙攣し出す。
 それでもあまりの圧力に膝を折ることすら出来ずに、立ったまま口から泡を吹いていた。

 もう、彼らとて気付いていることだろう。リトルマザーが、彼らが相手にしたと言う宮田実篤よりも、遙かに危険な人物であると。


 直接リトルマザーに殺意を向けられたわけじゃないジュンタにも、場の空気の冷たさは嫌でも伝わってきた。

 肌には鳥肌が立ち、呼吸が著しく乱れる。

 直接向けられたわけじゃない自分でもこうなのだ。直接殺意を向けられた不良たちは、恐らく虫の息だろう。今この時点で死んでいないことが奇跡とすら思える。


「…………ねぇ、どうやって死ぬ?」

 いや死んでいないのは決して奇跡ではなかった。

 リトルマザーがそうなるよう調節しているのだ。決して殺さず、そのギリギリ手前で苦しむように。


 リトルマザーは死神の如き冷たさで不良たちに訊いたが、そんなもの、もう彼らには聞こえていない。

 ガクガクと痙攣して白目を剥いている彼らは廃人一歩手前。

 このままでは本当に死んでしまうと、ジュンタは喉から声を絞り出すようにして言った。


「止めろ……リトルマザー、止めろ。殺しちゃいけない」


「え――?」


 威圧感を拭い去って、必死に絞り出した声は、確かにリトルマザーに届いたようだった。

 場を満たしていた重圧が一瞬にして解け、リトルマザーはきょとんとした顔でジュンタへと振り向く。その表情には、どうして止めるの? という疑問がありありと浮かんでいた。


 ジュンタはそんなリトルマザーの顔を見て確信する。自分が止めていなければ、彼女は本気で不良たちを殺すつもりだったのだ、と。


「どうして? こいつらジュンタを害しようとしたんだよ? 殺すのなんて、当たり前でしょ? どうしてダメなの?」

「本気でそれ言ってるのか?」


「本気もなにも、常識じゃない。敵は殺す、味方は生かす……ジュンタはそうじゃないの?」


 そのリトルマザーのあまりにも穿った極論に、ジュンタは頭を痛ませながら答える。


「……違う。俺は敵だとしても殺せない。殺しなんて、出来るはずがない」


「それじゃあ、敵に味方がやられちゃうじゃない。敵を殺せなかったから、味方が死んじゃった……そっちの方が到底許せないことだとわたしは思うけどな。

 ――うん。でもジュンタがそう言うなら、こいつらは殺さないね。どうせそこいらの小石程度の害しか持ってないし、捨て置いても何の問題もないし」

 リトルマザーはやはりこっちの言葉に納得できていないようだったが、それでも不良たちを殺すことは止めてくれた。

 彼女の重圧から解放された不良たちは、そのまま立ったまま気絶していたが、吹く風に一人、また一人と地面に倒れていく。それを見てジュンタは彼らが無事であることを祈った…………トラウマは避けられないだろうが。

 リトルマザーはジュンタの方へと悠々と歩いてくると、そのまま近くの自販機に興味を示した。その頭からはもう、不良たちのことなんて忘れ去られてしまっているようだ。


 呆れるジュンタの目の前で、リトルマザーは自販機の一つのジュースを指差し、満面の笑顔で言った。

「わたし、この炭酸がいい。赤いの!」







       ◇◆◇







 喫茶シルフィー。

この一軒の喫茶店は、シックな高級感ある装いが人気の、アーケード内にある喫茶店であり、そして佐倉純太がアルバイトをしている店だった。


 昼前。公園から歩いてアーケードに戻ってきたジュンタは、開店の看板が出ていたシルフィーの前を通り、足を止めた。


「この店がどうかしたの?」

「あ、いや……」

 問うてくるリトルマザーに対し、ジュンタは少し考える素振りを見せる。


 内心でジュンタは、アルバイト先を前にして色々なことを考えていた。

 異世界から戻ったと思ったら、この世界では二ヶ月の時が経っていた。その間、恐らく自分は行方不明扱いにされているはずだ。必然的に、アルバイト先のシルフィーにも失踪の連絡はいっているはずである。


 シルフィーを営んでいるのは初老の男性マスターだ。


 人の良い、紳士的な男性である。

 アルバイト初挑戦だった自分を優しく指導してくれ、色々なことを教えてくれた良き店長である彼は、まず間違いなく失踪したと聞いて心配してくれているだろう。


 その心配を早めに晴らしておきたいとジュンタが思うのは、まぁ、当然のことだった。

 自分のことを不思議そうに見てくるリトルマザーに対し、ジュンタは罰が悪そうに言う。


「悪い。この店に寄っても良いか?」


「うん。別にわたしは良いけど……ここ食事するところだよね? ランチをここで食べるの?」


「ん? ああ、確かに時間も時間だし、それもいいかもな」


 リトルマザーのその言葉で、初めて今の時刻が昼食を食べてもいい頃合いだと、ジュンタは気付く。

 昼食には少しばかり時間は早いが、十分許容範囲だろう。半日歩いた所為で、ジュンタもお腹は減っていた。


「じゃあ、ここでお昼食べるか? 軽食しかないけど、一工夫されていてかなりおいしいぞ。特に紅茶とコーヒー、デザート類は感激するぐらいうまい」


「わぁ〜、わたし紅茶大好き! さっきの黒い炭酸飲料も中々だったけど、やっぱりおいしい紅茶には負けるわ。――ねぇ、早く入ろ!」

 異世界でも紅茶を愛飲する状況で育ったのか、リトルマザーは紅茶という一言に目を輝かせて腕を引っ張ってくる。

 自分を引っ張る方と反対の手で店の入り口の扉を開き、彼女は勢いよく店に入っていく。


「ちょ、と、おわっ、危ないから!」


 ジュンタも引っ張られる強さにバランスを崩しつつ、店の中に入る。


 外とは違ってしっかりと暖房が効いた店内はとても温かい。

 鼻をくすぐるのは紅茶とコーヒーの匂い。聞こえてくるのは古いレコードのシックな音楽。


「いらっしゃいま――おや、純太君じゃないか? 久しぶり。でも、ごめんね、今日のヘルプは大丈…………と、かわいらしいお嬢さんと一緒ということは、なるほど、今はお客さんかい?」

 そして店内から人の良さそうな初老のマスターが現れ、ニコリと笑ってジュンタとリトルマザーを出迎えてくれた。

「ご無沙汰してます、マスター」


 ジュンタは店長に頭を下げる。それを見て、リトルマザーがくいっとジュンタの服の裾を引っ張った。


「ジュンタ、この人と知り合いなの?」


「ああ、ここはアルバイト先なんだ」


 ジュンタはリトルマザーの質問に、何かを考えることなく即答を返した。


 ――変化は一瞬だった。

 リトルマザーの表情が強ばり、見るからに挙動不審になる。

視線をジュンタとマスターに交互にやり、「紅茶が……」「でも……」なんて呟きつつ悩み始める。


「おや、純太君。お嬢さんはどうしてしまったんだい?」


 リトルマザーの態度に疑問を持ったのはマスターも同じだったようで、そう尋ねられた。しかし尋ねられても、ジュンタにもリトルマザーの突然の変化の理由が分からなかった。

「リトルマザー、どうかしたのか? 様子が変だけど?」


「えっ? べ、別になんでもないっ! 何言ってるのよ、もうっ!」

「いや、そうは見えないんだけど……」

 蛇を前にした蛙だって、きっと今のリトルマザーよりまともな強がりを見せることができるだろう。それほどまでに、リトルマザーの狼狽ぶりは酷い。

 ジュンタはリトルマザーの態度に疑問を持ち、それから視線をマスターへと向ける。


 そし彼にも同じように、少しの疑問を抱いた。


(……少しおかしくないか? いくらマスター冷静な人でも、久しぶりに会ったのにまったく普通だ)

 ジュンタの過ごした時間では違うが、マスターから見たら自分とは二ヶ月ぶりの再会のはずだ。それなのにマスターは極々普通に自分を出迎え、失踪のことを訊く前に連れの少女のことを気にした。

(それに……マスターはなんて言った? 久しぶりってのはいい。でも、今日のヘルプは大丈夫って、そう言おうとしなかったか?)

 それに加え、先程出迎えてくれた時のマスターの一言――それがどうしようもなく、寒気がするほどにジュンタには気になっていた。

「か、帰ろうっ!」

 ジュンタがさらなる疑問へと陥りそうになったのを、強制的にストップさせたのは、突如大声を上げたリトルマザーだった。


「何言ってるんだ? まだ来たばっかりで、それにここで昼食を――


「止める! わたし、なんだか急に紅茶を飲みたくなくなったの! だから帰る! そういうことですからバトラー、申し訳ありませんがこれでお暇させていただきます」

 リトルマザーは少し驚いたようなマスターに礼儀正しくあいさつをした後、ジュンタの手を引いて店を出た。

「ちょ、リトルマザー!」

「それでは、またのご来店をお待ちしております」

 そしてそのまま再び強引に、ジュンタはリトルマザーに引っ張られ始めた。

「ど、どうしたんだよ、いきなり? 何か店に気に入らないことでもあったのか?」


「違うわ。あの店の雰囲気や音楽は好みだし、紅茶もおいしそうだとは思ったけど、あそこはダメ。ランチは他の場所にしないとダメなのっ」

 いきなり店を出た理由を求めても、リトルマザーは引っ張り続けるばかり。

(なんなんだ一体? 何があったんだ?)


 ジュンタは訝しく思いつつも、リトルマザーの腕力に逆らえず、なすがままに引っ張られ続けるのだった。








 実篤は土曜日であるため、午前中で終わった学校を後にし、親友のアルバイト先である喫茶店へと来ていた。


 親友である少年、佐倉純太は目の前の喫茶店――シルフィーでアルバイトをしている。


 別にお金が必要だとかそういうことではなく、ただ純粋に楽しいから働いているようである。確かに実篤も、シルフィーの雰囲気は居心地がいいと思っていた。

「じゃあ、俺はマスターにヘルプ頼まれてるから。またな実篤」


「ああ、また明日だ」

 喫茶店の入り口の戸に手かけた純太は、別れのあいさつを口にする。


 実篤はアルバイトをしていないためにこのまま帰宅する予定なので、純太とはここでさよならなのである。家が隣同士のため、夜にでも会おうと思えば会えるのだが……取りあえずまた明日と、実篤はあいさつを返して歩き出す。

 すぐにマスターと会った純太が、何かしら話をしているのがガラス越しに実篤には見えた。

何か不思議なことでも言われたのか、純太は首を傾げている。

 しかし話はすぐ終わったようで、純太はマスターと一緒に店の奥へと入っていってしまった。
 ここ最近不良たちとの争いに巻き込まれていたため、純太にとっては久しぶりのアルバイトになる。きっと張りきっているに違いない。


(俺もアルバイトをすることを考慮してみるか……)


 親友の姿があまりに楽しそうなので、実篤はそう考えた。

来年は三年生――卒業後の進路を本気で考えないといけない学年である。アルバイトをするなら、今しかチャンスはないだろう。

これは本気で考えてみるかと思いつつ、実篤は自宅へと向かって歩き始める。

実篤の自宅はアーケードを越えて、いくらか行った先にある。まっすぐに、ずっと続く道をこのまま突き進めばすぐに着く。

「ん?」


 純太がアルバイトしているところを想像しつつ歩いていた実篤は、ふと信じがたいものを目にして足を止めた。

おや? と言った表情で実篤は後ろ――喫茶店シルフィーを見る。それから首を傾げ、視線を前に戻す…………やはり信じがたい光景が広がっていた。

(おかしい。純太は先程シルフィーの中に入っていったはずだが?)


 そう疑問を持ったように、視界の中にはどうしてか、先程別れたはずの黒髪の後ろ姿――佐倉純太の姿があった。

 自分と同じ高校の制服に、茶色のコート。
 
髪の色は黒で、耳の後ろに黒縁眼鏡が僅かに見えている。

 長年幼なじみをやっていた実篤が見間違えるはずもない。目の前五十メートルほどのところにいるのは、間違いなく佐倉純太その人だった。


 だから解せない。彼とは先程別れたはずで、目の前にいるはずがないのだ。

 実篤はなおも首を傾げながら、取りあえず純太へと歩み寄ることにした。

 気になるなら聞いてみればいい。相手は長年一緒に過ごした親友で、疑問をぶつけるのに遠慮することなどないのだから。

 そう考えて実篤は近付いていく。


 純太はこちらに気付いた様子はなく、隣にいる誰かに笑顔で話しかけていた。隣にいる誰かは、昼飯時で賑わってきた通行人に隠れ、確認することは叶わない。

 隠れてしまうということで身長は低く、純太の態度が子供に接するようであるから、恐らく相手は子供に違いない。他の特徴としては、髪がかなり長く、その色が白銀の色をしていること……


(いや、待て? 白だと……?)

 その時、実篤は嫌な予感をビビッと感じた。


 喜ばしいことかよく分からないが、こういう時の自分の嫌な予感は当たる。幼なじみに関する嫌な予感は、外れることの方が珍しいのだ。


 毎回例外であることを祈り、そして裏切られるという結果を繰り返してきた。

そしてそれは今度も同じだった…………史上最低クラスの嫌な予感であったというのに。

 実篤の視界に、佐倉純太と話していた同行者の姿が露わになる。そしてそれは悪い予感として考えた人物に、完全に合致していた。


「……どうしてお前が純太と一緒にいる? リトルマザー」

 純白の少女の姿を視認して、実篤は一目散に駆け寄る。









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