第十一話 見捨てられたもの アーファリムは後ろから第二の天馬の使徒を抱きしめ、 「――元の身体に戻ります」 そう一言告げて、目を閉じたまま[共有の全]を断った。 そのまま彼女の身体は力を失い、水色の髪を揺らしながら床に倒れ込んだ。 小さく吐息を吐き出したエルフの少女は、今度は逆に人形になった自分のかつての身体を見下ろすと、「よいしょっ」とかわいらしくかけ声をかけながら立ち上がった。 「ん、やはり身体が強ばってしまってますね。指が痛いですし」 「うわっ、おっさんくさい」 「失礼です! まだ本当に生まれたばかりなんですから!」 酷く心外だという感じでアーファリムは怒った。 「ねえ、自覚してる? 今の、まるで昔みたい」 「え?」 アーファリムは自分が自然と出していたかわいらしいポーズを、我に返って顧みている。 腰に手を当てて、頬を少しだけ膨らませ、怒らないといけないから怖い顔をがんばって作りながらの『めっ』――何とも子供みたいな仕草で、アーファリムはそそくさと手を下ろすと、長い耳まで赤く染めてコホンと咳払いをした。 「それはともかく、ここから先はあなたにもちゃんと働いてもらいますからね」 「もち」 「本当にわかってますか? そもそも、どうしてこんな大騒ぎを起こしているんですか? あたしが呼びに行くまで、ちゃんと待っていてもらわないと困ります」 「む? それは聞き捨てならないね。そっちが秘密主義だから、付いてきてくださいとか言った癖に、牢屋に入れられるは、不細工な男たちには獣臭い吐息を吐きかけられるは、散々だったんだから」 「そ、そうだったんですか。それは、そのぅ、申し訳ありませんでした……」 ツンツンと人差し指を付き合わせながら謝ってきたクーヴェルシェンは、再び我に返って頬を染める。 「あうぅ、つい気が緩んでしまいます。久しぶりにお話できたことは大変嬉しいのですが、今はやらなければならないことがあるというのに……」 「確かに、あんまりもう時間はないかな」 「ですね。はい、真剣にやります」 アーファリムは自分の身の上とこれまでのことを説明したあと、ぐっと両手を握りしめてピンとエルフ耳を立てた。気合いが入っているらしい。 「それで……」 そのままこちらを見てきたアーファリムは、そこでふいに口を閉ざした。話しかけたいのだが話しかけられない、そんな顔を。 「ああ、わたしの名前か」 どうしてそんな顔をしているのか、気が付くのは簡単だった。再会したとき、まず彼女は自分の名前を名乗った。そうしないとなんて呼んだらいいかわからなくなるからだ。彼女も自分も多くの名前を持っていたし、自分に至っては名前そのものが形骸化して久しい。 しかし、それでもあえて名乗るとしたら……。 「――カトレーユ・シストラバス」 カトレーユは、その名前を選んだ。 「まあ、そう呼んでくれればいいよ。あんまり名前とか気にしない方だから。むしろ、わたしの方が今はなんて呼ぶべきかわからないね。アーファリム? ディスバリエ? それとも――」 「――クーヴェルシェン・リアーシラミリィと」 アーファリム――否、クーヴェルシェンは自らの胸に手を当てて、同じように一つの名前を口にした。 「どうか、そう呼んでください。アーファリムという名前を捨てるわけではありませんが、こうしてあなたと同じように新たな身体を手に入れ、新たな道を歩むと決めた以上、この福音の名がふさわしいと思うから」 「クーヴェルシェン、か。それじゃあクーって呼ぼうか。長すぎ」 「えっと……では、それでよろしくお願いします」 「了解」 一応、クーヴェルシェンとしては真剣に気持ちを語ったつもりなのだろうが、カトレーユは相も変わらずマイペースに流した。 「相変わらずですね、本当に」 「まあ、わたしだからね」 クーヴェルシェンは苦笑し、そのあと真剣な顔になった。 「カトレーユ。あたしはこれより『神の座』へと至ります」 「それじゃあ、わたしは疲れたし、ここで休憩しながら見学してる」 カトレーユは巫女の椅子に腰掛けると、頬杖をついて儀式を見守ることにした。ことここに至っては、カトレーユに手伝えることは何もない。むしろ今手を出しても邪魔になるだけだ。ここまで一人でがんばったのだから、最後までがんばってもらうとしよう。 そう、伝えた目的のために方法を模索し、準備を整え、この日にこの場所で実行に移したのはクーヴェルシェンだとしても、 だから――惨劇を喜劇へ戻さないといけない。 さっきまでは強い人たちに足止めされていたが、その人たちも焼き、踏みつぶし、喰らってしまい、今は街や残った人々に対して同じことをしている。悲鳴が轟き、子供の泣き声が悲痛に木霊する。 地獄というものがあるとしたら、きっと、それは今目の前に広がっている光景のことをいうのだろう。 そう、ソレは考える。 ドラゴンと意識を同調しているソレは、淡々と、雑音にまみれながら眺めている。 そこにあるのは虚無。感情も何も差し込まない真っ白な心。 人が焼ける臭いを嗅いで興奮し、人を踏みつぶす感触に快感を覚え、人を喰らうその味に酔いしれる。 まるで合わせ鏡だ。今ソレがドラゴンであり、ドラゴンこそがソレだった。 そんな人形であり装置であったソレに、ふいに、疑問が芽吹く。 ――そう、このワタシにとって、地獄の世とは嘆き悲しむもののはずなのに。 機能からしてはあり得ないはずの、自分の感情が生まれる。 ――なぜワタシは、こんなにも悦んでいるのでしょう? その疑問に、感情に、すぐ答えはもたらされた。 空っぽだったソレの中に、確かな中身をもったヒトが注がれる。 ドラゴンと意識を同調したまま、自己を取り戻したクーヴェルシェンは、途端、目の前にあった地獄の光景に顔を顰める。 (なんて、酷い光景) 不快感が、ドラゴンという小さな世界の中、架空の肉体を創り出す。クーヴェルシェンは焦げた臭いに鼻を押さえるために顔を、踏みつぶす感触から逃げるために身体を、血生臭い味に吐き気を催すために内臓を創りだす。 それは所詮架空のものでしかない。ここにいるクーヴェルシェンは精神と魂だけの存在だ。肉体は未だにベアル教の神殿にあり、今こうして二つを[共有の全]という魔法で繋いでいるに過ぎない。 (ごめんなさい。今のあたしには、何もすることができません) 目の前で生きたまま焼かれ、踏みつぶされ、食われる人に謝りながら、せめてこんな惨劇をこれ以上続けさせないために、クーヴェルシェンは目を閉じた。 意識的に外界への接続を断った瞬間、周りに満ちていた目の見えない雑音が大きくなる。 (あたしにできることは、せめて、その犠牲を価値あるものにすること) クーヴェルシェンは雑音の中、『儀式紋』を動かして、ドラゴンの意識に埋もれていたその術式を掘り起こした。 それは転生の術式。この世界を回すシステムの一つになった、始まりのドラゴンへと繋がる鍵。 それは同時に、クーヴェルシェンが辿り着かなければならない地点へと続く道でもあった。 (見つけた) クーヴェルシェンがディスバリエ・クインシュとして、三十年あまりをかけて準備してきたものが、ここに結実する。 術式を手に入れた瞬間、ドラゴンの咆哮が遠のき、雑音が世界を満たす。 (ああ、そうか……) 世界は滅び行こうとしている―― いつでも空に浮かんでいた黄金の月―― 月から見た姿は蒼い星であるとばかり思っていたが、違った。そこにあったのはノイズで汚染された世界であった。色とりどりの光が幾重にも星を取り巻き、ガスのように充満している様は、一目で死に行こうとしているとわかった。 「あれが、あたしたちの世界。死に行こうとしている世界……」 クーヴェルシェンは息を飲む。 「やはり神は間違っていなかった。あたしは間違っていなかった。この世界を救おうと思うのならば――」 後ろを振り返れば、どこまでも色褪せた大地の上に、光り輝くヒトガタの存在が浮いていた。文字通り、夢にまで見た相手だ。 『よくぞここまで辿り着いた。此処こそが、汝らが『神の座』と呼ぶべき場所。新人類に進化せずともこの場所まで辿り着いたこと、まずは褒め称えよう』 「ありがとうございます。我が神――マザー」 そう、この場所こそクーヴェルシェンがアーファリムだった時代、追い求め続けたオラクルの先にある『神の座』だ。 「しかし、本当の儀式はこれからです。悲しいことですが、あたしには新人類へ辿り着く才覚がありませんでした。こうして時間をかけ、本来守るべき命を犠牲にし、ドラゴンを使わなければ踏み入れることすら叶いませんでした」 『肯定。汝は新人類になることが叶わなかった。しかし、魂と精神だけとはいえ、ここへ辿り着いたことは驚嘆に値する。そして、本当の救世主を招く鍵となるには十分だ』 灰色の大地の上、生まれたままの姿で膝を抱えて眠る女の子。白銀の髪を広げ、灰色の大地と空に白い点を生み出しているのは『新人類』――そう呼ばれる、十のオラクル全てを達成し、高次元の存在へと進化した使徒だった。 「…………」 緊張で指先が凍る。恐怖で喉が干からびる。 「…………アーファリム……」 殺意と憎悪が物理的な衝撃を伴ってクーヴェルシェンを打ち据える。 千年近い年月を隔てて再会した親友は、別れの日、一方的に裏切ったあの日と同じように、慟哭の咆哮を放った。それは猛毒となってクーヴェルシェンの身体を蝕んでいく。 「赦さない。……絶対に、赦さないッ!」 それでもクーヴェルシェンは動じない。 『さあ、アーファリム・ラグナアーツ。汝に与えられた役割を果たせ』 クーヴェルシェンの決意を後押しするように、マザーが言った。 「ぐっ!」 しかし、拘束されているのは彼女ではなくメロディアの方らしかった。 メロディアは立ち上がった状態で身体を動かそうとするが、指先一つ、瞬き一つできないようだった。かつて誰よりも自由だった魔法使いは、この封印の中にあっては小鳥のようなものらしい。 「何を、何をする気なのよ!」 唯一自由な口でメロディアは吠え立てる。 閉じることを許されない瞳からは反射からか涙が零れ、クーヴェルシェンとマザーに対する憎悪が呪詛のように紡がれた。 「また、わたしに何かする気なの? また、わたしを苦しめるの?」 「……行きます」 「ねえ、何か答えなさいよ! 答えてよ、アーファリム!」 両頬を押さえて顔を近付けたクーヴェルシェンの顔に、メロディアの瞳から流れた涙が触れる。 温かい、涙だった。 「あなたを救うためでもあるんです、メロディア」 思わずそう吐露してしまったのは罪の意識からか。 「あなたに水を」 その目をまっすぐ見返して、クーヴェルシェンは歌った。 「―― あなたに水をあげましょう ――」 それは幾度となく歌った歌。親友たちと、仲間たちと共に歌った歌。 「―― 種を植えて ――」 どんな絶望が目の前に広がっていても、決して諦めない、挫けない、力を合わせ、絆を信じ、地獄の世を終わらせようと誓った歌。 「―― 芽を芽吹かせて ――」 この歌を大好きだと言ってくれた、もう言葉を発することができないメロディアは、首を嫌だ嫌だと横に振る。 「―― 背丈を伸ばし、葉を茂らせて ――」 これは人を応援する歌。けれど同時に人を縛る歌でもあった。 ――アーファリム・ラグナアーツの命令は、誰であっても拒絶できない。 それをメロディアは知っている。そして、賢い彼女はこれから自分が何をされるか、それに気付いたのだろう。 止めて、と。涙で潤んだ瞳が語っている。 それでも歌う。クーヴェルシェンは止めない。 「―― あなたに水をあげましょう ――」 「―― あたしはただ水をあげることしかできないけれど ――」 そうして、いつか、このがんばった結果猛毒になってしまった友達が普通に暮らせる世界を作ること――それが唯一できる罪滅ぼしと、そう信じてやってきた。 「―― それでも愛だけは贈れるから ――」 クーヴェルシェンは信じる。 歌と共に注がれた、強制させる力が効力を発揮する。 「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!!」 「きゃっ!」 その瞬間、メロディアは喉をそらせ、この世のものとは思えない異音を迸らせた。同時に彼女を中心として虹の衝撃波が吹き荒れ、クーヴェルシェンを吹き飛ばす。 『アーファリム・ラグナアーツの有する特異能力【花咲かす歌】の発現を確認。これより、増幅作業に入る』 まるで守るように、マザーがクーヴェルシェンとメロディアの間に移動した。 「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!!」 マザーの足下から、短い光のパルスが放たれ、灰色の荒野を走り抜ける。それは空にも及んだ。 「マザー、これは……?」 つまりクーヴェルシェンが使った特異能力は、今まさにマザーによって増幅させ、メロディアを縛り上げようとしていた。 必死の形相でメロディアは拒絶しているが、封印されている身。 「メロディア……」 もうこうなった段階でクーヴェルシェンはもちろん、マザーにもすることはなくなった。 増幅され続ける力と、それに抗い続けるメロディア。あとはメロディアの拒絶を、クーヴェルシェンの力が上回ったところで全ては終わる。 否、始まる。救いの始まりだ。 「マザー。あの、一つ質問してもよろしいでしょうか?」 メロディアの苦しむ姿をこれ以上見ていたくないのもあって、クーヴェルシェンは目の前で背中を向けるマザーに話しかけた。 返答はない。マザーはじっとメロディアを見つめたままだ。が、その背中は拒絶していないように見えた。 「メロディアは大丈夫なのでしょうか? あたしの力を使って強制させて、何か副作用などは出ないのでしょうか?」 『無論、問題はない。汝の特異能力とは人の意志をねじ曲げ、強制させる力。そのものが本来持つ力を引き出す能力に他ならない。 「そうですか。それなら良かった」 ほっと胸を撫で下ろす。 そこで、マザーが振り返った。 『――、――』 虜囚の姿が、なぜか、クーヴェルシェンには自分を睨んでいるように見えた。 『問い掛けは終わりか。ならば、汝は本来在るべきところへ戻るがいい。ここにいればいるだけ、汝の魂は、精神は、摩耗していくのだから』 「ご心配ありがとうございます。ですが、どうか最後まで見届けさせてください。救世主様を見つけ出すことは、あたしにとっても重要なことですから。だって――」 ……きっと、睨んでいるなんて気のせいだろう。 クーヴェルシェンはマザーが望んだ通りのことを完璧にやり遂げたのだから。ほんの少し、マザーの願いを伝えてきたのがあのカトレーユであり、伝達ミスがないか不安はあったが、自分に一切の不備はない。 クーヴェルシェンには自負があった。自分こそが、最もマザーの意志を反映している使徒であると。 救世の旅を始めたのも自分であるし、最初に頼られ、メロディアを封印したのもクーヴェルシェンだ。その後、いつか現れるであろう救世主のため、世界を守り、整えてきたのも。こうして乞われるがままに、あらゆる手段を講じて『神の座』まで辿り着き、メロディアを協力させたのもクーヴェルシェンだ。 そんな自分を、マザーもまた認めているはずだった。なぜならば、カトレーユは確かに伝えてくれたのだ。 『――ねえ、アーファリム。もしも今回の託宣を成功させれば、君は――……』 この儀式が終わったら―― 「あたし、救世主様に恥じない巫女になるためにがんばったんですよ。前の身体は弱くて、汚れていたから、こうして綺麗な身体になりました。もちろん、特異能力も神獣の力もちゃんと移し替えていますからご安心ください」 クーヴェルシェンは満面の笑みでマザーに伝える。褒めて欲しいといわんばかりに。 それも仕方がない。クーヴェルシェンにとって、マザーとは仰ぐべき月であり、愛すべき母である。なのに、この九百年あまり、メロディアを封印したときを境にマザーは託宣をもたらしてはくれなかったら、伝えたいことはたくさんあったのだ。 「見てください、この身体。姿形は変わらないんですが、エルフなんですよ。魔法だってすごくて、救世主様をお守りすることができるんです。髪の色も、お母様に近付けるようにって金色にしてみたんですが、似合いますか?」 『…………』 その場でくるりと一回転する。 メロディアが未だに抗っているというのに不謹慎かもしれないが、長年溜まりに溜まっていたものを押さえきれなかった。まるで大好きな母親に甘えようとする子供のように、事実そのものであるため、子供みたいな笑みをクーヴェルシェンは浮かべていた。 「えへへ。見ていてください。あたしと救世主様が絶対に、この世界も、人も、メロディアも助けてみせますから。お母様の願いを叶えてみせますからっ」 そんなクーヴェルシェンに対して、マザーはしばらく無言を貫いたあと、一言もらした。 いつでも感情を表すことなく、色々な性別、年齢に変化していた声を、メロディアそのものの声に変えて、嘲笑うように。 ようやく出せた疑問の声は、目を開けるよりも後に出た。 クーヴェルシェンは自分の身に何が起きたのかわからないまま、目に映ってる光景に、まず気を向けることになった。 目の前には、灰色の大地でも、ましてや地獄の風景でもなく、ベアル教の神殿があった。すぐ目の前にある椅子の上で、カトレーユがだらけている。 「あ、おかえり」 彼女は背もたれに体重を預け、右手を軽く前に突き出すという変な格好をしていた。まるでダーツでも投げたあとのような体勢だ。 ……あれ? と、何かがおかしいような気がして、クーヴェルシェンは小首を傾げた。 たとえばそれは自分の言葉に対するマザーからのおかしな返答だったり、いきなり[共有の全]が断絶されて元の世界に戻ってきてしまったことだったり、胸がジクジクと痛むことだったりと色々だったが、一番の違和感は、やはり目の前にいるカトレーユに収束される。 何かが致命的なまでにおかしいと……彼女をよく知るクーヴェルシェンは、そう思ったのだ。 ――気付いてはいけない。 頭の中で、何かが囁く。 ――気付いてはいけない。 わからない。どうしてそんな囁きは生まれるのか。だって、クーヴェルシェンにとってカトレーユは親友で、もうこの世に一人しかいない自分の全てを理解してくれる人で、いやいや、それをいえばマザーもいるのだが、こうして触れ合えるのは彼女だけで……。 「あの、カトレーユ……?」 それに気付かないふりをしたところでもう遅い。 「その、どうして……?」 震える声で、何か得体の知れないものが胸に詰まっているような掠れた声で、クーヴェルシェンは問い掛ける。 カトレーユは右手に握った金細工用の羽根ペンの感触を確かめながら、いつも通りの軽い調子で質問に答えた。 「何を、何を言っているんですか? 聖骸聖典は、必要なくなった使徒のために創るもので……やめてください、そんな冗談。いくらカトレーユでも、笑えません……」 渇いた笑い声を上げながら、クーヴェルシェンは無性に胸を掻きむしりたくなった。さっきから、とにかくそこが痒いのだ。痒くて痒くてしょうがなくてだけど見るのが怖くて痛い痛い痒いイタイ―― そうこうしている間も、カトレーユは羽根ペンを、まだ誰のものでもない聖骸聖典の表紙に這わせ、そこにこの世にはない黄金で細工を施していく。彼女の密かな特技である金細工は美しく、遠目から見ても何を描いているか判別できた。 「よし、できた。我ながらいい出来だね」 どうやら、まだ彼女流の冗談は続いているらしかった。 だってそうだろう? これが冗談以外の何であるのか。聖骸聖典の背表紙に描かれた神獣がクーヴェルシェンの神獣の形でもある『天馬』であるのは、一体どんな冗談以外で語れるものなのか? ――ああ、しかし、胸が痒い。痒くて痛くて、気が狂ってしまいそうだ。 身体からふいに力が抜けたクーヴェルシェンが、その場に膝を付いた。 「あ、あはは、何をやって、いるんでしょうか?」 照れ笑いを浮かべながら、クーヴェルシェンは身体を起こそうと地面に手をつけて、 「なに、を……」 刀身の半分まで突き刺さったドラゴンスレイヤーの切っ先は、細いクーヴェルシェンの身体を突き破って背中から出てはいなかった。同じように血も出ていない。まるで品のない手品のようだ。 しかし、クーヴェルシェンは知っていた。 さっきから感じていた不快感は、魂にドラゴンスレイヤーを突き立てられていたからなのか。それは[共有の全]も断絶するはずだ。死神の鎌が相手では、流石に分が悪い。 「……どうして、なんですか?」 クーヴェルシェンは起きあがることもできず、打ちのめされたまま、怯えた瞳でカトレーユを見た。 「どうして、なんで、あたしにドラゴンスレイヤーを打ち込むんですか? 使徒が不必要になるかを判断するのは、マザーのはずでしょう?」 クーヴェルシェンは理解していた。自分がどんな状況に陥っているのか。しかし、受け入れてはいなかった。できるはずもなかった。 「……そうだね。ちゃんと説明するのが、ここでのわたしの役割か」 掠れた叫びに、カトレーユは小さく溜息をついて、聖骸聖典を持ったまま椅子から立ち上がる。 「と言っても、答えなんて一つだけなんだけど。 「…………う、そ……?」 「そう、真っ赤な嘘。わたしがマザーから頼まれたのは、クーに協力してもらうことだけ。けど、神様は酷いからね。そのまま伝えたら絶対協力なんてしてくれないと思ったし、ちょっと嘘をついてみたんだ」 悪びれた様子もなく腰に手を当て、カトレーユはクーヴェルシェンを見下ろした。その瞳には温かいような、冷たいような、どっちつかずではあるが愛情めいたものが浮かんでいる。 「まあ、けどこうなったからには本当のこと言うべきだよね。マザーが言うには、こういうことらしいよ」 ――気付いてはいけない。 何度も頭に引っかかった危惧を、そうしてクーヴェルシェンは知ることになった。 それでも受け入れられない。それが本当のことだと、クーヴェルシェンは受け止められない。 「嘘。嘘嘘嘘嘘っ、そんなのは嘘です!」 頭を抱え、首を横に振って耳を塞ぐ。 「だって、あたしは求められて……世界を救うためにがんばって来ました。ずっと、ずっと、酷いことも苦しいことも悲しいことも嫌なことも我慢して、ずっとずっとずっとがんばって来たんですよ?」 「それは神様だって認めてるよ。わたしなんかよりもよっぽどがんばってた。最初から最後まで。だから、最後に必要な儀式をお願いしたんじゃないかな?」 「だったら!」 「けど、この先クー自身が救世主になる可能性はないって、そう判断したんじゃない? ほら、使徒の役割ってオラクルを全て果たすことなのに、クーってばもう完璧に諦めてるし」 「それは、だって、あたしには世界を救う力なんてなくて! だからせめて、救える人を助けようって……応援しようって!」 「それ、自分がそう思っただけじゃないの? それとも、マザーがそう頼んだの?」 頼まれてはいない。自分が気付いて、自分が選んで、自分が託した、これは祈りだ。 「違う。違う違う違います! 嘘! こんなのは嘘です! だって、だってあたしはマザーと同じ考えです! 世界を、人を、どれだけ時間がかかっても救いたいってそう思い続けているんですから!」 「だから、さ」 カトレーユは紅い髪をかき上げる。その仕草は、どこか苛立たしげだった。 「いい加減気付きなよ。あの酷い神様が、本気で世界や人を救おうとしてるわけないって」 「そんな、こと……」 そんなことはない。なぜならば、クーヴェルシェンは聞いたのだ。確かにこの耳で聞いたのだ。マザーの目的は世界を、人を救うことだと。そのために遙かな年月を生き続けてきたのだと。 だから――それを否定する、カトレーユの方が間違っている! 「……そう、そういうことですか」 「ん?」 「あたしに嫉妬しているんですね。あなたじゃなくてあたしが救世主様の巫女に選ばれたから、嫉妬しているんですね? だからこんな酷いことをして、嘘をつくんですね?」 「おっと。これは予想外」 クーヴェルシェンは立ち上がると、胸から剣を引き抜いた。それは魂に食い込んでおり、強引に引き抜いたことでナニカが抜け落ちたが、そんなことは気にしない。 「酷いです。本当に、酷い。いくらあなたが相手でも、流石にここまでされたら、あたし、怒ります」 ドラゴンスレイヤーを放り捨てて、クーヴェルシェンは魔力を解放する。 「そうです。昔から、あなたはいつもそうやって飄々として、不真面目で、人をからかって……あたしがお礼をしても、幸せに暮らせる場所をプレゼントしようとしても、いつも気まぐれに拒絶して……酷い、友達、です」 「ふ〜ん。そういう風に思ってたんだ。まあ、確かにわたしは面倒臭がり屋だし、無意味な戦いも施しも無視してたわけだけど」 部屋中の冷気を操って、クーヴェルシェンはカトレーユの足から凍らせていく。 殺すつもりはない。殺すなんてとんでもない。彼女は大事な、大事な、とても大事な友達だから、そんな酷いことなんてしないけれど、それでも、先程の嘘だけは撤回させないといけない。 「わかった。それなら直接、マザーに聞いてみるといいよ」 そんなことを事も無げにカトレーユは告げた。 「そう、そうですね。最初からそうするべきでした。他でもない、マザーに直接問い掛ければいいんですよね。がんばって、がんばった、がんばり続けた今のあたしには、それができるのですから。最初に出会ったあの日から、ずっと、がんばって……」 そういえば、カトレーユの方は何もしなくても、いつでも神様と連絡が取れるらしいけど。 「あたしは、絶対に、見捨てられてなんて、いないんですから」 「マザー」 クーヴェルシェンは先程のカトレーユの話について尋ねようと手を伸ばす。 『汝、また来たのか』 伸ばした手がマザーに触れようかという直前、彼女は振り返って――空虚な、何の感情も宿っていない瞳で、言った。 バチン。と、目の前で静かに幕が閉じ、再びクーヴェルシェンの視界が凍りついたものへ戻る。 目の前には、紅の髪を踊らせる死神。 胸には、再び死神の鎌が突き刺さっていた。 「ねえ、教えてください……あたしたち、友達では、なかったんですか……?」 「何を今更。親友に決まってるじゃない」 真紅の死神は、この上ない親愛の笑顔を浮かべて、 遠のいていく意識。白濁していく世界。 ――ねえ、メロディア……痛かった、よね? かつて、自分と同じように親友の手にかかった、少女への懺悔。 ――ごめんね。メロ、ディア………… 支えを失った小さな身体が、冷たくなった床に倒れ込む。 瞳は世界を拒絶するように固く閉ざされたままだが、死んでいるわけではない。仮死状態になっているだけだ。ただし、肉体ではなく魂の仮死。カトレーユが解かなければ、二度と目覚めることがないという意味では、すでに死んでいると言っても間違いではない。 「とはいえ、オーダーは完全に消し去ることだし」 まったく神様は酷いものだと思いながら、カトレーユは再びドラゴンスレイヤーを振り上げた。 「じゃあね。ありがとう。それと――ごめんなさい」 そして一言だけの感謝と謝罪を共に、さっきまで笑顔で語り合っていた友達に向けて容赦なく剣を振り下ろした。 首を跳ね飛ばすはずだったドラゴンスレイヤーは、しかし友の血に濡れることはなかった。 カトレーユが薄皮一枚のところで剣を止めたのは、クーヴェルシェンの前にエルフの老人が割り込んできたからだった。 「ねえ、そこをどいてくれないと、その子を斬ることができないんだけど」 「そこを押してお頼み申し上げる」 ルドールはその場に膝を付くと、カトレーユにとっても予想外の行動に出た。 「どうか、この子の命ばかりはお見逃しくだされ!」 額を床に擦りつけ、命乞いを始めたのだ。 「この子は儂の孫です! たとえ父親がどうであれ、この戦いにおいてどのような役割を担ったとはいえ、この子自身には何の罪もありません! どうか、どうかお助けください!」 「孫、ね」 カトレーユはルドールの首筋にドラゴンスレイヤーを当てたまま、 「君くらいの魔法使いなら、その子が厳密な意味で普通の子供じゃないことくらいわかるよね? 罪をいえば、山ほど犯してる。君の故郷の子供たちを虐殺したのも彼女だってことわかってる?」 「たとえそうだとしても!」 ルドールは頭を一度上げると、荒々しく波立つ大海原のような、そんな蒼い瞳で言い切った。 「それでも、この子は儂のたった一人の孫娘なのです」 「…………」 その瞳を、カトレーユは知っていた。 他でもない。娘を、家族を愛し、案じる父親の瞳。この場合は祖父の瞳か。全てではないだろうが、ルドールならばクーヴェルシェンの中身がどういったものであるかは把握しているはず。それでも尚、それを是というのか。 それは世界なんてどうでもいいと考える、我が儘な思考だ。 「……彼女を生かしておけば、きっと世界にとって良くないことが起きるよ」 「ならば、そうならないように手を尽くすまで」 「……彼女を望めば、君は不幸になる」 「家族が生きていてくれる。それ以上に何を望みましょうか?」 「…………はあ、まったく」 カトレーユはドラゴンスレイヤーを離すと、鍔で肩を軽く叩いた。 (今頃神様はきっと、我が儘なわんこを愛でるのに忙しいだろうし) カトレーユはドラゴンスレイヤーを下げると、ルドールを避けてクーヴェルシェンの横に回った。 「まあ、わたしに迷惑がかからないなら何でもいいよ。……どうせ、この子はもう立ち直れないだろうし」 「カトレーユ殿!」 再びドラゴンスレイヤーを振り上げれば、ルドールが制止の声をあげる。もはや実力行使も辞さないとその目が語っていた。 「もちろん、この代償は君が支払うことになるよ。これより先、神のシナリオに関わることが許されず、自分の主を助けることも叶わない。そして神が望んだとき、その願いのままに動かなければならなくなる」 カトレーユ・シストラバス。果たして、彼女は一体何者なのか? わかっていることは、彼女がそう言ったのだとしたら、それは真実だということ。ここでアンジェロの忘れ形見を救うことは、いずれ、主であるフェリシィールを助けられないということに繋がるのだろう。 脳裏に、優しい笑みをたたえた、ルドールにとって娘も同然の人が浮かんでくる。 今頃はきっと自分を心配して、あれだけ忠告したのに軍を率いてこのオルゾンノットの都のすぐ近くまで来ているだろう、優しい人。 (しかし……許してくだされ、我が主よ) ルドールは心の中で許しを乞う。胸には、アンジェロが残した叫び声が残っている。最低の父親だと罵る愛する息子の声が。 ならば、もう迷うまい。 これから先、自分は金糸の巫女ルドーレンクティカ・リアーシラミリィではなく、この孫娘の祖父であろう。残った僅かばかりのこの命、その全てをこの子のために費やそう。 それが息子への償いであり、ルドールが踏み出した悪魔との契約。 「わかった。それじゃあ契約は成立。願いを聞き届ける代わりに、これより君は神の奴隷となる」 「ぐっ!」 カトレーユが頷き返した途端、右目が焼け付くように痛みを発した。 果たして、そこには右目に黄金の烙印を押された自分の顔があった。 「そうか。儂は、悪魔と契約したのか……」 「そう」 顔を上げ、契約を結んだ悪魔をルドールは見る。 「だってわたしは、永遠に殺し続ける不死鳥だもの」 脳に剣の切っ先を埋め込まれたクーヴェルシェンは、大きく身体をのけぞらせた。 「カトレーユ殿。一体この子に何を……?」 「見捨てられた女の子の精神を封印しただけ。言っちゃえば、普通に生まれるはずだった子に使われた反則技を戻したってことかな。詳しい話は、まあ、この場所にあるだろう研究資料を見て確かめるといいよ」 カトレーユは手に持っていた聖骸聖典のなりそこないを投げると同時に切り捨てて、ルドールの指から真紅の指輪を抜き取った。 「どこへ行かれるのですか?」 「もちろん。ドラゴンを滅しに行くんだよ」
今回の惨劇が起きることになった原因がいつ生まれたのかと言えば、きっと、その日になるのだろう。
今から三十年ほど前――
二人の女が聖地にて介し、泉の中で密やかに語り合った日が全ての原因。発端はさらに遡ることになるが、少なくともオルゾンノットの都が惨劇に見舞われた理由は、その会話が全てだった。
「ねえ、救世主ってどんな存在だと思う?」
口火を切ったのは紅い髪の女。
流れ込んでくる水が浅瀬を築いた空洞内に、いくつもあった台座の一つに腰掛けて、作業の合間にもう一人の女へ話しかけた。
「救世主、ですか?」
服が水に濡れることも厭わず、倒れた年若い紫色の髪の女性に向かって膝を折り、祈りを捧げていた水色の髪の女――アーファリムは、そのままの体勢で首を傾げた。
「もちろん、素晴らしい方だと思います。この世界を救ってくださる、まさに神様のような方だと」
「それは君の妄想でしょ、アーファリム。確かに救世主っていうくらいだから、それくらいはやってもらわないと困るけど、わたしが聞きたいのはもっと具体的な話。どんな顔をしているのか、どんな性格をしているのか、性別はどっちで、どんな力をもって世界を救うんだってこと」
「それは……わかりません」
「わかれば自分が実行に移してるって?」
「いいえ。あたしなどでは到底想像することもできない方だと、そう思うんです」
閉じた瞳で何を見ているのか。未だ現れぬ相手を信仰する友人を見て、紅い髪の女は気付かれないようため息をついた。
「そう言うと思った。少しくらいは普通に考えて欲しいものだけど」
「あなたには想像できるのですか? 救世主様がどのような方か」
「まあ、全ての現象は原因があってこそだし。それは救世主も変わらない。ほら、使徒だって元はといえば、世界の歪みって原因から生まれる特異点でしょ? わたしみたいなちょっと普通じゃない使徒も、大きな歪みが起きて引き寄せられた口だし」
「では救世主様も?」
「使徒だってことに変わりないなら、そういう特別な使徒が生まれる理由を考えれば、自ずと答えは出るわけだね。
わたしは十中八九、救世主の力を持って生まれてくる使徒は男の子だって考えてるよ」
「男の方、ですか……?」
手に持った紅の羽根ペンを動かしつつ、紅い髪の女は金色の瞳を、やや顔を曇らせるアーファリムに向けた。彼女はあまり男というものが得意ではない。
「うん。だって、昔からお姫様を救うのは白馬の王子様って相場は決まってるからね。まあ、お姫様があのワンコだとすれば、白馬じゃなくてもっと変な獣に乗ってるかもだけど」
「…………」
アーファリムは絶句すると、顔を青ざめる。そこには理解の色があった。
「気付いた? わたしたちの共通の友人であるところのメロディア・ホワイトグレイルが新人類になれたのって、マザーが過ごした悠久の果てに生まれた歪みの結晶だからでしょ? 同じものが自然に生まれるには、また同じくらい時間をかけなきゃいけない。しかも繰り返しに過ぎないのなら、また生まれてくる新人類は世界を滅ぼす猛毒になっちゃうかも知れない」
メロディア・ホワイトグレイル。特別な存在である使徒の中において、さらに特別だった少女。彼女こそ、まさにマザーが世界を歪ませながらもついに産み落とした、奇跡の子だった。
しかし、世界を滅ぼしかけるようなやり方の果てに生まれたからだろう。メロディアの奇跡とは、世界を本当の意味で滅ぼすものでしかなかった。
「なら、生み出すべきは真逆じゃないといけない。そんなメロディアを救えるような誰かじゃないとね」
世界を滅ぼす存在の真逆――即ち、救世主。
「そもそも救世主は、救うべきものと滅ぼすべきものがなければ生まれない。なら、わたしはこう思う」
大きく、その金色の瞳を見開いたアーファリムを見て、紅い女は真摯に告げた。
「メロディアが絶望の中、最後に望んだ存在こそが本当の救世主なんじゃないかって」
「…………ああ……」
唇を震わせたアーファリムが、やがて口にした小さな呟き。そこに、果たしてどれだけの想いが詰まっていたのか?
アーファリムは強く自分の身体を抱きしめた。正確にはその手の中にあった、この『聖廟の泉』に多く奉られた聖骸聖典と同じ、メロディアの聖骸聖典を。
「そう、メロディアを救える人こそが救世主様なのですね。あの子という理由があるからこそ、救世主は生まれ得るのだと……。それは望むべくもない、あたしにとっても最高の救世主様です」
「ま、確証はないけど、割と自信がある予測だよ。メロディア、わたしが封印するときに途方もない力で世界を呪って、わたしたちを罵って……それ以上に独りになりたくないって、そう泣いてたからね」
マザーが生み出した歪みを理由にしてメロディアが生まれ。
メロディアという世界を滅ぼす存在を理由にして救世主は生まれる。
いわば、世界なんてついでに救われるものに過ぎない。救世主とはただ、哀れなお姫様を救うためだけに生まれる王子様なのだ。
「とはいえ、メロディアの力って世界の境界線すら塗りつぶすから。残念だけど、そんな王子様はこの世界には生まれないんだよね」
「え?」
金細工を終えた紅い髪の女の言葉に、アーファリムは再び顔を青ざめた。今度は真っ白になるほどに。
「ちょ、ちょっと待ってください! 救世主様は、救世主様は生まれないのですか!?」
「マザーの計算ではね。いやぁ、メロディアに嫌われちゃったんだね。わたしたちも、マザーも、この世界もさ。救いなんてあげないんだからねっ、みたいな?」
「そんな……」
アーファリムの手から『聖獣聖典』が水の上に落ちる。
千年近く世界と人とを救う方法を求め続けた彼女にとって、マザーが莫大な計算の果てに導き出した予測は、到底許容できるものではないのだろう。しかし、自分が過去にしたことを考えれば、メロディアを罵倒することもできない。罪も罰もアーファリム自身にぶつけられる。
「……では無意味だったのですか? あたしの行動は、全て……」
「まさか。無意味じゃないよ」
紅い女は台座から飛び降りると、アーファリムに近付いて、拾い上げた『聖獣聖典』を差し出した。
「アーファリムは世界が壊れないようにって、ずっと見守ってたし、ピンチになったときは颯爽と駆けつけた。誰も知らないけど、ずっとがんばって来たことをわたしは知ってる」
「ですが……結局、何もできませんでした。救世主様が生まれないのでしたら、いずれこの世界は……」
「滅ぶね。でも誰もそんなことは望んでない。アーファリムも、わたしも、マザーだって」
『聖獣聖典』を友人の胸に預け、その力なく下がった肩を紅い女は支える。
「メロディアが救世主を異世界に産み落としたのなら――その異世界を探し出して、連れて来ればいいだけの話だし」
「それは不可能のはずです。神様にできないことはなくても、それはこの世界の中における話。世界の外へ干渉するには、それこそメロディアじゃないと……まさか!」
「そう。メロディアにしかできないなら、メロディアにやらせればいい」
紅い女は頷いて、小さな笑みを口元に浮かべた。
「頼んでもあの我が儘ワンコがやってくれるはずない。だから、誰かが無理矢理にでも言い聞かせないといけない。それはマザーにも、わたしにもできないこと。この世界でただ一人、アーファリムにしかできないこと」
「……あたしの特異能力【花咲かす歌】は、人の潜在能力を開花させる応援の力です……確かに、人の意識をねじ曲げることも不可能ではありませんが、メロディアほどの相手となると……」
アーファリムは顔を背けて、
「それにメロディアに会うには、それこそ新人類となって『神の座』へ至らなければなりません。……あたしには無理です」
「大丈夫。別に新人類にならなくても、『神の座』へと一時的にでも行ければいいんだから」
「そんなことが可能なのですか? あの場所は外界から隔絶されていると……」
「アーファリムが努力すれば、きっとできるよ。生憎わたしは殺すことしかできないから手伝えないけど、アーファリムには頼れる味方がいるでしょ?」
「あ……」
不安がっていたアーファリムの目が、紅い女の持つ聖骸聖典に向けられた。
紫色の背表紙に、金細工で象のような、熊のような生き物が形作られた、新しい聖骸聖典に。
「――マザー。神獣の封印を」
紅い女はアーファリムの目の前で、高々と、今はただの本でしかないものを掲げた。
すると倒れていた女性――使徒ユリケンシュに身体に異変が起こった。
彼女の肉体が足下からゆっくりと光に変わっていく。光は紅い女が掲げる本へと吸い込まれていき、やがてはユリケンシュの肉体は全て消え去ってしまった。
同時に、目に見えない異変が起きる。神獣の肉体という器から解き放たれた魂が、世界そのものに歪みを引き起こしているのだ。それは空間をねじ曲げるように軋ませ、アーファリムの魂に直接響くかのようなノイズを発生させた。
けれど、それが致命的な異変を起こす前に、魂そのものが変革する。
ユリケンシュがいた真上の空間に、突如として黒い点が発生したかと思えば、そこを基点に蜘蛛の巣状の魔力が迸り、辺りの空間を侵蝕していく。黒い点は肥大化し、やがて獣に似た姿を取ると共に、どこへともかく消え去ってしまった。
「これは……?」
「そういえば、実際にアーファリムに聖骸聖典を創るとこ見せるのは初めてだっけ」
疑問の声をあげるアーファリムに、紅い髪の女は、自分が先程まで座っていた台座に新しい聖骸聖典を手向けつつ解説する。
「まず、わたしが元となる本を創っておいて、要らなくなった使徒を仮死状態にする。次にマザーが器になっていた神獣を引きはがして、本に封印することで聖骸聖典は完成。で、残った魂は『竜滅システム』による変革を受けて、ドラゴンに変貌しきるまでマザーの管理下に置かれるわけだね」
「聖骸聖典の作成にはマザーの力を借りていたんですか? では、あなたはマザーと……?」
「定期的に連絡を取ってるよ。新しい使徒が生まれる兆しをマザーが観測したら、わたしは処刑者としての役割を果たさないといけないし、自分の巫女とはそのほとんどを共有してるわけだから。神様から託宣をもらう理由はあるってこと」
そのとき、一瞬だけアーファリムの表情が動いた。まるで思い人の秘密の逢瀬を知ってしまい、嫉妬する女のような顔を垣間見せる。
「そう、だったんですか。あたしの巫女はわからなくなって久しいですし、託宣がなくてもしょうがない、ですね」
「そう落ち込まないでよ。さっき説明したとおり、今マザーが考えてる作戦にはアーファリムの力が必要不可欠なんだから。だから、こうしてわたしが巫女の代わりになって伝えに来たんだしね」
「……あたしにできるのでしょうか? 『神の座』へ辿り着いて、メロディアに力を貸してもらうことが……?」
「それはアーファリムのがんばり次第かな。マザーに何か協力して欲しいことがあったら、わたしの方から伝えられるから」
そう紅い女が激励しても、アーファリムの表情は優れなかった。
自分への劣等感。友への罪悪感。それは彼女の人生において、大きなウェイトを占める要素だ。
「……そうだね。うん、やっぱりご褒美がないといけないか」
紅い女は友人のことをよく理解していたために、何をすれば彼女がやる気を出すかわかっていた。
だから、その言葉を語らいの最後に口にした。
「ねえ、アーファリム。もしも今回の託宣を成功させれば、君は――……」
――結果として。
その言葉は多大な威力を発揮して、優しい天馬の使徒をもってして、数年後には『狂賢者』と恐れられるようになる努力を約束させた。
だから全ては、その会話、その一言にあったのだ。
オルゾンノットの地に惨劇を呼び込んだ原因は、アーファリム・ラグナアーツの想いの強さと、彼女を唆した紅髪金眼の女に、ある。
――つまりアーファリムの本当の目的とは『神の座』へと至ることだった。
「『聖骸聖典』の作成過程を見て考えついたのです。『竜滅システム』を使えば、擬似的にでも『神の座』へ至ることができると」
使徒の歪みを原初のドラゴンの力を使って解消する『竜滅システム』――それはマザーとは違う形で世界の運営に働きかけるものである。
「メロディアを封印する『月の棺』の向こうへは、どう足掻いても肉体を持ち込むことはできません。強引に突破しても、メロディアの力が解放されて世界が滅んでしまうだけです。ですから精神と魂だけで、ドラゴンを通じて『竜滅システム』に干渉し、『月の棺』の内側に潜り込みます」
「そのための新しい身体?」
「はい。ドラゴンへの同調の際、精神があれば異物と見なされて弾かれてしまいますから。無垢である新しい器を創る必要がありました。それがこの――」
アーファリムは茫洋と宙を見つめる小さなエルフの肩を掴む。
「『竜の花嫁』クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。今は解析装置でしかありませんが、もうすでにあたしの魂の基盤はこの身体ではなく、こちらの身体にあります。
ドラゴンとの完全同調には成功しました。あとは精神さえ元に戻せば、全ての条件はクリアになります。あたしたちの本当の目的を果たす準備は整ったんです」
代わりに抱きしめられていたエルフの少女の瞳に光が宿る。その瞳の色は澄み切った蒼から金色へと変わっていた。
腰に手を当て、めっと叱ってくる。まるで母親が子供の悪さを叱るように。そんな姿を見ていると、少し懐かしいものが込み上げてきた。
それがきっと、招いた者の責任なのだろう。
「一応さ、この状況になるよう準備を推し進めたのはクーでも――」
「――そうなるように仕向けた元凶は、このカトレーユちゃんなわけだしね」
オルゾンノットの地に厄災を招いた全ての元凶は、カトレーユ・シストラバスなのだから。
◇◆◇
ドラゴンは未だ暴れ続けている。
だから、全ての意識はドラゴンと同調している。ドラゴンが喜べば喜びを、悲しめば悲しみを、憤怒や憎悪に狂えば、またソレも狂おしいものを抱く。
クーヴェルシェン・リアーシラミリィという記号のみの存在から、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという名前を持つ存在へ。
それは異物であるクーヴェルシェンを弾き出そうとする摩擦音だ。自己がなかったときならばともかく、自己を保つクーヴェルシェンがここに存在できる時間は数分もない。
雑音が全てであるのならば、それはもう雑音とは言わない。世界が奏でる音色である。目の前に広がる闇。暗く、壊れた、クーヴェルシェンが生きてきた世界。
「やはりあたしは間違っていなかった」
――その真実を、明確な形としてクーヴェルシェンは見た。
その灰色の内側立ったクーヴェルシェンが垣間見たものとは、即ち、自分たちが生きている母なる星に相違なかった。
『――そう、救世主が必要だ』
そのとき、かつて一度だけ聞いた神の声が舞い降りる。
使徒たちが求めて止まない、世界を救うことができる場所。地上から見えている黄金の月とは、この灰色の月を囲む封印外殻――『月の棺』と呼ぶものに過ぎず、重要なものは内側の方にある。
「はい」
クーヴェルシェンは頷く。
無機質な大地が延々と続くそこには、マザー以外にも人の形をしたものがあった。
もちろん、この時間も何もかもが凍結した場所に、普通の人が存在できるはずがない。
最後に別れた日から何も変わっていない親友の姿に、クーヴェルシェンは唇を寒さに凍えるように震わせて、吐息と共にその名を口にした。
「――メロディア」
刹那――眠っていた少女の瞳がカッと見開かれ、黄金の色を迸らせながら、狼のような低いうなり声をあげた。
世界を救い、人を救う。そのためならば、こんなものは痛みの内にも入らない。
その身体はメロディアの認識を受けて、灰色の髪と瞳を持つ、拘束具に覆われた虜囚の少女に変わっていた。その姿はメロディアに酷似している。
メロディアは一瞬呆けたような顔をして、そのあと声にならない怨嗟を瞳にこめた。信じられない。信じられるはずがない、と。裏切り者を見る瞳で。
お願い。もう酷いことしないで。と、寂しそうな子犬の瞳で訴えている。
「―― いつか花を咲かせて実を実らせられるように ――」
たとえ名前を変えても、アーファリム・ラグナアーツだった過去は消えない。そして、目の前の親友を裏切った事実も。
だからできることはただ一つ。大切だった親友と引き替えにした世界を、人を救うことを諦めないこと。
誰もその手で救えない自分だけど、それでも探すことはできる。見つけることはできるから。
「―― わたしはあなたに、水をあげましょう ――」
世界を、人を、親友を救える、救世主を!
「だからお願い、メロディア。あたしに力を貸して! あなたが望んだ、あなたが最後に願った、そんな素敵な可能性のために!」
『リトルマザーを封じるこの世界は、ワタシそのもの。『思考する機械』の唯一の端末。そして、ワタシの最大の機能とは『解析装置』であり『増幅機関』である』
クーヴェルシェンの疑問にマザーは淡々と答える。否、答えるというより説明に近い。
『ここでは特異能力を増幅し、因子に変換して世界全てに埋め込むことが可能となる。リトルマザーしか持ちえなかった力を、今この世界に生きる疑似人類が使えるのも、かつて猛毒と気付く前にこの場所よりリトルマザーが因子を世界中にばらまいたからに他ならない。現在は汝の力を因子に変え、リトルマザーに打ち込んでいる』
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――!!」
そう遠くない内にクーヴェルシェンが下した命令通り、マザーが願った通りの秘術を執り行うだけの人形になるだろう。
先程までの、『竜の花嫁』のように。
自らの力に溺れるものはいても、元来持っている力を引き出されたところで問題など起きようはずもない。問題が起こるような者など、所詮、何をしなくとも滅びる。新人類にまで辿り着いた彼女に、その心配は杞憂といえよう』
「――だって、あたしは救世主様の巫女になるのですから」
――誰よりも救世主の傍で助け、支え、応援できる巫女にしてくれると約束してくれたのだから。
『――何の話だ? ワタシに汝を救世主の巫女に据える思考は、存在しない』
その言葉の意味を理解する前に。
その返事に対して声をもらす前に。
『否。そもそも、汝はこの時この瞬間をもって――……』
唐突に、胸に小さな痛みが走り、クーヴェルシェンの意識は『神の座』より消失した。
「……………………え……?」
クーヴェルシェンの瞳は、カトレーユの持っている違和感の塊にしっかり気付いていた。
「どうして――聖骸聖典を、創っているんですか?」
左手に、水色の背表紙の本を持った親友に。
「ん? ああ」
「大丈夫。わたしたちは親友だし、クーの聖骸聖典はとびきり綺麗に創ってあげるから」
何かが、二人の間で、致命的に狂っていた。
その拍子に――自分の胸に突き刺さったドラゴンスレイヤーを見て全てを理解した。
「何を、なんで、どうして、あたしの胸に、カトレーユの剣が刺さって……」
カトレーユのドラゴンスレイヤーが貫くのは肉体ではなく、魂であることを。
ごめん。クーが救世主の巫女になれるって言ったの、あれ嘘」
「――これが最後の役割だ。果たしたのち、その席を救世主に明け渡せ。汝はもう不必要な可能性なのだから」
「――嘘」
救世主の巫女にふさわしいように作り上げた身体。一瞬で部屋全体が凍りつく。
――ああ、確かに、と、クーヴェルシェンは納得する。
――そうして、再びクーヴェルシェンは『神の座』へと辿り着く。
そこにあったのは、意識が断絶される前にあったものとまったく同じ光景。苦しみに悶えるメロディアと、その前で見守るマザーの姿。
嘘ですよね? と。あれはカトレーユの戯れ言に過ぎないんだ、と。自分と神の意志と目的は同じ。その願いとは、世界と人の救いを求めるものに他ならないと。
「マザー、あたしはあなたと……」
『――世界が歪んでしまうだろう。さっさとこの世界から消えるがいい』
その一言で――アーファリム・ラグナアーツの千年の努力は、全て無駄だったのだと悟った。
容赦がないな、と、身体を震わせながらクーヴェルシェンは思い、涙を流しながら自分を見下ろす親友に問い掛けた。
「――でも、それとこれとは話が別でしょ?」
親友の魂に、己が特異能力を――【死神】を打ち込んだ。
その中で見捨てられた少女が思うのは、ただ、罪悪感。
◇◆◇
カトレーユはしばらく突き刺した剣に力を送り続けたあと、クーヴェルシェンが完全に動かなくなったのを確かめてから、ゆっくりと剣を引き抜いた。
ルドールは両手を広げると、強い視線でカトレーユを睨みつける。
一緒に行動していたときに見せた冷静な面はどこへ行ったのか。暑苦しいほどに大きな声を荒げ、ルドールは頭を下げ続ける。
しかし、それを言ってしまえば、カトレーユもまた世界を救いたいなどという尊い精神など持ち合わせていない。
今日は朝から色々忙しくて疲れた。本来なら、ここでクーヴェルシェンの肉体を破壊し、神獣の因子を取り出して聖骸聖典を完成させなければならないのだが、そこにかかる労力を思うとげんなりする。
「動かないで。わたしを信じるなら」
カトレーユはルドールを無視して力をこめる。
カトレーユの魂に呼応して、ドラゴンスレイヤーは真紅の光を纏った。
その忠告を聞いて、ルドールは一瞬だけ迷った。
この力はまさに『竜滅』とも呼ばれた封印の力であるが、それだけではあるまい。神秘というには禍々し過ぎて、あまりにも神々しすぎる。
「お願いします。クーヴェルシェンを救ってくだされ」
押さえて床に手を付き、そこにあった魔法の氷が溶けて生まれた水たまりをルドールはのぞきこむ。
悪魔――否、死神か。ドラゴンスレイヤーを孫娘の頭へと突き刺す彼女の姿は、万物に死をもたらす死神そのものだ。
「ァ、ァアアア」
痛みがあるのか、口を大きく開けて呻き声をあげる。まるで悪夢にうなされる子供のようだ。やがてカトレーユが剣を引き抜けば、あとには死んだように眠る傷一つない少女がいるばかり。
そのときになって初めてルドールはそれに気が付いた。
「安心していいよ。確かに、わたしは基本的に殺すことしかできないけれど、わたしたちなら何でもできる」
――彼女の後ろに、何かが、いる。
カトレーユは一人ではない。たとえ使徒だとしても、彼女一人ではこの絶対的なオーラはあり得ない。
そう、まるで目の前にいるのは……
「――わたしはこの世界の神たる、マザーの使徒だからね」
炎のように揺らめく髪。そして、真紅ではなく黄金の色に輝く双眸――
それは聖君たる竜滅姫ではない、初代の竜滅姫のみが持ち得たとされる紅髪金眼の使徒の威容であった。
「さあ、惨劇を喜劇に戻したし、そろそろ終止符を打ちに行こうか」
始まりにして終わりの竜滅姫は、剣から姿を変えた真紅の本を掴んで微笑む。
「ねえ、みんな――そろそろ飽きて来たでしょう?」
そうして、『機械仕掛けの神』が舞台に上がる。
惨劇は終わり。
これより先、全ては喜劇以外にありえない。
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