第十話  絆

 


 ルドールとアンジェロの戦いは、以前拮抗したまま続いていた。

 基本的なポテンシャルはルドールの方が上。しかし、アンジェロはその部分を『儀式紋』によるアドバンテージで補っていた。

 両者の魔法行使によって広間全体が凍りつき、大気中の水分は氷結し、痛いほどの冷たさが肌を刺す。床につけた靴などは両者ともが半ば以上凍って意味をなくしていた。

「ふっ!」

 アンジェロが『儀式紋』の力を使って、一呼吸の内に自分を中心にして床一面に凍りの棘を精製すれば、ルドールは足と手を使って壁に張り付き、さらには天井までもを足場として利用し、重力に逆らったまま同じように棘を創り出す。重力に引かれた棘は、そのままアンジェロの頭上へと降り注ぐ。

 尖った切っ先を下に落ちれば、それは巨大な岩石以上の硬度と殺傷性を生み出す。

 ただし、『儀式紋』を持たぬルドールには天井全面を一度に変えることはできなかった。アンジェロは自分が生み出した棘によって逃げ場を封じられていたが、腕の一振りで床の棘は全て砕け、上から下から氷の礫がぶつかっては弾け飛んだ。

 ルドールはゆっくりと空中で反転しながら床に降り立ち、アンジェロは髪についた氷の粒を払いながら、悠然と構えた。

 美しすぎる氷の魔法使いの演舞。
 二人ともが見目麗しい、よく似た顔立ちをしているだけに、まるで何かの劇を観ているようだ。

 二人の攻防の一部始終を見て取ったターナティアは、その度外れた凄まじさに圧倒されていた。

(すごい……!)

 エルフであり、自身の魔法使いであるからこそわかる、二人の力。アンジェロは威力が、ルドールは制御が人並み外れている。

 彼らに比べてしまえば、ターナティアでは今ここで通路から出て行ったとしても足手纏いにしかならないだろう。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』の護衛をディスバリエに任せて応援に駆けつけたターナティアとしてはアンジェロの助けに入りたかったが、その隙を今の今まで見出せないでいる。

「がんばって……アナタ……!」

 ターナティアは来たるべきときを息を潜めて待ちながら、夫の勇姿に頬を染め、その勝利を祈った。

 戦いの均衡が、その実すでに傾きつつあることに気付かず……。

 

 


 表面上は悠然と、しかし内心ではアンジェロは焦燥に駆られていた。

(この男を相手取るには、『儀式紋』を使ってもまだ足りないのか……)

 当初こそ『儀式紋』の力で優位を保っていたアンジェロだったが、その優位が徐々に崩れそうになっていた。

 理由としては二つ。一つは『儀式紋』自体が『竜の花嫁ドラゴンブーケ』専用の術式であり、アンジェロが使い続けるには相応のリスクが伴い、両腕に多大な負荷がかかっていること。服の袖は凍って砕け散り、のぞいた肌はすでに半ば以上が壊死しているかのような色になっている。

 指先はおろか手首より先の感覚はすでに消失し、『儀式紋』と普通の肌との境目である肩口は、まるで熱した鉄を押し当てられたような激痛と、引きちぎられるような感覚に常時襲われていた。

 それ自体はまだ何とかなる。勝利したところで二度と両腕は動かなくなるだろうが、『聖誕』を控えたアンジェロにとっては些末ごとだ。

 問題はもう一つの理由。即ち、ルドールがその圧倒的な魔力の制御能力と知識から、『儀式紋』の性質を理解し、その隙をつくような形で戦うスタイルに変えたことにある。

 儀式魔法を通常魔法として扱える『儀式紋』だが、逆をいえば、発動時はどのような魔法であっても儀式魔法になってしまう。
 大威力・広範囲の儀式魔法は、言ってしまえば砲台であり、発せられる魔力の大きさから一瞬とはいえ空白の時間が生まれてしまうのだ。間違いなく、先程からルドールはこのタイミングを狙って攻撃を仕掛けてきている。

 いわば、カウンターの戦い方に切り替えているのだ。

 無論、自分でも理解している隙にわざわざ付け入らせるアンジェロではなかったが、そのことに意識を裂かなければならないため、追い込んでも決定打までは与えられないでいるのが実状だった。さらに両腕の感覚の消失により、思いように戦いを運ぶことができない。

 戦いは持久戦に持ち込まれている――そうなると不利なのはアンジェロの方だ。

「これが、私の父である男の力か……」
 
 初見の術式に対する冷静な対処。
 間違いない。ルドールこそは魔法使いの一つの頂点に立つ男。人の範疇内においては最強を誇るだろう戦士。

「ならば、それを超えるまで!」

 アンジェロはより一層の魔力を練り込み、両腕から熱光線じみた氷結の光を迸らせ、自分が踏み越えるべき相手を薙ぎ払わんとする。

 

 


 表面上は穏やかに、しかし内心ではルドールは小さな苛立ちを見せていた。

(まだ倒れぬか。想像した以上に厄介な代物だな、『儀式紋』という奴は)

 広範囲を薙ぎ払う光線を逸らしながら、ルドールは身体を低く沈めて、地面スレスレのところを疾駆する。

 的を絞らせないよう動き回りながら、氷の魔弾を連続で放つ。
 その数は全部で五十。五つの発射地点からほぼ同時に円を描くようにカーブしながら襲い来る氷の礫に対して、アンジェロは防御を余儀なくされて障壁を張る。

 儀式魔法相当の障壁に対して、ルドールの無詠唱の攻撃は何の脅威も与えなかった。

 ルドールのしていることは、鉄の鏃で厚い城壁を崩そうという試みに近かった。いくら打ち込んでも、しっかりと造られた城壁はびくともしない。打ち込むならば、破城槌のような一撃でなければならないが、そんな詠唱を唱える隙は与えてくれないだろう。

 全ての魔法の威力が高くなり、攻撃に緩急をつけられないでいるのが弱点といえば弱点だが、そんなもの、適切な魔法運用をすれば十分補えるものだ。付け込む隙にはならない。

 アンジェロのような理性で物事を推し量る魔法使いに『儀式紋』……考え得る限り、最悪の組み合わせだ。

 結局、ルドールは攻め手に欠けている状態だった。
 幸いなのは、向こうもそれは同じということか。持久戦に持ち込めば、あるいはルドールにも勝機が訪れるかも知れない。

「どちらにしても、決着までにはそう時間はかかるまい」

 ルドールは疲労を感じ始め、アンジェロの両腕の負荷は酷くなっている。

 決着のときは、すぐ間近に迫っていた。






       ◇◆◇






 戦場に突如として静寂が訪れる。

「まったく、あなたはどこまで私の邪魔をすれば気が済むんですか?」

「お主も。これほどの力を持ちながら、何故悪を成そうというのだ」

「善悪というものは個人の主観によって左右されるものに過ぎない。あなたにとって私の行動が悪でも、私にとっては正義である。ただ、それだけのことです」

 攻撃の手を止め、どちらからともなく話しかける。
 それは終わらない戦いに対する一呼吸をつく目的と、相手の次の出方を探り合うための時間。

 いや、それだけではない。ルドールにとっては、それだけではなかった。

 百年という年月は、息子を知らない大人に変えてしまうのに十分な時間だった。

 健やかであってくれればいいと、そう願いながら彼の活躍を耳にしたとき、ルドールの脳裏には幼い我が子の顔が浮かんでいたが、その顔と今目の前にある顔とは一致しなかった。

 恥を承知で言えば、どうして禁忌を犯してまでアンジェロが使徒になろうとしているか、ルドールにはその理由がわからないのだ。

 ルドールとて想像の許す限り、その理由を考えてみた。
 今のこの世界に不満を持ち、自らが使徒になって改革するつもりなのか。それとも、使徒という権力者の峰に立ちたいだけか。使徒にならなければ倒せない敵がいるのか。

「アンジェロよ。お主にとってこれが正義だというのならば、教えてはくれまいか? なぜ使徒になろうとする? 何故、屍の山を積み上げてなお使徒になることに固執する? いや、たとえどのような理由であれ――

 使徒イヴァーデに友として、使徒フェリシィールに巫女として傍らに居続けたルドールは、使徒という存在ができることできないこと、それを把握している。同時に苦難や呪いめいたものまでも熟知していた。

 ずっと傍に居続けたが、ルドールは一度でも使徒になりたいなどと思ったことはない。

「使徒とは生まれながらに神が作り上げた芸術品に近い。ただ人がなるものでは決してないぞ。アンジェロよ。お主が使徒になろうとも、お主が望むことは何一つとして叶うまい。
 人間としての自分が描いた夢を、使徒になった自分が叶えられるはずもなし。使徒とは誰かの祈りを形にする偶像であって、己が欲望を実現させる人間とは違うのだから」

「…………」

 その一言はアンジェロにとって予想外に過ぎる言葉だったのか、彼は口をポカンと開けて、あどけない子供のような顔を晒した。

 そのあと――胸の中にあった何かを爆発させたように、アンジェロは大声で笑い始めた。

「アハハハハハッ、アハハハハハハ! 面白い! 実に面白いな、ルドーレンクティカ! あなたがまさかこのような冗談を言えるとは思っていなかった! アハハハ、素晴らしい牽制だ。今攻撃されては私は死んでしまうよ!」

「アンジェロよ。儂が言ったことは全て――

「冗談だよ。それもとびきり強烈でタチの悪い冗談だ! 使徒になっても何も叶えられないと? 違う! 使徒にならなければ叶えられないのだ!
 ――そうだな、教えてあげよう。私の願いを。私の夢を!」

 そこでピタリと笑うのを止めたアンジェロは、あらゆる感情を飲み込んだのっぺりとした顔で告げる。

「私は使徒となり世界を征するのだ。私が唯一無二の使徒となり、世界の全てを私の手のひらの上で転がす。誰も逆らえない。いや、逆らおうとしない。使徒を超えた使徒に――神になるのだ!」

「だがそれは――本当の目的ではないだろう?」

「なに?」

 ルドールは確信をこめて反論した。アンジェロが口にした願いはきっと、ただの過程に過ぎないのだと。

「使徒になること、世界を征すること、それはお主にとってただの前準備――過程に過ぎないはずだ。なぜならば、そうして手に入れた世界に君臨したとして、お主は一体何が楽しい?」

「楽しいに決まっているだろう。世界全てが私の前に跪くのだぞ。どんな屈強な王も、どんな美しい美姫も、私の前では等しく踏みつぶされる塵芥に過ぎなくなる! 皆が私を讃え、未来永劫に渡って愛し続ける!」

 それは確かに誰かにとっては夢のような生活なのかも知れない。言ってしまえば、それは上流社会に憧れる平民の夢に近い。

 しかし、アンジェロは違う。その能力だけで誰もがもてはやす存在になれた。なのにそれを捨ててまで使徒になろうとしている。……その理由が、世界を征服する程度のものであるはずがない。

「アンジェロ。では聞こう。世界を征し、人々に崇められて神となり――それでお主は満足なのか?」

「当然だ。私は――

 即答しようとしたアンジェロの口が、途中で詰まる。

「それが答えだ。お主の本当の夢とは使徒になって世界を征することではない。ましてや神になることでもない。それが一番目的に近付ける道だからと、そう考えているに過ぎない」

 辿り着くべき場所がわからないのに、そこへ至る過程は考えつく。よって、アンジェロの言葉は全て過程を語っているに過ぎない。そこには到達点が存在しない。

「儀式を止めろ、アンジェロ。そしてもう一度よく考えてみるがいい。自分の目的を。望みを。きっと、他に誰もが認めるような方法があるはずだ」

「…………たとえ、そうだとしても……」

 声を詰まらせていたアンジェロは、質問に対する自分の反応を、かけられた言葉の意味を正しく噛み砕いて、

「たとえそうだとしても、私の計画に狂いはなく、間違いはない」
 
 その上で、両腕の『儀式紋』を輝かせる。

「そうだ。確かにあなたの言うとおりだ、ルドーレンクティカ。私は世界征服になど本当は興味などない。そんなものを本気で目指すものはただのガキか狂人だ。私はそのような程度の低いものたちとは違う。それに気付かせてくれたことには感謝しよう。ああ、私は誰かにそう言ってもらいたかったんだ」

 アンジェロは得心がいったという面持ちで、微笑みかけてくる。迷いを吹っ切った、晴れ晴れとした顔だった。

「そう、私は何も間違ってはいなかった。自分の願いはわからずとも、私の作り上げた計画の先にこそ私の夢はある。ならば何を臆することがあるだろうか? この血塗れた地獄という名の儀式場は、正しく間違っていなかったと、私は胸を張ることができる!」

「……止めるつもりは、ないのだな?」

「無論だ。使徒になど特になりたいわけでもないが、どうやらそうなるのが一番の近道らしい。
はははっ、そういえばルドーレンクティカ。使徒には巫女が一人つくものだったな。しかも関係のある相手が多いという。それならば――ああ、もしかしたら私の巫女はあなたではないかな?」

「生憎と、これまで二柱の使徒に同時に仕えたという巫女はおらん。我が主はフェリシィール・ティンクただ一人」

 ルドールは今の会話が大局には何の意味もなかったことを悟ると、魔力を練り上げながら間合いを測る。

 お互いに呼吸は整った。そして、相手の次の出方についてのシミュレートも終わっている。あとはどちらがより思考を広く、深く、掘り下げることができたかの勝負となる。

 そういう意味においては、今の会話にも意味はあったのかも知れない。何が琴線に触れたのか、間違いなく今のアンジェロの心は高ぶっている。実力伯仲の戦いの最中にあっては、それが思考を塞ぐことも多々ある話。

「なるほど、使徒フェリシィール・ティンクがいればあなたが巫女になるのは不可能だろう」

 そのことに気付くくらいにはアンジェロの思考は鈍っていなかったらしい。
 お互いに魔法の準備をほとんど完了させたところで、彼は朗らかな笑顔で語りかけてきた。

「ならば消してしまえばいい。元より、今回の『聖誕』において使徒フェリシィール・ティンクとは、生け贄の名前なのだから」

 その意味がルドールの頭に浸透する前に、アンジェロの魔法は解き放たれていた。

 一直線に放たれた氷のブレス。それ自体が高い殺傷性を持ち合わせ、よしんば直撃を避けても触れただけで多大なダメージを与える。さらにただでさえ気温が下がっていたところにブレスが広がり、ルドールの足下が一瞬で凍りついて拘束具と化す。

 逃げられない。避けられない。――ルドールの濁った思考はそう判断を下す。

 全ては、アンジェロの策略がルドールの上を行った結末。
 最後の一言によってお互いに動揺しながらも、より動揺を露わにしてしまった方が負けるという、これはそういう戦い――

「残念ながら、あなたを巫女にすることはできなかったようだ。安心してください。あなたの大好きな主も、すぐに後を追わせてあげますから」
 
 ――だった。

 少なくとも、アンジェロの用意していた揺さぶりの言葉が紡がれる前は。

 

 

 アンジェロは自分の放った魔法にルドールの姿が飲み込まれたのを見て、自分の勝利を確信した。

 あれだけ抵抗されたというのに、最後は呆気ないものだった。
 だからだろう。喜びを感じると思っていたのに、なぜか非常に落胆している自分の心があったのは。

 しかし、これが計算の上で弾き出された結末だ。戦いはそこへと予定調和に進み、辿り着いたに過ぎない。

「さて、そろそろ『聖誕』のための術式は手に入ったはず」

 元々アンジェロは戦いや勝利に歓喜するような人間ではなかったので、ルドールの遺体を確認することもせずに背中を向けた。


――今、儂の娘を殺すといったか? お主」


 ルドールの身体を包み込んだ冷気が、白い閃光によってはね除けられたのはその直後のこと。

「がっ!?」

 閃光に背中を灼かれ、アンジェロは凍った床の上を押し飛ばされ転がっていく。
 それ自体はさほど辛いことではなかった。痛みのほどを言えば、両腕の方がよほど痛いし、それ以外の痛みはほとんどが麻痺してしまっている。

 だからアンジェロの驚きとは、倒したはずのルドールは立ってこちらを睨んでいることだった。

「馬鹿な。私の計算の上では、あなたが防御するよりも私の魔法が直撃する方が早いはずなのに」

「ああ、そうだな。思考を鈍らせた方が負け。相手の思考速度を上回った方が勝つ。これはそういう戦いだった。少なくとも、先程までは」

 ルドールは僅かに傷を負っただけの状態で立っていた。それ即ち、アンジェロの攻撃の前に防御魔法を展開させたことに他ならない。

「あり得ない。私が読み間違えるなど……」

「なに、後悔する必要はない。儂とて一度は見誤ったのだから、息子であるお主が勘違いしていても不思議ではない」

 その言い回しにアンジェロの頭がすぐにその解答を導き出した。

「まさか、あなたは……」

「よく間違えられるのだが――

 ルドールは冷たい瞳の奥に、

――儂は皆が思っておるほど、冷静沈着な人間ではないよ」

 燃えるような、激しい怒りの感情を見せていた。

「昔から、ここぞというときには強い感情に突き動かされる。自分でもびっくりするくらいにな。それでピンチに陥ったこともあれば、それに助けられることもあった。時に人の強い感情とは、積み上げられた膨大な計算を上回る」

 極端な話を言ってしまえば火事場のクソ力という奴だ。本来なら出ない力を、感情の爆発によって解き放つ。

 ルドールを動揺させ反応を遅らせるために用意した一言は、彼の逆鱗に触れてしまったということ。

 そのことに気が付いたアンジェロはすぐさま立ち上がろうとして、失敗した。度重なる酷使によって凍りついた両腕は、立ち上がらせる力など残していなかった。凍りついた床に足を取られ、無様に転んでしまう。

「……そういえば私とあなたは百年近くも離れていたんだったな。私があなたを見誤っても……ああ、当然ということか」

 その瞬間、アンジェロは自分の敗北を確信した。何てことはない。いつも通り、計算の上で弾き出した決定事項であった。

「計算違いがあるとしたらそのことか。どうやら私は、思っていた以上にあなたとの血のつながりを意識していたらしい。あなたは私の記憶の中にあなたが全てだと、そう思いこんでいた」

「儂も同じだよ。お主との絆、それをずっと意識させられていた」

「何を馬鹿な。私との絆を打ち負かしたのは、主従の絆の方だろう? 恐らくあなたと戦っていたのが私ではなく使徒フェリシィール・ティンクならば……きっと、無様に這い蹲っていたのはあなたの方だろうよ」

 全ては長く離れていながらも、完全に断ち切ることができなかった絆が悪いのか。

 そう、どれだけの時間離れていたとしても、どれだけ嫌っていたとしても、アンジェロ・リアーシラミリィにとって、ルドーレンクティカ・リアーシラミリィは血の繋がった父親なのだ。

「さあ、もういいだろう。私を息子と思うのなら、このような惨めな姿をこれ以上晒させないでくれ」

「……ああ」

 そのことにもう少し早く気付いていれば、違う結末もあったかも知れない。このように惨めに死ぬことなんてなかったのかも知れない。

 ルドールは容赦なく、その手に氷の槍を生み出して握りしめる。
 その腕が振り下ろされたとき、アンジェロの野望は命と共に砕け散る。

 そしてルドールはそれを躊躇わないだろう。この段階に至ってもアンジェロは『聖誕』を諦めてはいなかったし、ルドールは自分こそがそれを止めてみせると息巻いていたのだから。両者が感じていた絆は、お互いを殺し合わせるための絆に相違なかった。

「…………アンジェロ、すまなかった……」

 果たして、今更ながらの謝罪と共に、ルドールは氷の槍を振り上げる。

「……何を。最低な父親の癖に……」

 それに対して、アンジェロはしっかり睨み据えて吐き捨てた。
 ルドールが僅かとはいえ躊躇し、顔を歪めただけで、アンジェロは胸がすっきりとしたような気がした。

「……そうだな。儂は、最低の父親だった……」

 言いたい言葉も。言われたい言葉も。たくさんあったはずなのに、今はただ全てが遠い。
 
 振り下ろされる刃に躊躇があったのは僅か三秒の間。それがつまりアンジェロとルドールの親子の距離を表していて、それが縮まることは永遠にない。

 ストン。と、あまりにも呆気なく氷の刃が身体を貫く。

 冷たい世界に温かな血が降り注ぐ。
 この上等とはいえず、計算外に過ぎるものではあったが、少なくとも何かが胸の穴を塞いでくれた結末を熱い血が締めくくる。
 

「…………父、さん……?」


 そのとき、自分が口にした懐かしい呼び名と、目の前で起きた結末にアンジェロは頭が真っ白になった。

 どんなに無心でいようとしても何かを考えてしまうアンジェロにとって、それは、あるいは生まれて初めてできた空白だったのかも知れない。

 気が付いたときには、アンジェロは身体を起こしており、代わりに左胸から氷の刃を生やしたルドールが倒れていた。溢れ出る血は熱く、氷を瞬く間に溶かしていく。

 何が起きたのか? 
 どうして自分ではなくルドールの方が倒れているのか?

 愕然と固まっていたアンジェロの身体は、後ろから優しく抱き上げられた。

「大丈夫ですか? アナタ。危ないところでしたね」

「ターナ、ティア……?」

 身体を支えていたのはターナティアであった。片腕を失い、顔色も悪かったが、表情は安堵と喜びから柔らかい。

 しかし、今は妻の無事を喜ぶことはしなかった。正確にいえば、いつものように表面上は喜ぶ顔を取り繕うということをしなかった。このタイミングでターナティアが現れた意味を理解して、湧いてくるのは強い怒り。

「なぜ、だ……? なぜ、邪魔をした……?」

「はい。アナタを助けられて本当に良かった。ああ、こんなに両腕を酷使して。これも全て、そこにいる愚か者の所為よ!」

 癒しの力でアンジェロの腕を撫でたあと、ターナティアは怒り狂った顔で倒れたルドールの頭を蹴飛ばした。力無く地面にうずくまっていたルドールの顔が、ボールのように身体ごと跳ね上がり、冷たい床に叩き付けられる。

 それを見た瞬間――計算も、打算も、妻であった女に対するほんの僅かな情も、全てアンジェロの頭の中から消え去った。

「かくなる上は、四肢を切り裂いてドラゴンの餌に――

「止めろッ!!」

「きゃっ!」
 
 手に魔法陣を浮かべたターナティアを、アンジェロはタックルして止めた。

 いきなり横から衝撃を受けたターナティアは片腕でバランスがまだ上手く取れないのだろう。いつもの堂々とした姿からは想像できないほど容易に尻餅づく。

「ア、 アナタ……何を……?」

「うるさい! 黙れ!」

 呆然と尻餅付いたままターナティアが声をかけてきたが、アンジェロは彼女を無視して倒れた父の傍らにしゃがみ込んだ。

「まだ、息はある……!」

 僅かな呼吸を確認して、アンジェロはすぐさま治癒魔法を唱え始めた。

 氷の槍は深々とルドールの左胸を貫いている。
 完全に心臓を直撃していなかったのが唯一の救いだが、そこから伸びる主要な血管が千切れている。

 即死レベルの傷だが、魔力が擬似的な血液となって何とか命を繋ぎ止めていた。とはいえ、所詮は死の時間を僅かに延ばすので精一杯だ。いかな魔法使いとて即死レベルの傷を受けては、死は免れず、治癒魔法も万能ではない。

 それでも儀式魔法へと昇華させるアンジェロならば、奇跡にも手は届くかと思われたが……。

「ぐっ……『儀式紋』を酷使し過ぎたか……!」

 魔法の輝きが途切れ途切れになる。他でもないルドールとの戦闘によって使いすぎた『儀式紋』が、ついには両腕から魔法を扱う力を奪っていた。

「くそっ!」

 悪態づいて腕を地面に叩き付けようとしても、指先がピクリと僅かに動くばかり。

「ああ、なんでこうなってしまったんだ!」

「アナタ。それ以上『儀式紋』を使っては、腕が使えなくなってしまいます!」

 嘆くアンジェロにターナティアが声をかけた。

「それがどうした? どうせ使徒になれば不要なこの身体だ」

 アンジェロは馬鹿なことを抜かす女にジロリとした視線を向けた。そういえば、一体誰が自分と父の戦いを邪魔したのだったか。決着を汚したのだったか。

 そんなのは決まっている。この、愚かしい女だ。

「…………き……ろ」

「何ですか? アナタ。腕が痛むのですか?」

「聞こえなかったか? 私は消えろと言ったんだ」

 一丁前に心配してくるターナティアを睨みつけ、アンジェロは心底から忌々しげに吐き捨てた。

 ターナティアは最初、何と言われたのかわからないようだった。そんな間抜けな顔も苛々する。昔はまだマシな女だったが、最近の堕落ぶりと来たら目を覆いたくなるほど。こんなものが計画のためとはいえ自分の妻になったかと思うと、アンジェロは吐きそうになった。

「私の前からさっさと消えろ。腕が使えれば殺してやるのだが、今の私にはできない。だから消えろ」

「あ、え……な、何を……アナタ……」

「さっさと消えて、二度と私の前に現れるなと言っているんだ! 聞き返すな! その顔を見ていると虫酸が走る!」

「ひっ!」

 生まれて初めての激情に操られるまま、アンジェロは怒鳴り散らす。
 
 ターナティアはここに来てようやく言われたことが理解できたのか、後ずさり、何かを言おうと口をパクパクと動かし……。

「な、何を言っているんですか? そんな、嘘ですよね? まるで、アナタが私のこと、愛してない、みたいな……」

「ハッ、愛など最初からあるものか! お前は私にとって、ただ『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を生み出すためだけの母体だ。エルフならば誰でも良かった。偶々お前が近くにいた。選んだ理由はただそれだけだ!
 ああ、今ならはっきりと言える。私はお前が大嫌いだ。私のことを何も知らない癖に……鬱陶しい。消えろ。さっさと消えろ! お前は私が殺してやる価値すらない!」

「……あ、あぁ…………あああああアアアア!!」

 ターナティアは顔を歪め、頭を掻きむしるように抱えると、獣のような雄叫びをあげて逃げるように走り去った。

 アンジェロはターナティアがどこを目指したのか最後まで看取ることなく、再びルドールの顔に視線を落とす。

「……父さん」

 今ならば、はっきりと自分の願いが、使徒になってまで叶えたかった夢が何かわかった。

「私はただ、あなたに認められたかった。見ていて欲しかったんだ」

 あなたの息子はここにいると。
 ここに存在していると、アンジェロは言いたかっただけなのだ。

「使徒になれば……あのフェリシィールと同じ立場になれば、あなたに見てもらえると思った。そのためだけに全てを……だから本当は、あなたがここに来てくれたときは嬉しかったんだ。私のことを忘れてないって、ずっと気にしていてくれたってわかったから……」

 涙が両目から溢れてくる。
 
 自分の夢がルドールと親子でありたいことと気付いても、もう遅い。ルドールはもはや何を語ることもできず、瞳を開けることもできず、ただ死に行くためだけに生きているに過ぎなかった。

 助ける手段は、ない。ルドールを助けるには、心臓に代わって鼓動し、血や生命力といったものを循環させる器官を用意するしかない。人間の生きた臓器を生み出すのは、もはや儀式魔法ではなく神殿魔法の領域だ。たとえ『儀式紋』を全力で使えたとしても……。

「……そうか! ああ、その手があったか!」

 アンジェロは気付いた喜びを噛み締め、次の瞬間には迷わず実行に移していた。

 それはある意味では神殿魔法を用意するより、よほど難しいこと。未だかつて誰一人として成功させたことがない、前人未踏の挑戦となるだろう。

 しかし、それでも助けられる可能性はあるのだ。それにアンジェロは元より、前人未踏の領域へと挑んだ天才。神がルドールの生を否定するのならば、神を超えて生を肯定してみせる、そんな存在にならんと挑んだ人間なのだ。

「父さん。あなたは私にとって……ボクにとって大事な……大嫌いな、最低の父親だったよ」

 いつの間にかしっかりと握りしめていた両手でルドールの身体を仰向けにひっくり返す。そこにあった顔は、どこか安堵した表情だった。まるで息子を殺さなくて済んだことが嬉しくてならないといわんばかりの微笑だった。

 それを、今からアンジェロは崩す。
 この死を認めた最低な父を、無理矢理生き返らせるのだ。

「あなたはこれから一生後悔し続ける。ボクのことを思い出し続ける。家族を守れなかったことを、自分の所為で息子を殺してしまったことを、死ぬまで後悔し続けるんだ」

 それはずっと父親に見ていてもらえるということ――使徒になどなるよりもよっぽど完全な、アンジェロの夢が叶う方法だった。

「さあ、父さん。家族に縛られ、絆に呪われ、そうして愛のために苦しみ続けてくれ。そうすることで、ようやくボクはあなたを呼べる。父と。父さんと。笑いながら呼ぶことができるんだ」

 アンジェロは子供のような無邪気な笑みを浮かべて、幼い頃、自分の手を振り払って行ってしまった父親の胸に両手をあてる。

「ああ……ようやく、追いついた……」

 そして、アンジェロ・リアーシラミリィの才能を未来永劫のものとするために――さあ、命を賭けて奇跡を起こそう。

 

 


       ◇◆◇

 


 

 ――小さな手が、ぎゅっとマントの端を掴む。

 歩き出した父親は、引っ張られていることに気付いて足を止めた。
 行っちゃうの? と、涙を目尻に溜めながら見上げると、彼は酷くすまなそうな、辛そうな顔で頷いた。

 嫌だ。そんなのは、嫌だった。

 どうして自分を置いて行くのか? 
 自分を嫌いになってしまったのか?
 
 悪いことをしたなら謝るから。頭が悪いならもっと勉強するから。魔法だって上手になるよう練習するし、息子として恥ずかしくないようにがんばるから。

 だから――行かないで。

 ボクを捨てて、そんな血の繋がりもない子供のところへなんて行かないで。

 あなたの息子はボクです。
 あなたの子供はこのボクです。
 そんな女の子じゃない。あなたを父親と呼んでいいのは、ボクだけなんだから……!

「すまんな、アンジェロ。儂は行かねばならん」

 心の中の叫びは声にはならない。
 遠くからじっとこちらを見つめる金色の髪と瞳をもった幼い少女を見て、大好きな人は言う。

「元気に育て。頭が良くなくてもいい。魔法だって上手くなくていい。ただ、健やかにあれ」

 軽く頭を撫でて――そうしてマントを強く翻して、たった一人の家族は行ってしまう。

 追いかけようとした足は動かなかった。
 去っていくその背中を追いかけたくても……また振り払われてしまうのが怖くて動けなかった。

 結局、その場から一歩を動くことができず、父は最後まで振り返ることなくいなくなってしまった。

 行かないで、お父さん。ずっとボクと一緒にいて。

 そんな言いたかった言葉も最後まで言えなかったけど……ねえ、お父さん。もしも言うことができていれば。

「あなたは、ボクも一緒に連れて行ってくれましたか?」






 ――とても、悲しい夢を見ていたようだ。

 夢の中、投げかけられた疑問に答えを出す前に、ルドールは目を覚ました。
 視界に映り込んだのは凍りついた天井。僅かに溶けた氷から、ポタポタと水滴が頬に落ちてくる。

 その冷たさにどうやら起こされたらしい。はて、どうして自分はこんなところで寝ているのか?

「ぐ、身体が……」

 全身に走る痛みを堪えながら身体を起こそうとして失敗した。両腕がまるで石像にでもなってしまったかのように動かない。

「なんだ、これは……?」

 頭にもやがかかったように、眠る前のことを思い出せなかった。
 それでも、両手が異常を発していることだけは間違いなかったので、ルドールは首だけ起こし、まったく動かない自分の手を見る。


 ――そこには、白い線が奔る自分ではない誰かの両腕があった。


「ギ、がグッ!」

 自分の肩と繋がったモノを認識した瞬間、焼け付くような痛みが肩口で爆発した。まるで強引に引き裂かれた腕を、焼けたマグマで無理矢理溶接させられたかのよう。魂を引き裂く痛みにのたうち回ったことで、ルドールは自分の横に置かれた遺体に目を向けることになった。

 その遺体には両腕がなかった。
 安らかな死に顔をした彼は、ルドールの息子の顔をしていた。

 アンジェロの遺体の横には、切断された人間の腕が二本転がっている。
 繋がっていたからわかる。あれこそが本物のルドールの腕だ。ならば今自分にくっついている、この異物は何なのか?

 問うまでもない。輝く『儀式紋』が、灼熱と共に全身を循環する血液が、全てを教えてくれていた。

「アンジェロ、お主は……」

『儀式紋』のラインが、引きちぎられた血管の代わりに心臓を震わせていた。親子であったことが幸いしたのだろう。ルドールの心臓は息子の血液を異物と見なすことはなく、全身へと循環させていた。

 そうして、ルドールは自分が息子を殺してしまったことを知る。

 自分を助けるために息子が死んだ――ならば、他でもなくアンジェロを殺したのはルドールだ。良かれと思ってこの都へ来たことで、たった一人の息子を殺してしまったのだ。元より、このような結末しかないとわかってはいても……ルドールは止めを刺そうとしたとき躊躇し、その隙をつかれて槍に抉られたとき、はっきり安堵した。

「生きろというのか。儂に、こんな老いぼれに、まだ生き続けろと……」

 結局は禁忌を犯した男が死に、禁忌を正そうとした男が生き残った。誰もが正しいと認めるこの結末を、しかしただ一人ルドールだけが異を唱える。

 ……思い出すのは、自分がアンジェロの許を去ったときの夢。

 あのとき最後まで黙っていたアンジェロが抱いた心の声を知り、はらはらと、ルドールは床にうずくまったまま涙を流す。
 アンジェロ・リアーシラミリィが罪を犯したというのならば、その発端を作ったのはルドールである。父としての責務を果たさず、子供を一人にした結果がこれなのだ。ならば、真に責められるのは果たして誰か?

 わかるのは、あのときアンジェロを連れて行ったのならば、このような結末は訪れなかっただろうということ。

「……すまなかった。最低の父親で。何も出来ない、愚かな父で……」

 懺悔の言葉を口にしながら、ルドールは今や自分のものとなった腕に渾身の力を込め、起きあがる。

「だが……ならば……儂はここでうずくまってはいられない。……愚かな父であっても、儂はせめて……まだ間に合うかも知れない、絆を……」

 息子の記憶の一部を知ったルドールはその子の存在を知った。

 アンジェロによって生まれる前より装置として扱われ、生まれた後も人間として当然あるべきものを与えられなかった少女。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』と呼ばれて儀式の核を担っている彼女は、他でもない、アンジェロの娘であり自分の孫であることを。

「今行くぞ。クーヴェルシェン……!」

 最低の父親だった――ならば、せめて残った孫娘だけは何としても……!

 息子を失った老人は、最後に贈られた呪いに突き動かされるまま歩き出した。その右手の中指には、真紅に輝く指輪が輝いていた。


 



「なんで、アナタ、なんで……!」

 ターナティアは神殿の中を、ただ走っていた。

 思考はまとまらず、今は何も考えられなかった。アンジェロに言われた言葉が頭の中をリフレインし、精神をズタズタに引き裂いていく。信じられないという気持ちと信じたくないという気持ちが混ざり合って、精神を追い詰めていく。

 それでも、頭のどこかでは受け入れてしまっていた。

 愛した夫は自分のことを愛してくれていないのだと。それどころか憎み、恨み、殺そうとしたことを。

「ああ、なんで? どうして? 私は、あなたのために全部捨てたのに……」

 ターナティアは足が動かなくなり、呼吸がおかしくなったところで、壁にもたれかかるようにして歩みを止めた。

 今自分がどこにいるのかもわからなければ、足場が本当にあるのかと思うくらいふわふわしていた。現実味がない。まるで夢の中にいるよう。あるいは、本当に夢を見ているのかも知れない。悪夢を。

「そう。そうだ。そういえば、ドラゴンは悪夢を見せるんだった……」

 ふと、ターナティアはその事実を思い出す。

 悪夢を見せるドラゴン。人の弱さにつけ込んで、魔力を吸い上げる三眼の魔竜。
 いつ引き込まれてしまったのかはわからないが、どうやら、自分もドラゴンの特異能力に飲み込まれてしまったらしい。

「夢。これは夢。悪い夢……そう、そうよ。あの人が私を悪く言うはずなんてないもの。あの人は優しくて、ずっと、ずっと、誰よりも何よりもずっとずっと私のことを愛してくれているはずだもの」

 ああ、良かった。と、ターナティアは胸を撫で下ろす。
 
「なんて悪夢なの。さっさと眼を覚まさないと」

 ターナティアは壁を支えに歩き出しながら、夢から覚めるために自分へ言い聞かせる。

 これは夢。アンジェロの言葉は全て嘘。

 しかし、どれだけ夢を否定し、現実を肯定しても、一向に目が覚める気配がない。何か特別な方法が必要なのかしらと首を捻ったところで、ターナティアは自分が地上へと続く階段の前まで来ていることに気が付いた。

 耳には、悲痛な叫び声が届いた。

 嫌な臭いが地上へ続く扉から漂ってきている。人が焼ける臭いだ。顔を顰めて服の袖で鼻を塞ごうとしたところ、自分の左腕がないことを思い出す。

 ……あれ? 腕がなくなったのは果たして現実のことか? 夢のことか?

「これは、夢? 腕がないのも夢? 現実の私は腕があって、いやでも、あのときはまだちゃんと目が覚めて……」

 自分はいつから夢の中にいるのか? ディスバリエに助けられたとき? カトレーユと戦ったときは? そういえばディスバリエは閉じていた瞳を開いていたし、カトレーユの強さは異常だった。もしかしたらその前から夢の中にいたのかも知れないし、違うのかも知れない。

 いや……それを言ったら、アンジェロと出会い、恋したことも全て、夢なのかも……。

「あ、あああ、ああああああああアア! 違う! 違う違う夢じゃない! 夢じゃないの! あの人と出会ったのは現実で、だけど愛してないって言われたのは夢で! 腕をなくしたのは現実で! い、いや違う、それは夢で……!」

 わからない。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。その境界線がわからない!

「確かめないと。そうだ。眼を覚ましてしまえばはっきりする……」

 ターナティアはふらふらと身体を揺らしながら、一歩、一歩と階段を上っていく。

 目の前には扉。ターナティアには、それが自分が眼を覚ますために必要な、この悪夢から脱却するための現実へ繋がる扉のように見えた。

「そう、現実にいる私の目の前には、私に微笑みかけてくれる優しいあの人が、きっと……」

 輝かしい現実を夢見て、ターナティアは扉を開く。

 目の前には――三つの血のような瞳。ぎょろりと、ドラゴンの顔がターナティアの顔を見つめていた。

 さて、これは夢なのでしょうか?
 それとも、現実なのでしょうか?

 地獄への階段を上りきったターナティアは、大きな口を開くドラゴンを見て、壊れた人形のように笑った。

 ああ、決まっている。これはきっと――……。

 

 

 

       ◇◆◇

 

 

 

「きっと、誰も彼もが惨劇の中にある」

 カトレーユ・シストラバスは限界を迎え、手の中で溶け崩れていく剣を放り捨てながら、誰に語りかけるでもない独り言を呟く。

「現実は夢に侵蝕され、夢は現実の影響を受けて血にまみれた。絶望と慟哭が空を裂き、ドラゴンの咆哮が地を分かつ……人、それを地獄と呼ぶ」

「されど、そんな地獄だからこそ、希望の種は芽吹く」

 しかし、それに答える者がここにはいた。
 ディスバリエ・クインシュ。あるいは、アーファリム・ラグナアーツ。水色の髪の少女はにこやかに微笑み、地上の地獄を肯定する。

「諦めないでいれば、きっと、いつか新世界の光は差し込んでくる。地獄は一時のもの。永遠には続かない」

「なら、その一時の地獄に灼かれた人々の絶望はどこへ行くの?」

「あたしが」

 否、それは肯定ではなく否定なのだろう。
 その必要性は認めているが、そんな世界の在り方は悲しく思う。できれば地獄なき光があって欲しい。

「あたしが、全て引き受けます」

 そう願うロマンチストの夢は、やはり現実に汚染されてしまったのだろう。

「絶望を背負って、慟哭に共感し、その痛みを束ねて地獄に穿つ孔を開けましょう。一刻も早く地獄を終わらせるために。人が、誰しも笑って生きられるように」

 地獄を誰よりも否定しているのに、誰よりも地獄を欲している。
 その矛盾。そうせざるを得なかった狂人の心を思えば、カトレーユの答えは一つしかない。

「幸せになるために、か」

「みんなが、幸せであって欲しいと思うから」

 惜しみない罵倒をもって、このつまらない劇を終わらせる。
 喜劇であって欲しかったこの日を、こんな惨劇に変えてしまった誰かは明らかで。その結実に、今こうして立ち会っているのならば。

「地獄を終わらせる」

「そう、これより地獄を終わらせる『虹』を描きます」

 紅き騎士の理想も、父を追う子の夢も、この世界の在り方への疑問も、狂うまで歩き続けた少女の巡礼も……

――君を守るよ』

 守ると言ってくれた、そんな愛も全て置き去りにして、カトレーユにはやらなければならないことがある。

「わたしは竜滅姫。あらゆる全てに、終止符を打つ者」

 さあ、幕を下ろそう。
 さあ、幕を閉ざしてやろう。

 惨劇の終わりはやってきた――そろそろ、夢から覚める頃合いだ。

 

 

 

 地上がそれぞれの戦いようを見せている間も、ゴッゾは悪夢の中を彷徨い続けていた。

 その中で、否応なく地上の様子をゴッゾは見せつけられていた。
 悪夢はドラゴンの行動を反映するのが、地上で起きた殺戮の風景を、ゴッゾは夢の中で再現させられていた。
 
 それは一つとして救いのない、殺人風景。

 そうして夥しい数の死を見せつけたあと、悪夢は一つの定型を作り出した。

 暗闇の中、ゴッゾの目の前で佇むのはカトレーユ。
 これまでの反応から、これが最もゴッゾ・シストラバスにとっては悪夢にふさわしいものと学んだのだろう。延々と、あらゆる方法で彼女一人が殺される。

「痛い」

 淡々と、彼女は言う。

「苦しい」

 彼女の声で、彼女の顔で、訴えてくる。

「どうして?」

 どうして、と。泣きながら。

「どうして、わたしを助けてくれないの?」

 カトレーユは言って、そしてドラゴンに殺される。

 悪夢だ。とても酷い悪夢だ。
 きっと、この悪夢は目を覚ましても忘れない。この悪夢を思い出して、飛び起きる日が来るだろう。

 現実と夢の境界線を侵す悪夢……。

 しかし、夢だ。これは現実ではない。
 今ようやく、ゴッゾは確信をもってそう言い切ることができた。

「ああ、そうだね。私はお前を助けたいと思っている」

 幾度殺され、幾度蘇り、また殺されたか。手の届かない場所でその繰り返しを見せつけられたゴッゾは、叫びすぎて掠れた声で独白した。

「守りたいし、守ってあげたいと思っている。私は男だし、柄ではないが、お前の騎士にならなってもいいと、そう思うんだよ。力はないし、いい年した老いぼれ爺にも勝てないような情けない男だけど、その心だけは本当だ」

 手を伸ばす。涙を流すカトレーユの姿は、まるで人形のよう。

 それもそうだろう。これが夢だというのならば、このカトレーユはゴッゾの頭の中から作られたものだ。今まで一度もカトレーユが涙を流すところを見たことがないゴッゾが、その涙を想像できるはずがない。

 そして、

「けれど、カトレーユ。お前はきっと、そんな私の行いを面倒くさいと笑うんだろうね」

 本物のカトレーユは、きっと、守って欲しい、助けて欲しいなんて言わないだろう。

 これまでの竜滅姫がそうだったように、責務を否定するその一言は決して口にしない。自分が我が儘だと理解しているから、自分を守ろうとする我が儘を否定こそしないが、歴代の竜滅姫は誰一人として弱音を吐いたことがない。

 守って欲しいという言葉も、救って欲しいという言葉も、ない。

 だから目の前にいるのは本物のカトレーユではない。ドラゴンが作り出した、ゴッゾ・シストラバスが作り出した、嘘の竜滅姫。

 そうと気付いた瞬間、闇に包まれた世界に亀裂が入っていく。ドラゴンの姿が泡と消え、カトレーユの姿も掠れていく。

 その頬にそっと、自分の夢を取り戻したゴッゾは触れて微笑む。

「まったく、お前は本当に私の思い通りになってくれないね。カトレーユ」

 だからこそ惹かれたのだろう――そう思いながら、ゴッゾは悪夢から目覚めた。









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