第七話 これは誰の戯れか 元より、ドラゴンとはそういうもの。砂漠に風が吹けば砂嵐が吹くように、海が荒れれば大波が起こるように、この世界に歪みが生まれたとき、それを原因として生じる現象に過ぎない。 ただし、ドラゴンとはかつての使徒。より正確にいえば、使徒の『特異能力』が具現化したものである。そこに意識があるのは間違いない。かつてドラゴンとなったものの残照が、僅かではあるが埋没しているのだ。 とはいえ、精神とは肉体という器を持つことで、正しく機能することができるもの。強すぎる魂に押しつぶされた意識は浮き上がってくることはない。 ドラゴンは本能の赴くまま、敵を潰し、喰らい、焼き尽くす。 ……ならば、こうして思い返していることが、そもそもおかしな話だった。つまり自分を認識しているということなのだから。 ドラゴンと共に同じものを見て、ドラゴンと共に手足を動かし、ドラゴンと共に絶望し、ドラゴンと共に歓喜する。 さながら番の鳥のように――ドラゴンの中に宿ったソレは花嫁のように連れ添う。 あるいはソレに確固たる自意識というものが存在していたら、ドラゴンは嫌悪から『侵蝕』し、
排除していただろう。しかしソレに害意はなく、ただドラゴンが行っている行動に自分なりの解釈をつけ、知識として蓄えているに過ぎない。 ならば、ソレはきっと人間ではないのだろう。 今この都に満ちる、どんな悪夢よりも恐ろしい悪夢にうなされるドラゴンを理解しても狂わずにいられるのならば――それはきっと、ドラゴンと同じ化け物に違いない。 ならば、ソレはきっと英雄に殺されてしまうだろう。 化け物はやがて、英雄に殺される定めにあるのだから。 ルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ンッ!! ドラゴンは歓喜の咆哮を放ち、新たに生まれ落ちる準備に入る。 意志はないとしても――死ぬときは一人よりも二人の方が寂しくないと思うくらいには、ドラゴンはかつて人だった頃の思い出を引きずっているのだから。 避難を行わなかった住人たちが道で倒れ伏す中、空中で漆黒の輝きは生まれる。 人一人の魔力など、ドラゴンを構成しうる魔力量に圧倒的に足りない。 しかし一万、十万もの人間の絶望を糧にすればドラゴンは生まれる。 ならば、この餓えたスラムでドラゴンが復活するのは当然の流れなのか。 漆黒の球体はひび割れ、中から突き出た翼によって破られて、三眼のドラゴンは外界へと姿を取り戻す。 そこからは悲鳴なき地獄だった。 倒れたまま、眠ったまま、ドラゴンの吐いた炎によって人が灰に変わる。 あれだけシストラバス家が苦心したスラム街が崩壊するまで、さほど時間はかからなかった。炎は海のように大地を燃やし、その上をかつて人間だった灰が飛んでいく。 「…………ああ……」 しかし、目を輝かせて見る人影があった。 楽しいことも、苦しいことも、何もかもが曖昧な、商品としての自分……。 そんな少年は、地獄の中に君臨するドラゴンを見て、初めて現実というものを実感していた。 自分を捕らえていたものも、自分を脅かしていたものも、全てを一瞬の内の壊し、燃やし尽くしたそれは、間違いなく救われざるものを救う神であろう。 「…………見つけた。私は、ついに、見つけたんだ……」 恐ろしいからこそ美しい。 「なるんだ。この神に……!」 救われざるものを救う者になると誓って、少年は笑みを浮かべた。 「ルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!」 地獄は続く。ドラゴンが神であるというのなら、それは何ものにも止められない破壊神の行進であった。 「まさか、別の場所に現れるとはな」 クロードは残してきた騎士のことを考え、すぐに意識を切り替える。問題はより市民がいる場所に近付いたことだ。 スラムの住人が避難していないという情報はクロードも知っていた。自分が拡大させてしまった場所だけに思うところもある。それよりも頭を悩ますのは、そこに現れたドラゴンをどうすることもできない現状だ。 状況は何も好転していない。一時退却を選ばざるを得なかったとき同様、ドラゴンを倒しうる手札は存在していない。足止めもどれだけできるか……。 「…………」 クロードの脳裏に、もはや竜滅姫なくしてドラゴンは倒せないのかという考えが過ぎる。 頭を振っても消えない思考は、この場にいた騎士のほぼ全員が考えてしまっていることだろう。 ドラゴンが甦ったことで、その不死性が証明された形になった。伝え聞いてはいたが、実際に体験するのとでは実感に雲泥の差があった。 ダメなのか。やはりダメなのか。 竜滅姫の力なくしてドラゴンを滅すことは不可能なのか。 このままでは守るべき住人たちがただ死んでいくばかりだとすれば、少しでも犠牲を減らすために、ここにいる全員でカトレーユを探すべきではないのか? シストラバスの騎士のユメと、前の領主としての住人への愛。 オルゾンノットに住む人たちが、なぜドラゴンが現れる都でも普通に暮らしていられるのか。それはドラゴンが現れても、自分たちが殺される前に竜滅姫が守ってくれるものと信じているからに他ならない。見方を変えれば竜滅姫の死を願うものだけれど、彼らにも守るべき大切な家族がいるのだ。 (もしも、もしもここにゴッゾ君がいれば、何というのかのう……) カトレーユならば。竜滅姫として死ねなかったことを悔やんでいたアンジェレネならば。 「喝! いない者の意見を求めてもしょうがない!」 クロードは動揺が広がる騎士たち全員に声が届くように声を張り上げた。 「意見を纏める! 我々は選択しなければならない! このままドラゴンと戦い続けるのか、それとも竜滅姫カトレーユ・シストラバスを見つけ出して竜滅を担ってもらうのか!」 どちらを選ぶにしても犠牲は出る。 クロードを見つめる騎士たちの視線から迷いがなくなり、視線が定まっていく。 答えが一つに纏まろうとした、まさにそのとき―― 「ぬがっ!?」 ――クロードの右目に突如として激痛が走った。 幻痛ではない。瞳が直接火であぶられたような痛みを発し、たまらずクロードは右目を押さえて馬上でうずくまった。 「クロード様?! どうされましたか!?」 「大丈夫じゃ」 駆け寄ろうとした騎士に手のひらを向けて制止する。 「少し傷が響いただけじゃ。案ずるな。ワシなら問題ない」 微かな熱が残っているのみで、痛みはすぐに治まった。それも当然か。訴えかけるような痛みは『報せ』だった。報された人間が、その痛みによって動けなくなるのでは本末転倒だ。」 鏡を見なくても、クロードは今自分の右目に何が起こっているのかは分かっていた。 初めて与えられた報せ――それが意味していることとは即ち、たとえこの場で騎士たちがどちらを選択したとしても、その選択にクロード・シストラバスが同行することはできないという事実に他ならなかった。 去年、母親と一緒に父親におねだりをした結果手に入れた自分の部屋。 「……おかーさま」 大きなベッドの上、枕に顔を押しつけながらボロボロと涙を零す。 リオンが苛まれていた孤独感は、昨日眠るまで一緒にいてくれた母親が、今朝から姿を消していることにあった。 昨日街へ一緒に出かけたとき、リオンは自分の傍から大好きな母親がいなくなってしまうものと錯覚した。感じた不安は拭いきれず、夜になったところで母親と、そして同じくらい大好きな父親と一緒に眠りたいと思った。 両親の間……それがリオンにとって、最も安心できる場所だ。 自分の感じたものは一時の不安に過ぎないと安堵して眠って、だけど目を覚ませばそこに母親はいなかった。そして獣の咆哮が聞こえ、父親もまたいなくなってしまった。今、リオンは厳重な警備の下、半ば軟禁のような形で守られていた。 もちろん、自分がいたところで何の役にも立たないことは承知している。むしろ居るだけ邪魔だろう。 それが辛い。 リオンにできることといえば、母親が無事に見つかり、父親が無事に帰ってきてくれるのを神に祈ることだけだった。 ……そういう意味では、まだリオンは子供だったのだろう。 「そう言われても、オレにはわからんのだが」 避難がされ、誰もいなくなった街の中で、ギルフォーデが親しげに話しかけてくる。 細い瞳で何を見ているのかはわからないが、彼はボルギィには見えない何かがここから見えているらしい。いつもの二割り増しで口角がつり上がり、肩を震わせている。 「ああ、そうですよねぇ。こればっかりは魔法使いの特権というものですかね、はい。とりあえず、作戦決行のチャンスがやってきたと思っていただければ構いませんので」 なら最初からそう言え――そう言ってやりたかったが、相手が今回の雇い主ということで口を噤んだまま、ボルギィは地面に突き刺しておいた愛用の剣を引き抜く。 刃渡りが二メートル近い、厚みを持つ両刃の大剣。ソードブレイカーと呼ばれる類の、その重量と頑丈さで相手の武器を砕き、肉を潰す剣である。腕力には自信のあるボルギィにとって、一撃で敵を葬り去るこれが一番しっくり来る武器であった。 「こんな街の南まで連れて来られたわけだが、オレは一体何をすればいいんだ? 言っておくが、戦う以外のことには使えないぞ」 「そんなことは分かっていますよ。『破壊者』ボルギネスター・ローデといえば、帝国随一の傭兵さんじゃないですか。用法はしっかり心得ていますとも。 そう言って、ギルフォーデは近くの民家の玄関口に座り込んだ。 肩すかしを食らったボルギィは持ち上げた剣を再び近くの地面に突き刺す。武器とは誰かを傷付けるために握るものだ。不必要なときにまで握っているべきではないというのが、ボルギィなりの流儀だった。 「ボルギィさんも少し休まれてはいかがですかぁ?」 「…………」 ちょいちょいと手招きされて、仕方なくボルギィはギルフォーデの隣まで行って、壁にもたれかかった。 そうすると、ギルフォーデが見ていたものと同じ光景が目に入ってくる。 貴族の邸宅である。立派な門構えに、堂々とした造りは聖堂にも似た赴きを感じさせる。玄関までの道すがらには花々が植えられていたが、今はそこへと足を踏み入れた者たちによって無惨にも踏み散らかされていた。中には、避難した貴族が残した留守番らしき衛兵の血を吸い込み、赤く染まった花もある。 「――ギルフォーデ様。用意、整いました」 「はいはい、ご苦労様です。では早速始めてください」 「はっ」 返礼の声も平坦に。 全員が揃いの、藍色の生地に銀の刺繍が入ったマントを羽織っている。それはジェンルド帝国の軍事研究の要――『魔法研究所』所属の魔法使いであることを意味していた。 生え抜きの魔法使いばかりが、二十人も他国の貴族の邸宅に踏み行っている。グラスベルト王国王政府が知れば立派な領土侵犯に該当するが、ドラゴンのお陰で人目につくということはなさそうだ。もっとも、どちらにしろ今のグラスベルト王国がジェンルド帝国に喧嘩を売ることなどあり得ないだろうが。 「奴らは一体何をするつもりだ?」 ギルフォーデが連れてきた彼らの行動目的を、同じ雇われ者とはいえボルギィは知らない。 「推測するに、何かの魔法儀式を行おうとしているようだが」 「大当たりですよぉ。いえですね、実は最近アカデミーの方で実用化された軍用魔法がありまして。それを少々実験してみようという話になったんですよぉ」 それは果たして誰からの命令か。アカデミーの魔法使いを派遣できる人物など限られており、推察は容易かったがボルギィは追求しなかった。これは踏み込むべき話題ではない。 「だが、なぜ魔法の実験のために貴族の邸宅を?」 「そちらの建物は相当古いものらしくて、儀式場の条件を満たしているんですよぉ。さすがオルゾンノットの都という感じで他にもたくさん儀式場は点在しているのですがぁ、ここが一番これから使う魔法の効力を引き出してくれる儀式場でしたので」 「……オレは、ベアル教の目的を完遂させるために雇われたのではないのか?」 喜々として実験の内容を騙るギルフォーデに、ここ二ヶ月近く、ベアル教と寝食を共にさせられたボルギィは怪訝な顔つきになった。 ボルギィがとある事情でギルフォーデという男を捜し始めたのが一年前。見つけることができたのが三ヶ月前のことである。ギルフォーデを探していた目的を果たすためには、彼からのお願いを聞かなければならないことになったため、今ボルギィは行動を共にしているのだ。 今の今まで詳しい任務内容については知らされていなかったが、ベアル教内で生活している内に、任務内容はベアル教の目的を完遂させることと予想をつけていたのだが、実験を一緒になって見ているだけとはこれ如何に? 「そうですねぇ、ちょっと魔法陣やら何やらでもう少しだけ時間がかかりそうですし、説明させていただきましょうか」 ボルギィの顔をじっと見たギルフォーデは、二度頷いてから語り始めた。 「ボルギィさんは彼らベアル教の目的が何かご存じですかぁ?」 「ドラゴンと『竜の花嫁』を同調させ、その生態を知ることではないのか?」 「本当にそう思います?」 「……いや」 ボルギィは教祖ベアルよりそう聞いていたが、その話をされたのはベアル教に来た日のことであり、全てを説明してくれたとは思っていない。教祖ベアルが最近は病床に伏せっているというのもおかしな話だ。 「オレは、その程度のことに竜滅姫を誘拐する危険を冒すとは思えない。ドラゴンを知ることが『救世存在仮説論』なる理論を証明する一歩になるとしても、ドラゴンが現れるのは六十年周期。エルフのアンジェロたちはともかく、ベアルがそれで良しとするとは到底思えない」 「おや? 意外に頭がよろしい」 「傭兵は、状況をきちんと把握できなければ使い捨てられて死ぬのみだからな」 なるほど、とギルフォーデは頷く。 「まあ、その考え方は間違っていませんねぇ。そんな蟻の一歩で満足するのは、信仰狂いの一般信徒たちだけです。研究者はそうは行きません」 「なら――」 「ボルギィさんの推測通りです。『救世存在仮説論』には先があります。仮説なき『救世存在論』が。 思いの外軽々しくネタバラシしたギルフォーデの言葉の内容を、しっかりとボルギィが理解することができたのは一分ほど後のこと。 人口の使徒を生み出す――その意味に、その狂気に、信心深くないボルギィとはいえ背筋が冷たくなった。 「……そんなことが、可能なのか?」 「可能なんですよぉ、驚くことに。さすがに私も最初知ったときは絶句してしまいましたが。いやはや、『狂賢者』様に手伝ってもらったとはいえ、アンジェロ・リアーシラミリィは正真正銘の天才ですよ」 『狂賢者』か、アンジェロか、どちらかはわからないが僅かに羨望と畏怖を声にこめて、ギルフォーデは話を続けた。 「で、その秘術――『聖誕』という儀式を行うのが、ベアル教の本当の目的です。アンジェロ・リアーシラミリィの目的と言い換えてもいいですけどねぇ。自分が使徒になることで、彼は『救世存在論』を証明しようとしているわけですから」 そこで一呼吸置くと、ギルフォーデはクツクツと喉の奥で嗤った。 「何だかボルギィさんのことが気に入っちゃいましたからさらに詳しくお話しますとぉ、アンジェロさんは使徒になって世界を手に入れるとか、そんな子供みたいなことを真面目に目指しているんです。 「…………それは……」 簡単だ。短い付き合いであるボルギィから見ても、ターナティアが夫に捧げる愛の深さは相当なものだ。そんな彼女が夫から当然与えられているものと信じている愛が偽りに過ぎないと知ったら…… 「おっと、すみません。こういう夫婦のお話はボルギィさんには禁句でしたかねぇ?」 声を詰まらせたボルギィに、ギルフォーデが謝罪の言葉を口にする。しかし、その口はニヤニヤと笑っていた。 「ボルギィさんも言ってしまえば、奥方への愛のために殉じてるわけですしぃ、ターナティアさんに同情してしまいますよねぇ。考えが及ばず申し訳ありません。 「どういうことだ?」 「言葉の通りです。言ったでしょう? 彼は本気で世界を支配するつもりだって。だからこそ、使徒になったからといってすぐにどうこうできるなんて思い上がっていません。まずは使徒として当たり前のように聖神教のトップに居座って、じわりじわりと他の使徒を食い殺していく腹積もりなんですよぉ」 「そんなアンジェロが、ベアル教という組織を使い、反則に近い形で使徒になった事実を葬り去らないわけがない、か」 「自分に付いてきてくれた信徒たちも、妻も、全てを全て今回の儀式が無事終わったときに葬り去るつもりです。生き残れるのは、まあ、使徒になったあとの世界支配に必要な人物の指示で動いている者たち。つまり――」 ギルフォーデは自分を指差し、ボルギィを指差した。 「――私とあなただけ、というわけです」 あとは全員死にますよ、とギルフォーデは肩をすくめた。当たり前のように、繋がりが薄いとはいえ仲間を殺すと。 『世界征服』――そんな夢想を本気で実現しようとしている者が、目の前にはいた。 「……一応、理解はした。それなら、やはりオレの任務はベアル教の目的を完遂させることで合っているんだな」 「正確にいえば、その先にある世界征服のための布石ですねぇ。朝にあなたに頼んだお仕事と、言ってしまえば同じことを繰り返して欲しいわけです」 「つまりもう一人の竜滅姫を誘拐しろと?」 「いえいえ、誘拐したところで意味なんてありません。私たち以外の事情を知るものは皆諸共全員死んでもらわないといけないわけですから」 ギルフォーデは立ち上がると、滔々と魔力が溢れている儀式場の様子を見て、歪んだ笑みを浮かべた。 「千年近くも生き長らえたのです。そろそろ、竜滅姫の歴史に終止符を打ってあげるとしましょうかねぇ」 それは、つまり……。 ボルギィが声もなく息を呑む目の前で、ついに恐るべき企みは発動の兆しを見せる。 『『古の契約文に則り 我らここに暗黒の叫びを記述する』』 ギルフォーデが手を挙げるのに合わせ、儀式場を囲む魔法使いたちが一斉に、声を揃えて魔法の詠唱を始めた。 その足下に巨大な魔法陣が浮かび上がり、近くにいるボルギィに大気の震えを感じさせるほどの魔力を迸らせる。 それは普通の人間が――いかな精鋭とはいえ扱える魔力量の限界値を遙かに超えていた。 『血肉を捧げ 魂を削り 闇の雷をここに招来する』 ふと、そこでボルギィは思い出す。ギルフォーデが口にした今回の生存者、そこに彼ら紺染めの魔法使いたちが含まれていないことを。 「クックック。素晴らしい。実に素晴らしい魔法ですねぇこれは! 術者の身体を生け贄に捧げて、敵を屠る禁忌の術式! 暗黒の大禁術!」 ギルフォーデが喝采の声をあげる前で、詠唱の通りに、一人、また一人と魔法陣の上に立つ魔法使いたちの身体が崩れていく。黄色の魔法陣が虫の羽音のような音を出し、頭上に巨大な雷球を生み出す。 狙いは、ここより一キロ離れた場所。 「ここに神話がまた一つ終わりを告げる! ここからは、今この現実を生きる我らがジェンルド帝国の時代です!!」 「……オレに、子供を殺せというのか……」 ボルギィが自分の任務を理解した直後――雷鳴が轟くのと同時に、空から落ちた巨大な光条が、シストラバス家の居城を吹き飛ばした。 雷鳴の音を遠くに聞いて、アンジェロは笑み浮かべながら自分がしたためた論文を指で弾く。 これでカトレーユ・シストラバスに引き続き、将来の憂いも取り除かれた。 その威力は、古の城壁に囲まれたシストラバスの居城ですら吹き飛ばすほどのもの。たとえこの一撃でリオン・シストラバスを殺すことはできなくても、ギルフォーデが周到に命を刈り取ってくるだろう。そういう方向性でいうなら、ギルフォーデに対するアンジェロの信頼は大きい。 『――生かしておいても、『不死鳥聖典』がなければただの子供だろうに。周到な男だな』 自室で一人計画について思いを巡らせていたアンジェロを、部屋の隅に置かれた水晶玉から、突然声がかけられた。 冷たく、低い男の声だ。声だけでも自分に対する絶対の自信がうかがえる。 アンジェロの元にいる、ディスバリエとギルフォーデ両名を寄越した協力者であり、『満月の塔』にいたときからパトロンとなってくれていた男だ。今こうして儀式に臨めるのは彼あってこそである。 「誰もやらなかった未踏の場所とは、前もってあらゆる準備を整えてから挑むべきものです」 台座に置かれた遠話の水晶玉を手にし、アンジェロは『玉座の間』へ移動すると、そこにあった玉座とも呼べない椅子に腰掛ける。 「この流れは当然であり、結末もまた当然の場所へと辿り着く。私の作戦に失敗の文字はなく、私はただここで座して新生の時を迎えるのみ。皇帝よ。あなたがその空虚な玉座で待ち続けているように」 『なるほど。全てが決定事項であるのなら、どんな犠牲や非道にも心揺らぐことなく椅子に座り続けられるということか。余が生まれながらにして心が揺らぐことがないのならば、貴様は全てを計算することで心に波紋が立たないようにしているわけだな』 酷くつまらなそうにグランヌスは相づちを打つ。冷たく凍てついた冬の国の城にいるだろう彼は、未だ外の吹雪よりも冷たい凍土の中に在るらしい。 『その言葉、期待はさせてもらおう。『狂賢者』やギルフォーデまで与えたのだ。何も果たせず失敗することなど断じて認めぬぞ』 「心配は必要ありません。あなたはそこでゆるりと待つがよろしい」 アンジェロは誰もいない広間の中で、論文と指輪を手で遊びながら、当たり前のように大国の主と同等のように振る舞う。 「全ては私の手のひらの上。『儀式場』はすでに完成し、『術式』もまもなく手に入る。血は河を作り、『生け贄』たちがすぐに血の華を咲かせることでしょう」 アンジェロ自らが使徒に生まれ変わる『聖誕』に必要なものは、『儀式場』『術式』『生け贄』の三つ。 儀式場はすでに完成している。ドラゴンによって悪夢が感染し、現実と夢との境目があやふやになったここは、儀式場の条件である『奇跡が起きるかも知れない場所』として機能している。 術式もまもなく手にはいるだろう。ドラゴンが持つという『転生』の術式は、『竜の花嫁』を使って現在解析のただ中だ。今はターナティアが装置を見ており、手に入り次第自分のところへやってくる。 一番面倒な生け贄。これだけは少しばかり手間取っていると言える。人々の血は十分ドラゴンが流したが、そのドラゴンこそが生け贄なのである。術式が手に入り次第、手の内にある竜滅姫を使ってアレを滅ぼさなければならない。 全てが揃ったとき『聖誕』は始まりを迎え、アンジェロは人の殻を脱ぎ捨てて使徒に進化する。 あとはこの件に関わった全員を皆殺しにし、堂々と使徒として聖地に降誕すればいい。生まれて時間が経ってから使徒として名乗りをあげるものは、少ないとはいえ存在する。金色の瞳さえあれば、誰も疑いはしないだろう。 不安要素はない。そのことごとくを排除したアンジェロにとって、輝かしい未来はもはや約束されたものも同然だった。 『いいだろう。そこまで言うのであれば、余は吉報を待つとしよう』 アンジェロの余裕を感じたのか、グランヌスが通話を終わらせる素振りを見せる。 その前に、彼はほんの少しだけ愉しそうな口振りで言った。 『しかし、一つだけ助言をするのならば――そう、何もかもが予定通りに行く世界などつまらないということだ。 遠話が途切れる。使用限界を迎えたのか、アーティファクトの水晶玉には罅が映え、やがて砂の城が崩れるように崩壊した。 「何を馬鹿な。私の作戦は完璧だ」 わざと不安にさせようとするグランヌスの残した自嘲めいた忠告を、しかしアンジェロは鼻で笑えなかった。 自覚しているとおり、作戦は完璧だ。事情を知るものは全てアンジェロの手の内にあり、その全てに対して一瞬で命を奪う算段がついている。彼らが自らの失態を知るときは、命を失ったあとだろう。 無論、『聖誕』のことを知る人間は外にはいない。かつてターナティアが下手を踏んだことで気付いた『満月の塔』の学長ミリティエ・ホワイトグレイルは、ギルフォーデが派遣され口封じがされた。他には誰も…… 「……まさか、な」 しかし一人だけ。 その男がアンジェロの企みに、かつて誰も成し遂げたことのない神の如き閃きに気付いているはずがない。――否、誰も気付けるはずがない。 「そう、問題はない。あの男はただ、私が使徒として目の前に現れたとき、無様にも頭を垂れて跪くのみだ」 そう口にしつつ、グランヌスの言葉がじわりじわりと毒のようにアンジェロの心を苛んでいく。 「あの最低の父親が、今更私のことなど気にするはずが……」 そう、かつてアンジェロが『救世存在仮説論』についてもらしてしまった相手とは、父であるルドーレンクティカ・リアーシラミリィに他ならなかった。 悲鳴を上げて、また一人人間が氷像と化す。 「ふむ。思ったよりも信徒の数が多いな」 生かしたまま氷の棺に閉じこめたのは、ベアル教のアジトへと侵入したルドールであった。 これまで五人、大きな悲鳴も零させずに敵の無力化に成功している。身につけている服装や聞き出した話から、ここが予想通りベアル教の秘密の地下アジトであることは判明していたが、ややここに来てルドールは足踏みを強いられていた。 「人が多い方へと行けば、指導者の許へ行けるとばかり思っておったが……どうしてなかなか、入り組んだ迷路のような神殿だな。妨害もされておるし、魔力も判別しづらい……」 三度目となる探査の魔法を使ってみるが、シストラバス家で行ったとき同様、この場に魔力の気配があるのがわかるのみ。さらに魔力の集まったただ中にいるため、その数や詳細な場所までは、魔法の制御にかけては相応の自負を持っているルドールでも割り出せなかった。 こうなると、魔法使いといえど足でしらみつぶしに回らないといけない。 「年寄りにこれはきついものだな」 ルドールは美しい顔に似合わぬ年寄り臭い溜息をついて、まっすぐ続く石造りの道を進んでいく。 (しかし、儂を超える魔力は一体何者なのか……少々気になるな) エルフであるルドールの魔力量は、高位の魔法使いのそれに比べても倍以上ある。そんなルドールを超える魔力となれば、使徒に匹敵するレベルということになる。 一つは囚われているであろうカトレーユ・シストラバスで間違いあるまい。以前会ったときも、尋常ではない魔力値を見せていた。竜滅姫は高い魔力を持つという。 (アンジェロが何かしらの方法をもって嵩まししている可能性はあるが、まあ、考えたところで仕方あるまい) 通路の先に人の気配を感じて、ルドールは手のひらに白い魔法陣を浮かべる。 「地上の方も気になる。そろそろ、暴れさせてもらうとしようか」 凍りついて脆くなった床は自重に耐えきれなくなって、下の階へと落ちる。ルドールは軽やかに下の通路へ下りたって、再び氷結の魔法をもって床に穴を開けた。 「て、敵襲だ! 侵入者がいるぞ!」 上の階ではいよいよ騒ぎが起き始めたが、ルドールは無視して下へ下へと突き進んでいく。 地属性の魔法で短期間に作り上げたものなのだろう。建築技術を学んでいない魔法使いの即席作業では、ルドールの魔法を防げなかった。次々とショートカットするルドールに、迷路はもう意味をなさない。 やがて、床がぶち抜けなくなる。どうやら最下層に到着したらしい。 「ここにおればよいがな」 十枚くらい抜いた床に空いた穴を、ルドールは腕の一振りをもって氷で塞ぐ。これで敵の動きはいくらか制限できたはず。あとはアンジェロを見つけ出し、行おうとしている恐ろしい儀式を止めるのみ。 「……人工の使徒を創り出そうとするなど、アンジェロ、お主は神すらも恐れなくなったのか?」 ルドールはベアル教が――アンジェロがやろうとしていることを把握している。それは息子アンジェロから届いた『救世存在仮説論』という論文に目を通し、それが仮説ではなくこの先に真実の論文があると気付いたからだ。 ベアル教と手を組んだ彼は、人工の使徒を生み出そうとしている。 そうならないために、そうさせないために、ルドールは来た。 地下深いため、空気は淀み、息苦しさを覚えた。感じていた強い魔力も痛いほど感じる。この最下層に、全て集まっているようだ。 やがて、通路の脇に大きな鉄の扉を見つけた。 いつでも魔法を使える状態を維持しながら、ルドールは重い鉄の扉を開く。 「っ!?」 そこで見たものに、思わず鼻を押さえ、目を見開いた。 「…………」 部屋に入って、まず目に入ったのは一人の女性だ。 牢屋らしき部屋の中央にぼうっと立つ、紅い髪と瞳を持つ美女。間違いない。カトレーユ・シストラバスその人だろう。 しかし、ルドールが瞠目した理由はカトレーユが見つかったからではない。彼女が全身頭の先から足の先まで、汚らわしい液体で濡れていたことにあった。 「これは……なんという……」 彼女と部屋の惨状に目を覆いたくなる。何度か戦争を経験したルドールであっても、この部屋で起きただろう行為には嫌悪が沸き立つ。 誰からも尊ばれ、愛されるであろう竜滅姫カトレーユ・シストラバスは―― 「あなたがやられたのか? カトレーユ殿」 部屋には数にして二十人近い人間がいたが、生きているのはカトレーユを除けば、牢屋の中で震える老人のような男のみ。他の人間は皆等しく、身体から首が切り離され、血の海の中に沈んでいた。 両断された首の切断面は鮮やかなほど綺麗で、それがなまじ魔法によって散らばった死体などよりも、猟奇的な雰囲気を作りだしていた。 「いや、さらわれた女囚が何をされかけたかは想像がつく。仕方がないといえば、仕方が――」 ルドールが目の前の光景を受け入れいたそのとき、濃密な死の気配が迫ってきたのを察知し、ルドールは最速で防御の魔法を展開していた。 白い光が弾け、氷の障壁がルドールの身体を守る盾となったときには、部屋の中心にいたカトレーユは目の前まで肉薄していた。予備動作も足音もなく、まるで瞬間移動したかのような速度と自然さで近寄り―― 「…………」 一閃。ルドールの首を狙って、刃は振り切られた。 その一撃だけで、どれだけの技量をカトレーユが修めているかは一目瞭然だった。 病弱だった彼女は剣術を習っていないと聞いていたが、その技量は並の戦士を遙かに超えている。いや、それは剣技ではなく殺人術の類だ。相手の首を切り落とすことだけを突き詰めた刃は、断頭台の刃にも等しかった。 そして、何の変哲もない剣は容易くルドールの障壁を切り裂く。 こうして技量に戦くことができたのは、一重にルドールの首筋一枚を切り裂いたところで、カトレーユの方が剣を止めたからに他ならなかった。 「あれ? 君、似てるけど、さっき会ったアンジェロってエルフじゃないよね?」 「……儂はアンジェロではありませぬ。アンジェロの父である、ルドーレンクティカ・リアーシラミリィです。以前、我が主である使徒フェリシィール・ティンク共々ごあいさつしたのですが、お忘れですかな? カトレーユ殿」 「ああ、道理で何か見たことがある顔だと思った。借金の取り立てコンビの片割れだ」 カトレーユは剣を引くと、何ら悪びれた様子もなく納得だけした。 「で、そのルドールさんがこんな場所に何の用?」 「あなたの捜索をゴッゾ殿より頼まれておりました。それに、あなたの言うアンジェロという不肖の息子に用がありましてな」 「そう。ゴッゾ、やっぱり心配してたんだ」 カトレーユは少しだけ嬉しそうな顔になったかと思えば、すぐにどこか悲しそうな表情になった。 「てことは、もうドラゴンは暴れてるってことだよね。やだやだ。面倒だね、ほんと。もう遊びは終わりってことなんだから」 それは竜滅姫としての嘆きか、あるいは一人の女としての嘆きか。 「さて、ご覧の通り君の守りたかった人たちは、こうしてわたしが殺しちゃったわけだけど……どうする? 一緒に行く? それともわたしに復讐する?」 牢屋の中にいた男は、目を大きく見開いて、開いた扉と突き刺さった剣とを交互に見やった。 彼が誰かはわからなかったが、敵ではないのだろう。男が剣を鍵穴から抜いても、カトレーユは一切動揺はしなかった。あるいは彼が何をしてもどうすることもできないという自負があるのか。恐らく、両方とも間違ってはいないのだろう。 「私は罪人だ。自分がしてきたことは変えられない。元より、最初から裁かれる時が来るのだという覚悟はあった」 それは酷く穏やかな声であった。 「……そう」 カトレーユは躊躇わなかった。差し出された剣の柄を握りしめたかと思えば、目にも映らぬ速さで剣を振るった。首を落とされた男ですら、しばらく死んだことに気付かないほどの鮮やかさで。 「誇っていいよ。少なくとも、君の優しさだけは本物だったと思うから」 だから、手向けの言葉を男は聞くことができたのだろう。 その首が落ちるよりも早く口元には笑みが浮かび、世界を救う姫に賞賛された誇りを胸に、名も知らぬ罪人は仲間たちと同じ末路へ辿り着く。 「ああ、だから人を守りたいとか、世界を救いたいとか口にする人は嫌なんだ。満足そうに死んでくれて……」 カトレーユは血で濡れ、半ば以上使えなくなった剣を手にルドールの方を見た。 「じゃあ一緒に行こうか、ルドールさん」 血塗れになっても変わらぬ美貌と輝き――
オルゾンノットに降り立ったドラゴンに、意志と呼ぶべきものはない。
そこに疑問が入り込む余地もない。歪みの原因となっている『特異能力』を消し去られるまで、永遠にだって破壊を続ける。
ドラゴンに意志がない以上、恐らくは、別のナニカが認識を始めているのだ。
破壊を共にし、苦楽を共にするというのなら、その末路はドラゴンと同じく死滅である。それでも良いというのなら、本能の限り破壊を続けよう!
胎動が起きたのは、オルゾンノットの都の南西部にあるスラム街だった。
その糧となっているのは眠り人たち。その身体から生命力にも等しい魔力が吸い出され、漆黒の球体を作り上げる。
元よりドラゴンという形は、善悪関係なく、人の渇望が生み出したものなのだから。
一度殺されたドラゴンは怒り狂い、暴れ回り、辺りを瓦礫と山に変えていく。
まるでこの世の終わりのようなそんな光景を、
例外的に眠らなかった一人の少年。しかし、意志が強かったというわけではない。
そもそも現実と夢との境目が曖昧な環境にあったその見目麗しい少年にとって、悪夢というのはこの現実に等しかった。
自分は不幸なのだろうと、何となくそう思っても、そこから逃げ出せない自分……。
少年はこの時この瞬間、信仰を見つけ、地に足をつけて自らの存在意義を知る。
◇◆◇
シストラバスの居城へと戻る道中にあったシストラバスの騎士たちの耳にも、スラムにドラゴンが現れたという情報はすぐに伝わってきた。
如何に紅き剣を使おうとも、ただ人では主君を守ることはできないのか。
ならば、せめて後悔しないように、選んだものに全力で向かえるようにしよう。
「そうか。これが、契約か」
リオン・シストラバスの姿は、父母のいなくなったシストラバス家の居城の内にあった。
手に入れたものの、一人で眠るのが寂しかったりして、だけど上手く甘えられずに寂しい夜を過ごしたりしてきたリオンだったが、今はそれ以上の孤独に苛まれていた。
それが悔しい。
自分のいる場所は安全だと思い込んでいて、自分が狙われることはないと、そう無条件に信じ込んでいたのだから。
「さてさて、どうやらドラゴンは首尾良く街を恐慌に陥らせてくれてるようですよぉ。ボルギィさん」
とはいえ、作戦はこれより始めますが、貴方の出番はもう少し後になりますねぇ」
花壇を踏み荒らし、その庭を我が物顔で占拠しているのは、二十人あまりの魔法使いたちだった。
使徒とドラゴンを同一視するに足る理由を書き連ねた論文が『救世存在仮説論』だとするなら、『救世存在論』は使徒とドラゴンは同一のものであるという確信の上に成り立った実戦書。あるいは説明書と言ってもいいでしょう。
『救世存在論』には、ただ人が使徒になることができる禁断の秘術が記されています」
妻のターナティアさんは、自分たちの愛の証でもある『救世存在論』を証明することが最大目標なわけで、若干食い違ってますねぇ。いえほんと、アンジェロさんが実は自分のことを使い捨ての駒としか思ってないことをターナティアさんが知ったら、彼女一体どんな顔をすると思います?」
とはいえ、やがてこの二人の愛が終局を迎えるのは間違いありませんよぉ。アンジェロさん、自分がベアル教の人間だと知っている相手は、一人残らず始末するつもりですから」
恐ろしいのはアンジェロか。それともギルフォーデか。あるいは彼らと繋がっているだろう帝国の王者か。
ここからでも確認できる巨大な古の城を見て、ギルフォーデは今日最高の笑みを浮かべた。
「地獄の門よ 開け」
最後の魔法使いが詠唱を完成させ、消えるのと同時に、オルゾンノットの都にかかった雪雲を一条の雷光が吹き飛ばす。
◇◆◇
「これで、覇道へまた一つ」
ギルフォーデの用意した魔法師団が行使した魔法――[雷咆]はディスバリエ・クインシュが開発し、代償の大きさから破棄された禁呪である。
それもそうだろう。この声の主こそ、神聖大陸エンシェルトの北部を一代で支配せしめた、グランヌス・トリスタン・イコルス・エル・ジェンルド皇帝その人であるのだから。
そしてもう一つ必要な使徒であるが、かねてからの予想に沿って、自らの死地とも知らずに使徒フェリシィール・ティンクがこの都へ向かっている最中であるとの報告が入っている。
予想はそれ以上の何かに裏切られる。そんな世界であることを、ああ、余は願って止まぬのだ』
一人だけ、そのさわりに触れさせてしまった人物がいる。
「ぐぁあっ!」
とりあえず防衛の形からして、組織にとって重要な人物は奥にいるに違いない。ルドールが目的とする人物――息子であるアンジェロも、いるとすれば地下深いところだろう。
しかし彼女一人では、この規模は説明できない。
瞬間――前方の通路が全て、一瞬にして凍りついた。
そんなものが生み出され、尚かつベアル教の目的のままに動いたら……戦争になる。とても大きな戦争に。たくさんの人が死ぬだろう。
決意を固めながら、ルドールは通路をさらに突き進んでいく。
「む? 人の気配……」
また通路は先へと続いているが、開けないという選択はなかった。何が出るかわからないが、ルドールはもう引き返せない。
――手に血塗れの剣を握り、全身返り血を浴びて突っ立っていた。
その足下に転がる、死体。死体。死体。
カトレーユ・シストラバスは握っていた剣を放り投げる。その切っ先は寸分違わず、囚人が入った牢の鍵穴に突き刺さり、ガコン、という音と共に鍵が壊れて扉が開いた。
緩慢な動きで牢から出てきた白髪の男は、カトレーユに近付くと、恭しく剣を差し出した。
「後悔があるとすれば、弱い人間であったがため、覚悟を忘れて悪魔の囁きに乗ってしまったこと。共に行っても邪魔になるだけです。ここで大切な仲間たちが罪を贖うことになった今、始まりとなった私も、またここが死に場所なのでしょう」
死に場所を確信した武人の如く、澄み切った声であった。
「どこへ――いえ、何をしに?」
「説明するまでもないでしょ。彼女が何をしようとしているか、だいたい把握したから、早く『不死鳥聖典』を取り戻さないと。
この惨劇は親友が頭を悩ませて描いたもの。なら、わたしがちゃんと終わらせてあげないとね」
そのとき初めてルドーレンクティカ・リアーシラミリィは、竜滅姫という存在の尊さと恐ろしさを知った。
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