第七話  行ってきます





 まだ薄暗い早朝の空に輝く、ぼんやりとした薄い月――佐倉純太は目を覚まし、カーテンを開けたところでそんな月を見た。


 限りなく真ん丸に近い、もしかしたら本当に真ん丸かもしれない月を見上げ、あくび混じりに呟く。


「今日は満月だったっけか……」

 暖房がかかっていない部屋は寒く、純太はベッドに名残惜しさを感じつつも、一階に降りようと部屋の取っ手に手をかける。下に降りてみると、今日は早めに帰って来られる代わりに朝は早いらしく、すでに両親の姿はなかった。


『行ってきます』と丸っこい字で書かれた手紙と、朝食がテーブルの上に用意してあり、リビングはちょうどいい案配に暖められている。

 純太は手紙を折り曲げ、「いってらっしゃい」と呟いたあと、ゴミ箱に放る。

そしてそのまま朝食を食べようとして…………そのまま、前のめりになって床に倒れた。


 何の前触れもなく倒れた純太。その背後の空間が揺らめき、白銀の少女――リトルマザーが姿を現す。


 リトルマザーはトンと軽やかに床に降り立ち、そのまま純太の身体に触れる。

 空間が再び揺らめき、その次の瞬間には、リトルマザーと純太の姿はリビングからいなくなっていた。







 朝のホームルームが始まり、担任教師が諸連絡を述べていく。

『最近、校内に他校の生徒が侵入している』とか『市内の不良グループが争っている』とか、そんな殺伐としたニュースが初老の担任教師の口から出てくる。


「あーこれで、朝のホームルームを終わる。級長」


「起立――礼」


 級長の声にあわせ、全員が立ち上がって一礼。
 その後は着席する者、クラスメイトの机へと行く者と様々である。

 その中、先程の諸連絡に色々と思うところがあるジュンタは、う〜むと唸りながら前席の実篤の肩に手を置く。


「実篤、なんださっきの連絡は?」


「いやはや、我らが観鞘市も色々と物騒になったなぁ」

「いや、それだけでもう分かった」


 ハハハッと軽快に笑う実篤に、ジュンタは手を額に当て、机に突っ伏す。


「……こっちの世界に残る俺の先が思いやられる」


 ジュンタはもう一人の自分に対し、憐憫と同情の感情を向けた。


(折角学校に来たのに、まったく実篤は……ん? いや、俺の日常ってこんなもんだった気がする)


 軽く溜息を吐いてジュンタは頭を起こし、自分の人生に一抹の不安を過ぎらせる。これまでの人生、自分はこんな殺伐とした世界に生きていただろうか、と。

 季節が移り変わったクラスでは、ジュンタの知らない話題が交わされている。

その会話の代表格が、最近市内で起きている不良グループ同士の抗争らしい…………そしてその抗争の話題の中に、なぜかちらほらと自分と実篤の名前が挙がっている。一体、この二ヶ月で何があったんだろうと、ジュンタは実篤を胡乱な瞳で見た。

(改めてこうして学校にやってきて、初めて気付くなんて……)

 のんびりと朝のホームルームを過ごしたジュンタは、もう一人の自分――この世界に残る佐倉純太の方のことを少し考える。


 本来こうして学校に通うのは、こちらの世界でずっと暮らしていた佐倉純太の方なのだが、今日だけは自分が学校に登校して来ていた。

 なぜなら今日、自分はこの世界からおさらばするからである。

 その前にやりたいことの一つや二つはあるわけで、心残りを残さないためにも一日ほど佐倉純太と役割を変わって貰ったのである…………強制的に。

 現在、この世界の佐倉純太の方は、実篤の自室で睡眠中。 

 彼はリトルマザーの魔法により眠らされており、明日まで目を覚ますことがないらしい。しかも今日という日の記憶を偽造するというのだから、芸が細かい、というか恐ろしい。

 実篤の部屋に残り、眠っている佐倉純太相手に色々と研究しようとしていたリトルマザーの良い笑顔が、ジュンタにはとても忘れられなかった。まぁ、そんな風になっている生贄が自分じゃないが自分なので、特に助けようとは思わないが。

 ジュンタに出来ることと言ったら、今何かしらのことをされている彼に報いるため、今日という一日を有意義に過ごすことだけである。


 そう自分に言い聞かし、ジュンタは鞄の中から授業に必要な教科書を引っ張り出す。


 元々ジュンタは佐倉純太だから、誰かに気付かれるようなことはない。唯一の違いである変色してしまった金色の瞳も、今は黒いカラーコンタクトで隠しているため問題はない。


 しばらくして、一時限目の教師がやってきて授業が始まる。

 何気ないことだが、こうして教室で待っていれば授業が始まるということに感動を覚えるジュンタだった。が、それはすぐに悲壮な笑みへと転じる。


 ――授業、分かりません。


 進学校で二ヶ月間の授業の放棄は、授業に付いていけないなんてレベルじゃない、授業が分からないレベルにまで達していた。

 一応この世界の自分が書き残したノートはあるが、さすがに二ヶ月分の復習をするとなると圧倒的に時間が足りない。

取りあえずジュンタは授業を受けることだけを良しとし、分からないなりに板書だけはしっかりとやり、そのまま午前中の授業を終えることになった。

黒板に書かれたことを全て書き移したノートを閉じ、ジュンタは教科書と一緒に机の中にしまう。


 同じことを前の席でしていた実篤が振り返って、


「ジュンタ、昼食はどうする? 食堂に行くか? それとも購買で買ってどこかで食べるか?」


 いつものように昼食のことを聞いてきた。

 朝、この世界の佐倉純太を気絶させたりと、色々していたので弁当の用意はしていない。

そも、ジュンタが弁当を持って来ることなど滅多にないこと。基本的に昼食は、学校の購買でパンを買うか、食堂で食べるのが常だった。

「ん〜、じゃあ食堂に行くかな」

「了解。では早速行こう。早く行かなければ席がなくなってしまう」


 予定が決まれば早いもので、ジュンタと実篤は教室を飛び出し、食堂へと向かう。


 二人が食堂に着いた頃にはすでに食堂は多くの生徒で賑わっていた。

四時限目の授業が少し長引いたことが原因で、席はもうほとんど空いていないようだった。

「ジュンタは席の確保を頼む。飯は俺が獲得して来よう。何がいい?」


「じゃあ、A定食で」


「了解した」


 この食堂の状態では一分一秒を争うことは想像に容易い。

 

 機敏な動きで食券を買いに行った実篤を見送り、ジュンタはその場からキョロキョロと食堂内を見渡して、どこかに席が空いていないか探す。

 ジュンタの高校の食堂は、私立だからかそれなりにメニューも豊富で、おいしいと評判だ。そのため食堂で昼食を取る生徒は多い。長机が四つ並べられ、百人近くが同時に食べられるぐらい広いのだが、軽く見渡したところ、やはり席は空いていないように見える。


(どうするかな……)

 一つ空いている場所はいくつかあるが、二つとなるとどうやらなさそうである。

 

 仕方がない。隣に詰めて貰うように頼むしかないか、とジュンタが考えたとき、


「あ、あの、佐倉先輩っ!」


 聞き覚えのない声で名前を呼ばれた。


 ジュンタが声のした方を向くと、そこには見知らぬ二人の女生徒の姿があった。

 もじもじと赤くなっている女の子と、その女の子の肩を軽く叩き、何かを耳元で囁いている女の子の二人組だ。両者とも、リボンの色を見るに一つ下の学年だろう。


「俺に何か用?」


 見知らぬ下級生から話しかけられたことを訝しげに思いつつも、取りあえず用件を訊いてみる。すると内向的な様子の女の子の方が、顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 そして恥ずかしがっている女の子と、その女の子を励ましている女の子という構図が出来上がる。その自分そっちのけで行われている友情劇に、ジュンタはどうしようかと思い悩む。


(?? なんだこの子? 一体どうしたんだ?)

 ジュンタがそう思っていると、徐に恥ずかしがっていた女の子の方が顔をあげた。


 ギュッと両手を胸元で握りしめ、瞳は相打つ覚悟を決めたような、悲壮な決意の色で輝いている。
頬は上気し、唇はプルプルと震え、それでも女の子は口を開いてみせた。

「あのっ、私は一年六組の瀬川美里と言います!」

「あ、これはどうもご丁寧に。俺は二年の佐倉純太だけど……何か俺に用があった?」


 唐突に自己紹介をされ、反射的に名乗り返してしまったが、どうやら自分の名前は以前から彼女に知られていたようである。まぁ、実篤といつも一緒にいるのだから、この学校で自分の名前を知らない人間の方が少ないだろうけど。


(悪名ばかりで有名なんだよなぁ……)

 やはり何か学校生活において、大きな間違いを犯している気がするジュンタは、軽く落ち込んだまま、またもや言葉を詰まらせた瀬川美里という下級生の話の続きを待つ。

 こうしている間にも食堂はどんどん混雑して行っているが、年下の女の子を放っておくわけにもいかない。瀬川美里が中々かわいいというのも、あったりなかったり。


 ジュンタがそうした気持ちで言葉を待つこと数十秒――


「そ、その唐突でなんですが……」


「がんばれ美里!」

 ――ついに彼女が口を開いた。


 隣の友人らしき女の子に応援され、彼女は大きく息を吸ってから、猛然とした勢いで言葉を発する。


「も、もしよろしければ食事をご一緒しませんか!」


――――へ?」


 そのあまりにも意外な申し出に、素っ頓狂な声が口から出た。

 それも仕方がない。見知らぬ下級生からいきなりの昼食のお誘いだ。

驚くなという方が無理な話だし、それに昼食の誘いをしてくるということは、その、つまりはそういうことかもしれないわけで……


 学校生活始まって以来の出来事に、ジュンタは少し気恥ずかしくなって考え込む。

 女っ気のなかった青春だ。この申し出受けるべきか受けざるべきか――と、そこまで考えてから、唐突にあることに気が付いた。


(もしかしてこの子、俺がいない間にもう一人の俺と知り合った子か?)

 自己紹介をされたことから考えて、新しく出来た知り合いというわけじゃなさそうだが、こうして昼食の誘いを受ける何かが、もう一人の自分とこの子の間で起きたということは、決してあり得ない話ではない。


 二ヶ月というのは、それなりの期間だ。

周りからの感情の変化や、もしかしたら佐倉純太の心の変化があった可能性はある。

(もし、もう一人の俺がこの子を気にしてたりしたら……断るのはまずいよな?)


 今日一日だけの自分が、これまでとこれからを担う、もう一人の自分の可能性を摘み取ってはいけない。

 別に考えたことが杞憂だとしても、別に下級生と知り合っておくことはマイナスではないため、


「ああ、いいよ」


 とジュンタは笑顔で了承した。


「ほ、本当ですか!?」


 ジュンタが誘いを受けると、嬉しさと安堵と驚きが混ざった笑みを美里は浮かべた。


(うん。なんだか無性にもう一人の俺を殴りたくなってきた)


 世界でも珍しい、自分で自分に嫉妬するという体験をしつつ、ジュンタは美里とその友人に案内されて食堂の席に向かう。


 席にはやはり美里の友人らしき下級生の女の子が二人いて、他にも四つの席が確保されていた。この混雑した食堂の中、下級生のキープはかなり大変だろうに。彼女たちの友情パワーはかなりのもののようである。


「ど、どうぞ、佐倉先輩! お、お座りください!」


「あ、ありがとう」


 ジュンタが美里の後をついて席に着くと、他の三人が嬉々として話しかけてくる。
 全員が全員、すでに昼食をゲットしているようで、もう女の子パワー全開で質問の嵐だ。

男女比率一対四はさすがにきついものがある――ジュンタがそう思いながらも律儀に質問に答えていると、こちらに向かって一直線に歩いてくる実篤の姿を見つけた。

実篤はこの混雑した中、こちらを見失うことはなく、両手に昼食を持って早足で近付いてくる。

初めからジュンタが実篤と食堂に来ることは予測済みだったのか、席にはまだ一人分余分がある。ジュンタの視線から実篤の存在に気付いた四人娘が、少し慌てた様子で顔を見合わせた。

やってきた実篤が席の様子を見て、


「ふむ。見たところ、どうやら一緒に食べるつもりのようだが……俺も一緒していいのかな?」


「は、はい。もちろんです。宮田先輩もどうぞご一緒してください!」

 噂に事欠かない、学校一のトラブルメーカーの登場に、一年生諸君は緊張してしまったようである。実篤が美形であることも原因の一因だろう。

「ほら、ジュンタ。頼まれたA定だ」


「おう、サンキュ」

 実篤から揚げ物が中心となっているA定食をもらい、机に置く。

 ジュンタの隣のスペースに実篤も昼食を置き、椅子に座り、流し目で初対面の同席者を見た。

「俺はジュンタの親友かつ幼なじみの宮田実篤だ。理由は大体想像が付く。まぁ、よろしく頼む」


「こ、こちらこそよろしくお願いします」


 的確に実篤の視線は瀬川美里嬢へ向けられた。

彼女は恐縮した様子で、何度も実篤に頭を下げている。

「はっはっは、そんなに頭を下げないでくれたまえ。俺もジュンタも、先輩風を吹かせるのは好きではないのでね。フランクに接してくれて構わんよ」


「そう言ってるわりに偉そうだよな、お前」

「これは仕方がない。こういった対応を望まれている様子であるし、年長者としては期待には応えなければ。な、ジュンタ」


 実篤は首に腕を回してきて、その端正な顔を近付けてくる。

そのまま耳元へ息を吹きかけてくるので、ジュンタはその頬を思いきり押しのけた。


「うっとうしい……って君ら、どうしてそんな赤い顔で期待のこもった瞳をしているんでしょうか?」


 ジュンタは互いに手を握り合い、キャーキャーと嬉しそうにしている下級生たちを目に留め、嫌な予感で冷や汗を流した。純情そうな美里は目を手の平で覆っているが、それでも指の隙間からしっかりと見ている。

 …………彼女たちが何を想像しているか、安易に想像がつくのが嫌過ぎる。


「言っておくけど、噂にあるようなことは一切無いから、そこのところ誤解しないように」


「そう、噂にあるようなことは一切無い。真実は噂などにはとてもできないからな」


『キャー!』

 げんなりした顔で訂正を入れるジュンタの言葉に続き、実篤が状況を分かっていながら、乗りと悪戯でシャレにならんことを口にする。

 

下級生たち――食堂で周りの席にいた女生徒たちが、皆一様に嬉しそうな声を上げたため、ジュンタは大きく溜息を吐いた。

「やっぱり、俺の学園生活は少し間違ってる――気付け! もう一人の俺っ!」


 しかしその顔には、紛れもない笑顔が浮かんでいた。







      ◇◆◇






一日なんて終わるのが早いもので、気付けばもう放課後になっていた。

冬の太陽は、もう夕暮れに姿を変えようとしている。

ジュンタは鞄の中に、一冊一冊、確認するように授業で使った教科書やノートをしまっていく。

クラスメイトたちはそれぞれ部活へと赴く者、友人と遊びに行く約束をしている者、さっさと家に帰ろうとする者と色々だ。ジュンタはそのクラスメイトたち一人一人に視線を送り、全員が教室を出るまで席にじっと座っていた。

やがて、教室にはジュンタと、そして最後に残ったクラスメイトの実篤だけになる。

自分の席に腰掛け、手に鞄を持っている実篤は、自分たち以外誰もいなくなった教室を見て、ポツリと呟く。


「終わった、な……」


「どうしてお前が寂しそうなんだよ?」


 実篤らしくない言葉に、ジュンタは軽く笑って返す。

 しんみりした空気に耐えきれなくなったように席を立ち、ジュンタは鞄を掴んだ。


「じゃあ、家に帰るか実篤」

「…………ああ、そうだな」


 実篤は頷いて、自分の鞄を持って立ち上がった。







 夕日に照らされる街中を通りつつ、自分の家に向かって歩いていく。


 視界には、見慣れた帰宅途中の風景――
 

 甘いクレープの匂いや、冬の名物屋台である焼き芋屋のいい香り。

耳には人が話す声や、車の走る音。それは人々が生きる街の音だ。風は冷たいが、こうした故郷の姿を見ていると、胸が温かくなっていく。

一歩一歩、噛み締めるようにジュンタは歩いていく。

歩き慣れた道。何度も通った道。新鮮さの欠片もない道を、最後だからとゆっくりと時間をかけて、色々と思い出しながら歩いていく。

隣にいる実篤も、ペースを合わせて歩いてくれていた。


(本当に、今日でさよならなんだよな……)

 一番賑やかな部分を通り過ぎ、一気に音を無くした風景を見て、ジュンタは改めてそう思った。


 学校に行って帰ってくる。それが今日で終わりだなんて、そうは思えなかった。

 また、明日も同じような日々があるような気がしてならない。こんな日々がいつまでも続くような気がしてならない。

 コートのポケットに突っ込んだ指先に感じる微かな温もりは、毎日感じていた日常の温かさに似ていて、本当にこれで終わりだとはとても思えなかった。

 …………でも、本当に今日で最後なのだ。


 昼間、ジュンタは瀬川美里という見たこともない下級生に出会った。

昼食を一緒した彼女が言うに、彼女は以前、佐倉純太に助けられたことがあるらしい。

 他校の不良が校内に無断で侵入してきて、たまたま入り口付近にいた彼女を脅して来たのだと言う。

彼女は厳つい顔の大男に凄まれ、とても怖い思いをした。だから、それを助けてくれた佐倉純太には深く感謝していると……たぶん、恋心も追加で抱いてくれているのだろう。

 でも、それは自分ではない。


 確かに瀬川美里を助けたのは佐倉純太だ。それは話を聞いて間違いない。でも、それはもう一人の佐倉純太の方であり、ジュンタ自身のことではない。ジュンタは、瀬川美里を助けてはいない。


 自分がいない間に佐倉純太が行った、些細な人助け――

 一人の少女を救って、小さな想いを芽生えさせた行為――

 それはジュンタに、本当に自分の居場所がないことを自覚させるには、十分過ぎることだった。


 少しだけそれは悲しく、少しだけ寂しいこと。

 いくら異世界に行くと決めたと言っても、胸の痛みは治まらない。

 学校に行ったことは、楽しく、間違いなく有意義だった。あらゆる意味で、今のジュンタには必要なことだった。


(俺がいなくても、この世界は変わらない)

 それに改めて気がつけただけでも、気分は十分楽になった。

 自分がいなくなることで悲しむ人がいないということは、それだけで少し楽になれることだったのだ。


「ジュンタ、到着したぞ」


「お、おおっ、悪い」


 隣の実篤からの声に、ジュンタは我を取り戻す。

 慌てて真正面を見てみたら、そこはすでに佐倉家があった。


「それじゃあ、ジュンタ。また夜にな」


「ああ、後で」

 ジュンタの肩を軽く叩いて、実篤が隣の宮田家へと去っていく。


 一人、自分の家の玄関前に取り残されたジュンタは、大きく深呼吸した後、玄関扉を開く。家の中の温かい空気に触れながら、ジュンタは今日のこの瞬間――


――ただいま」

 ――自分の家へと帰宅した。

 少し大きめの声であいさつをすると、家の中から二つの返事が返ってきた。


「おかえりなさい」

「おう、おかえり!」


 一つは優しげな女性の声で、もう片方は野太い男性の声。両方とも、リビングから聞こえてきた。

 ジュンタは玄関で靴を脱ぎ、早くなる心臓の鼓動を感じながら、リビングへと顔を出す。そこには返答の声の主である、母親と父親の姿があった。

「おかえり。早かったのね。もうすぐご飯ができるから、少し待っててね」

「ちゃんと手洗いとうがいをしておけよ? 最近、風邪が流行っているらしいからな」


 キッチンに立っている柔和な笑顔の母親と、ソファーに座ってテレビを見ている父親。

 時間にして二ヶ月。ジュンタから見れば数週間ぶりに会う両親は、何一つ変わらず自分を迎え入れてくれた。


「父さん、母さん……」


 それが嬉しくて寂しくて…………ジュンタは思わず泣きそうになった。







       ◇◆◇






 帰宅してから三十分ぐらい経った後、早めの夕食が始まった。

 時刻は五時半ぐらいなので、かなり早めの夕食だろう。

 テーブルには高級料理店のように洗練された美しさはないが、綺麗に盛られた食事が並んでいる。メインはジュンタが好物としている煮込みハンバーグ。他にはご飯にポテトサラダと、佐倉家では極々定番の夕食のメニューである。

 三人――家族だけの夕食の席は、本当にジュンタの記憶の中と同じように始まった。


「はい、アナタ。あ〜ん」

「あ〜ん」


 息子の目の前で、恥も外聞もなく桃色の空間を作り出している両親。この万年新婚カップルには、息子に対する遠慮というものが存在しない。いや、息子だけじゃなく万人に対する遠慮が存在しない。いつでもどこでも誰の前でも、食事をするときはこんな感じだ。


「おいしい?」

 と母親が訊けば、


「最高だ。愛している」


 と父親が親指を立てて答える。


 物心付いた時からずっと同じこと飽きもせず、変わらずしているところは素直に感心する。
 幼い頃は二人が仲良すぎて、仲間はずれにされているようで嫌だったが、それはもう昔の話だ。


「相変わらず仲いいよな」

 ジュンタが思わずそう呟くと、二人は幸せそうな笑顔で『当然』だと、口を揃えて言う。


 妙に甘い空間を前にしつつ、ジュンタは温かい気持ちになりながら煮込みハンバーグを口に運んだ。

 肉汁が上手に閉じ込められたハンガーグと、デミグラスソースの香りが口いっぱいに広がり、アルコールよりも格段に上の幸福感を感じる。久しく味わっていなかった好物の、それも母親の懐かしい味というのは、涙が出そうになるほどの最高の調味料になっていた。

「おいしい」


 素直にそう口にすると、ジュンタの母親は嬉しそうに笑った。


「あらあら、今日の純太ちゃんは嬉しいこと言ってくれるわね」

「いやいや、それは当然の感想だ。母さんの煮込みハンバーグは、三つ星料理店のどんな料理よりおいしいからな!」


 父の力説に、「まぁ」と軽く頬を染めて母は喜ぶ。

 それを見て父親は笑顔になって……なんなんだろうか、この幸せの連鎖反応は?

 見ているだけでお腹一杯になる両親の姿を見ていると、何とも言えない気恥ずかしさと喜びを感じる。子供として、これ以上の親はいないのではないかとさえ感じる。


 ジュンタはこれが両親と過ごす最後の晩餐と分かっていながら、それでもいつものように過ごした。

 父親と母親の話に耳を傾け、時折口を挟み、のろけが始まれば話を逸らし、そうやっている間に二度お代わりをして、


「ごちそうさま」

 一時間後――なんてことはない、何の特別もなく夕食は終わった。

 ジュンタ以外はまだ食事を続けていて、というか話に夢中で箸があまり進んでいない。父親にいたっては、お代わりの三杯目を平気でかき込んでいる。


 そんな彼は息子が食事を終えたのを見て、軽く眉を顰めた。


「なんだ、もういいのか?」

「うん、お腹一杯食べたし…………本当に、おいしかったし」

「あら、やだ。今日は本当に嬉しいことを言ってくれるわね。どうしましょう? これは純太ちゃんからの、無言の催促かしら?」

「ぬぁに〜? 純太はまだ母さんに抱きしめられたいのか!? 子供の頃あんなにたくさんされたんだ! そろそろ俺に独り占めさせろ!!」

「なにアホなこと言ってるんだよ? 偶にはそんな日もあるってだけさ
…………それじゃあ俺、ちょっと実篤のところに出かけてくるから」

ジュンタの母親は頬に手を寄せ、本当に嬉しそうに笑っている。

 父親もまた、そんな妻と息子の二人を見て、ビールをゴクゴクとおいしそうに飲んだ。

 こんな些細な本当のことを言っただけで、こんなにも喜んで貰えるなら、常々にもしっかりと感想を口にしていればよかった――そう今更だから思いつつ、ジュンタはリビングを後にしようとする。

 その背にいつものように、両親からの言葉は向けられた。


「いってらっしゃい。気を付けてね」

「おー、いってらっしゃい。早く帰ってこいよ」


 ジュンタは二人に背を向けた状態で、自分の瞳から涙がポロポロと零れてくるのを感じた。

次から次へと零れてくる涙は、制服に落ちて、染みこんでいく。もっと一緒に居たかったのに、これ以上二人の傍にいることは無理なのが悲しかった。


 このまま振り向けば、きっと両親ののどかな笑顔を見ることが出来るに違いない。


 それはとても温かくて、どうしようもないほどに決意を鈍らすだろう。

 ずっと傍にいてくれて、ずっと守ってきて貰った二人は、ジュンタにとっては掛け替えのない存在なのだから。


 優しくて、マイペースで、息子が自分似であることをとても喜んでくれている母さん。

 お調子者で子供っぽくて、色々と遊んでくれて、一緒になってよく笑い合った父さん。

 声には出さないけれど、二人の子供がいなくなるわけじゃないから言えないけれど、たくさんたくさん感謝の気持ちはあるのだ。伝えない気持ちがあるのだ。

 大好きだった。いや、大好きだ。
 今でも、これまでも、これからも、ジュンタは温かくて大きな両親のことが、大好きだ。

 だからジュンタは振り向くことなく、二人に万感の想いを込めて、涙を堪えながらそれだけを答えにした。


「父さん、母さん――


 大きな感謝の気持ちで震える声を誤魔化して、別離の言葉を、今静かに。


――――行ってきます」








◇◆◇







 雲一つ無い夜空には、金色に輝く満月が輝いている。


 星の光を打ち消す月の明るさは観鞘市を照らし、降る雪を蛍の光のような淡い輝きへと変える。
 幻想的ですらある花壇を窓の向こうに、プールの水面は不可視であり不可思議な魔法の波動に、ゆったりとした波紋を作っている。

 それは虹色の魔力――本来なら単色を付加され、圧倒的な力で全てを吹き飛ばす力は、白銀の少女の手によって静かで穏やかな力となっていた。

 普通の魔法使いとは一線を画すその魔法行使は、何もない虚空に孔を穿つ。


 その孔は世界の外へと繋がった孔。この世界から異なる世界へと繋がる孔。
 まさしく、それは異世界へと行くことを可能とした、リトルマザーの秘術中の秘術である。

 シンとした清澄なる空気の下、プールサイドに立って目を閉じていたリトルマザーが、準備の終わりと共に瞼を開く。


「……大丈夫。行こうと思うなら、いつでも行けるわ」


 集中を解いた彼女の一言に、少し離れた場所に控えていたジュンタは頷き返す。


 ――ついにこの時が来た。

 
 全ての準備が終わり、最後の一日が終わり、異世界へと旅立つ時が来た。


 制服に身を包み、実篤が用意してくれた荷物をジュンタは背負い直す。

 ズッシリと肩にかかる荷物の重みが、その荷物の重み以上に重く感じる。その重みはこの世界にあった思い出の重みだ。それを背負ったまま、異世界へと行く。

「ジュンタ」


 唯一、この世界の知り合いとして見送りに来た実篤が、目の前に立ちはだかるように立ち、持っていた長細い布袋を差し出してきた。


「俺には今、これぐらいしか出来ることが考えつかなかった。受け取ってくれ」


「これは?」

 ジュンタは両手で布袋を受け取る。その包みは、大きさの割にかなり重たい。


 布袋の先を縛った紐を解き、その中に入っている物をジュンタは取り出す。それは黒い鞘に入った、一振りの短めの日本刀だった。


「以前、戯れに購入した一振りだ。あちらは何かと物騒だろう。護身用に持って行くと良い」


「実篤、お前……」


「何、気にすることはない。掘り出し物でな。さして高い物ではないが、それなりの切れ味はある。銘は特にないようだがな」


「いやそうじゃなくて、戯れに買ったって…………いや、なんでもない。ありがたく受け取っておく」

 別に今更、実篤が日本刀を持っていたとしても驚くようなことじゃないか――ジュンタはそう思って、何も言わずに日本刀を布袋に戻す。ありがたいことはありがたいので、素直に受け取っておくことにした。

「今更、俺たちの間柄で何か伝えなければいけないことはないが……」


 布袋をジュンタが片手に持ち直したところで、実篤はそのまま右手を差し出す。


「握手を――友情の証だ」

「実篤……」
 

 ジュンタは何の戸惑いもなく、今ここで別れる親友の手を握り返した。


 小さな頃はいつも繋いでいた手。

 大きくなってからは繋がなくなり、隣り合って一緒に並んでいた手。


 久しぶりに握った実篤の手の温もりは、そのまま一つの小さな思い出として、ジュンタの胸に刻み込まれる。


「向こうの俺をよろしく頼む。きっとジュンタが向こうに行けば、すぐに飛んでくるだろうからな」


「ああ、任せられた――――じゃあな、色々ありがとう」


 最後の最後まで笑っていた実篤が、軽く手をあげる。

 実篤の隣を通り過ぎるジュンタもまた軽く手をあげ、すれ違いざまに、バシンと手を力強く叩き合わせた。

 その瞬間――二人に、別離の境界線は引かれた。


 境界線から実篤の方は、故郷の日常世界。
 そして静かに待っているリトルマザーの方は、未知の非日常世界だ。

 
実篤は故郷に残り、ジュンタはリトルマザーの方へと行く。境界線を挟んで、二人の立つ世界は分かれてしまった。

「ジュンタ」

 ある意味では全ての元凶である少女は、目の前までやってきたジュンタに向かって手を差し伸べる。

「握って。このまま、向こうの世界まで連れて行くから」


「分かった」


 ジュンタは小さくて、柔らかいリトルマザーの手を握る。

 不思議な感覚が肌をくすぐり、そのままジュンタはリトルマザーと共に、空中へと浮き上がった。

 リトルマザーに導かれるままに、ジュンタは開いた異世界へのゲートの前へと連れて行かれる。間近で見たゲートは、向こう側が見えない、暗闇の孔にしか見えなかった。

「この先に、あの世界があるんだな?」


「そうよ」


 ここは異世界とこの世界との狭間の線の上。

一歩足を踏み出せば、そのまま暗闇に解け消えるように異世界へ行けることは、何となく分かった。

 ジュンタは自分の手を握る、リトルマザーへと視線を向ける。


「最後の一歩は自分で、ってことか?」


 コクン、とリトルマザーは頷く。


「始めの一歩は自分で、ってことよ」


「なるほど」


 自分で最後の幕切れを引いて、そして最初の幕を開けと、そう彼女は言っているのだ。


 それがきっと大事なことなのだろう。最後の最後に選択を自分に譲る――この世界に留まるなら、これが本当の本当に最後のチャンスだということにもなる。


 与えられた最後の選択肢を、迷うことはない。

 一日で全てを振り切り、振り返らずに歩いてここまでやってきたジュンタだから、迷いはすでに何もなかった。

 だけど、最後の最後に時間が与えられるのなら、それは有効活用させて貰おうとも思った。


「リトルマザー」

「なぁに、ジュンタ?」


 残された時間に、ジュンタは傍らに浮かぶリトルマザーに改めて向き直る。


 なんとなく気が付いていた。きっとこの異世界へとゲートを潜ったなら、それは彼女との別れも意味しているのだと。


 その前に、リトルマザーには伝えておくべきことがあった。伝えなければいけないことがあった。
それを伝えるのに、この瞬間ほど相応しい時はないだろう。


「えと、……ジュンタ?」


 困惑気味な表情をしているリトルマザーの手を握る力を、ジュンタは少し強くする。動揺が繋いだ手から伝わってきて、安心させるようにジュンタは笑う。


「最初に言わないといけなかったことを、まだ言ってなかったんだ」


 ジュンタはリトルマザーに向かって、深々と頭を下げた。
 
胸にある大きな感謝の気持ちを、少しでも伝えられるように、と。


「ありがとう」

 言うことを、忘れていた。あまりに立て続けに驚くことが起き続けたから、肝心なことを言い忘れていた。自分がリトルマザーに命を救われたこと――物語の続きを歩む可能性をくれたことに対して、お礼を言うのを忘れていた。

 ――それを今、ようやく果たす。

「俺の命を救ってくれて、本当にありがとう。リトルマザー、お前がいてくれて、俺は本当に救われた」

「ジュンタ……」

 大きく見開かれたリトルマザーの目から、大粒の涙が零れ落ちる。

 それを慌てて拭おうとし、それでも涙は溢れ続けて、リトルマザーは恥ずかしそうにはにかんだ。

 
 何の言葉もない。だが、その笑顔は本当に嬉しそうだった。

頭を上げたジュンタは、そんなリトルマザーの優しい微笑みを見て、自然に笑みを返していた。

 二人の間に、何とも言えない甘い空気が流れて――


「あー、そこのお二人さん。俺がいることを忘れてはいないか? 

ふむ、やはりジュンタは、孤独を抱える相手に対しては麻薬のような効力を持つのか。ロンリーブレイカー……いや、ロリキラーとでも称そうか?」

 ――その空気を払拭しようと、こういう空気には茶々を入らずにはいられない男が、口を挟んできた。

 殺気すらこもった視線をリトルマザーは実篤に向け、ジュンタは先程の親友との別れが微妙な感じになったことに、苦笑を覚えた。

「もう、最低! 空気が読めないというか……なんというか、低っ!」

「母親気取りの次は恋人気取りか、ロリっ子? そうは問屋が卸さないということだな。お前の敗因は、俺がいることを忘れ、ゲートを潜る前にラブコメを演出したことだ。このバカめ」


「なんですって!?」

 湿っぽさを一掃する、実篤とリトルマザーの小競り合い。

 プールサイドの水面上の虚空――果たして、離れた位置でも口を使って喧嘩をする二人は、仲が良いのか悪いのか?


(でもまぁ、この世界と俺の別れは、きっとこんなもんなんだよな)

 それは分からないが、こんな空気の中旅立つことが自分は似つかわしいと、そうジュンタには思えた。


「ふーんだ。いいもんいいもんっ! そんなに言うならジュンタは連れて行っちゃうんだからっ。行くよ、ジュンタ!」


「ああ、行こう!」

 売り言葉に買い言葉の結果、リトルマザーにグイッとゲートへと引っ張られることになったジュンタは、最後にこの世界を――その象徴たる日常を飾っていた、己の親友へと視線を向ける。


 真っ直ぐにこちらを見て見送ってくれている実篤は、ジュンタの視線に気付き、最後にいつもみたいにニヒルに笑って見せた。

 その笑顔が掠れ、静かに意識が埋没していく中、ジュンタは手の平の温かな温もりだけを感じつつそうして故郷の世界を後にする。

 その中で、本当に最後に、ジュンタの耳に実篤の声が届いた。



―――― いい旅を ――――



 その言葉が、本当に実篤らしいと思った。

 なら、自分も最後に故郷に残す言葉として、一番ふさわしい言葉を残さないと。

 大事だった日常世界。大好きだった人たち――

 


―――― 行ってきます ――――

 


 ――手から零れてなお、胸に残り続ける全てに向けて、ジュンタは笑顔で旅立ちを告げた。






蒼穹が広がる大空には、雲が一つ、風にゆっくりと流れている。

緑が香る草原に寝そべり、瞼を開けば、そこは旅人が憧れる無限の園――
 ひたすらに遠くへと、ゆっくりと、それでも進んでいくその雲を見て、ここから旅立つ旅人は一粒涙を零した。

それは透明な涙だっただろう。

理不尽を憎まず、奸計に怒らず、恨むことすらも止めにして、ただ貪欲までに今を求めた旅人の涙が、透き通る美しさを持っていないはずがない。

憧れを置き去りにして、憧れを持って、憧れて行く。

北には大きな河川がある。

東には広大な広葉樹の森が茂っており、

西の果てには気高い山脈が立ち並び、

南の空へは雲が行く。

どこへ行くのも自由な世界。

どこを目的地とするも自由な自分。

旅人は立ち上がり、笑顔で荷物を背負う。

――さぁ、旅を始めますか」

 遥か永久(とこしえ)まで続く大地からは――



―――― 行ってらっしゃい、ジュンタ ――――



 

 ――――どこか懐かしい、春の匂いがした。









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